一
ロンドンおよび英仏海峡の天気予報は乾燥、晴れ、温暖。さらに記事をハックネスが深く読み進むと、欧州全域は概して高気圧が続き、西は気圧が上がり、海は穏やかで、今年この時季にしては格別高温とか。
ハックネスはロンドン大学の理学士、漏らさず読んだ。気象研究が宗旨みたいなものだ。
居間裏の研究室には各種の奇妙な機器があり、太陽光や風圧や空気密度などを測る。長年ハックネスの信頼は厚く、ロンドンの霧を正確に予測できた。この霧たるや、とびきりの重要事項であった。
摩訶不思議な方法で霧の専門家を自称していた。いつか名前を売り出そうと思っていたのは霧消名人、別名、民衆の大恩人。
遂に待望の機会が到来したようだ。十一月に入り、なま温かく曇天多湿。既に一、二回深い霧がロンドンに降りていた。毎度のことで避けようがない。
ハックネスの確信では当地で危機が起こり、いつか国家的な惨事を引き起こす。観測や記録から確実に、ロンドンは来たるべき二十四時間以内に濃霧に巻き込まれる。
大誤算しなければ、次の霧はとてつもなく深くなるはず。まさかその卑劣な霞がガウワー通りに見えたのは、朝食についたときだった。
扉が開き、男が無断で乱入してきた。小柄、そり上げた鋭い顔、鷲鼻、独善的な鼻眼鏡。ハックネス先生と似てなくもないが、無いのは沈思黙考。ひらひらと素手に握った新聞紙を旗のように振って叫んだ。
「ハックネス先生、来ましたよ。いつか来る運命だったんです。テレグラフ新聞の最新版のここです。出かけて見に行くべきです。覚えていますか、一八九八年の冬、石油船が爆発した日を。先生とウエストゲートでゴルフしていました」
と言って、肘掛椅子に飛び乗った。
ハックネス先生が大きくうなずいた。
「エルドレッド君、忘れるもんか。もっとも船の名前は忘れたがね。大きな鉄船で夜明けごろ発火した。船長と乗組員は一人として見つからなかったな」
「全く音がせず、大量の黒煙がすさまじい影響を及ぼしました。日没の場面を覚えていますか。アルプス山脈が六個も積み重なったようでした。大壮観のみならず、身の毛がよだつほどぞっとするものでした。あのとき先生が何とