一
空が東から真鍮のようにめらめら赤くなり、暑苦しい熱が石や木や鉄から放射され、背中をジリジリ照りつける熱波は、まさに焼き物を連想させた。五百万余の人々がロンドンに暮らし、休暇シーズンの真っ最中だというのに、ハアハア肩で息をし、雨乞いしても一滴も降らない。
八月初旬の三週間、太陽が地獄火を降り注ぎ、どの建物も蒸し風呂になり、そよ風一陣吹いて煉獄を和らげる気配すらない。低俗新聞さえ日射病人の数を書かなくなった。熱波のため新聞記者がへばったようだ。
日照りは四月から多少なりとも続いている。噂では淀んだ河川から瞬く間に伝染病が田舎に広がったとか。ずっとロンドンの水道各社は供給に限りがあった。でも警告する風もなく、水不足のようには見えない。熱波は我慢ならなかったが、そのうち止んで、ロンドンは再び息を吹き返すよ、などと語り合っていた。
ダービシャイア教授が首を振って、赤い粉をちりばめたような空を見上げた。のろのろ家路へ歩きながらハーリ通りに向かい、帽子を手に持ち、灰色フロックコートを大きくはだけ、白シャツを出していた。
電動ファンが四一一番地のホールでうなっている。それでも屋内は暑くて重苦しかった。食堂にあかりがポツン、部屋は全面くすんだオーク材、暗褐色の壁は科学者にお似合いだ。
名刺が一枚テーブルの上に置いてある。ダービシャイア教授はうんざりした様子で名刺を読んだ。
『ジェームズ・P・チェイス』
『モーニング・テレフォン新聞社』
教授がうめいた。
「会わなくちゃいけないなあ。断るだけでも会わなくちゃ。忌々しい新聞記者らがもう聞きつけたのかなあ」
そり上げた強面にちょっと不安をうかべ、仕切られたビロードのカーテンをくぐり、一種の研究室、つまり家の中でよく見かけるような場所におさまった。
教授の専門は大規模疾病対策だ。ダービシャイア教授は伝染病と渡り合える男、常に頼りになる男であった。
新聞記者がしつこいのは今に始まったことじゃない。きっと前記チェイス記者が求めたのも単に特ダネ、つまり灼熱天気にかける報道カレー粉ってとこだろう。でも、もしかしたら強引なアメリカ人が偶然に事実を掴んだかもしれない。ダービシャイア教授が電話機をひっつかんでハンドルを回した。
「もしもし。はい。ケンジントン三〇七九五をお願いします……。ロンデールかい? ああ、ダービシャイアだ。すぐ来てくれないか? ああ、暑いのは知ってるが、大事でなきゃ、呼び立てやしないよ」
小声で約束の返事があったので、教授は受話器を置いた。それから煙草に火をつけて、ポケットから取り出したノートに何事か書きつけた。鉛筆で書き込んだ文字は細かいけど達筆だ。
椅子にふんぞり返った姿は四面楚歌の将軍のようにはちっとも見えなかったが、実際はそうだった。しかも薄毛の石頭に抱えた秘密は、ささやき一つでロンドンを発狂させかねなかった。
教授はノートを置いて、物思いにふけった。やがて玄関のベルで起きると、ロンデール医師が入ってきた。教授の顔が輝いた。
「よく来た。会えてうれしいよ、ロンデール。恐ろしい一日だった。ベリティ執事、チェイス氏が来たらここへ呼んでくれ」
大男のベリティ執事が返事した。
「チェイス氏は一時間で戻るとおっしゃってました。ここへご案内しますか? はい、承知しました」
もう教授はロンデール医師と、カーテンの向こう側で夢中になっていた。小柄なロンデール医師の人影が明らかに興奮して震えている。黒い瞳が金縁眼鏡の奥でメラメラ輝いていた。
「さぁて、遂に来たのか」
とロンデール医師が口火を切った。
ダービシャイア教授が応えた。
「ああ、来た。いつか必然だった。毎日、ひと月、空を見つめて黒手団がどこに現れるか心配していた。出現するときは一番恐れる場所を襲う。この場合、常にテムズ川……」
ロンデール医師も大声で言った。
「その通りだ。おおざっぱだが、ロンドン水道の五分の四はテムズ川からだ。幾多の町や村が川に排水するか? サンベリ近辺に到達するまでに? サンベリで水道各社のほとんどが取水する。まったく、多いのだから。それにこのひと月、テムズ川は赤い陽光にあぶられて、淀んだ排水溝も同然だ。市民は今まで何か学ぼうとしたか? ダービシャイア。ロンドン六百万の市民は独占企業の暴利にいつも苦しめられてないか? そうだなあ、サンベリとオックスフォード間のどこかで腸チフスが大流行したとしよう。どぶ川になる前に適正な処理をすべきだが、村の排水系は濾過するだけだ。四十八時間でテムズ川は浮かぶ強毒タンクと化す。いいか、これは早晩、避けられない」
ダービシャイア教授が冷静に言った。
「それが起こったんだよ。もっと悪い方にだ。まあ、この東部地方紙の記事を聞いてくれ」
『オールデンバーの奇妙な事件』
一日か二日前、帆船サンタアナ号がオールデンバー近くの突端で座礁し、大破した。船は突端に乗り上げ、割れた船体に強い潮流がかかり、すぐ粉々に壊れた。乗員八人はおそらくボートに乗ったものと思われる。というのも現場を誰も見てないからだ。現在のところ、晴れた無風の夜に、なぜサンタアナ号が座礁したかは不可解。船はおそらくどこか外国港からの帰りで、積荷はミカン、最近オールデンバーで何千個も漂着した。沿岸警備隊の推測ではポルトガル船という。
ダービシャイア教授が言った。
「当然テムズ川と何の関係があるか知りたいだろう。教えてやろう。サンタアナ号はある目的を持って故意に座礁した。目的はあとで話す。大部分の乗員は近くに上陸し、自分たちの都合でボートを沈めた。オールデンバーからロンドンまではそう遠くない。ほどなくポルトガル人たちはロンドンに着いた。二、三人はここに留まり、五人がアシュチャーチまで歩き始めた。同地は川岸にあり、オックスフォードに近い。金がないので、カーディフまで徒歩で行って、そこで船に乗ろうと考えた。同じく英語が話せないので、アシュチャーチの道を避けた。そのあと三人が病気になり、うち二人が死んだ。田舎の開業医が保健官を呼んだ。後者は怖くなって、私を呼びつけた。それで今帰って来たばかりだ。これを見てみろ」
ダービシャイア教授は濁った液体の入ったガラス瓶を見せて、数滴ガラス板に落とし、高倍率顕微鏡にセットした。ロンデール医師が接眼レンズをのぞいてびっくり仰天。
「ペストだ。細菌がうようよいる。こんなの見たことない。二人でニューオーリンズにいたとき以来の衝撃だ。ダービシャイア、まさか検体の出所は……」
「テムズ川? そうだよ。アシュチャーチなんか、川へ直接排水だ。それに数日間、船員はペスト熱に苦しんだ。さあ、分かるだろ、なんでサンタアナ号を座礁させて無人にしたか。船員の一人がペストで死んだから皆、船を捨てたのさ。おぞましい自己本位に陥っちゃいかんな。『悪魔は捨て置け』の典型だ」
「おそろしいことだ」
とロンデール医師がうめいた。
「ぞっとする」
とダービシャイア教授もつぶやいた。
淡々と調べている白い沈殿物はガラス瓶の水から取ったもの。小さな蓄電池を台上に置いた。ダービシャイア教授が続けた。
「ロンドン水道の大部分はテムズ川から取っている。記憶で言うけど、ニューリバー社ともう一社だけがリー川から取水している。もし給水が断たれたら、ホクストンとかハガストンとかバタシーなど、つまり人口稠密地は、病気がネジ山の隅々に蔓延しているので、ひどく苦しむだろう。そして死病が次第に拡散し、刻一刻と都心に流れ込み、やがて何百万リットルと取水されるだろう。これを洗濯や飲用に使う。メイフェアはホワイトチャペル同様、出たとこ勝負だ」
「万難を排して給水を断たないと」
とロンデール医師が大声。
ダービシャイア教授が厳粛に言った。
「そうなればロンドンの五分の四は水と共倒れになる。ロンドンは炙られてかまどみたいにならないか? 下水の放水用、道路の散水用、何と言っても飲料水がなくなる。二日でロンドンは悪臭漂う灼熱の地獄になるぞ。考えて見ろよ、ロンデール」
ロンデール医師が憂鬱そうに答えた。
「考えたよ。早晩来るはずだ。今が君の出番だよ、ダービシャイア。君の滅菌処理だ」
ダービシャイア教授がニヤリ。カーテンの方へ移動。ノートを見たかった。同僚に驚くべき新発見を見せたかった。ノートはあったが、乱されたふしがある。床にちぎれた紙が落ちて、何か速記暗号が書いてある。
それを見たとたん、教授がベルの所へすっ飛んで行き、激しくベルを鳴らした。
「ベリティ、あの悪魔は、チェイス氏のことだが、戻ってきたか」
ベリティ執事がゆっくりと答えた。
「はい、戻られました。ロンデール先生のすぐあとに来られました。お待ちいただいて、それからちょっとしてまた出て行かれました。こうおっしゃってました。忙しそうだからまた来ますと」
「ったく! 興奮してなかったか? ベリティ」
「その通りでございます。目がぎらぎらで、それに……」
「もう充分だ。すぐ馬車を呼んでくれ」
こう教授が叫び、内側の元の部屋に戻って来た。
「えらいことだ。忌々しいアメリカ人のチェイス記者め、君も知ってる記者だよ、全部盗み聞きした。それに私のノートもだ。あしたテレフォン新聞にでかでか載るぞ。たぶん他に六紙ぐらい。特ダネとやらで、やつら大英帝国を破滅させるぞ」
ロンデール医師がうめいた。
「ひどいなあ。これからどうするつもりだ?」
教授が返事して、これからテレフォン新聞の編集長を説得して朝刊に人騒がせな記事を書かないようにする、という。
一時間以内に帰るだろうから、ロンデール医師は待つことにした。状況は表向きそれほど絶望的じゃない。外で車輪がガラガラ、ダービシャイア教授が帽子もかぶらず夜の町へ急行した。
「テレフォン新聞社へ。二〇分で行けば一ポンド金貨だ」
馬車はがむしゃらに突進した。御者は一ポンド稼ぐつもり、つまり訳ありだ。トラファルガー広場へ猛烈に突っ込んだ。そこへ一台の車が無謀に横切った。
その直後ダービシャイア教授は馬車から放り出され頭を強打した。道路に横たわり、意識を失なった。野次馬が集まり、夜会服を着た一人の医者が現れた。
医者が事務的に冷静に言った。
「脳震とうですな。おや、ダービシャイア先生だ。そこのお巡りさん、大至急、救急車だ。チャリングクロス病院まですぐ搬送してくれ」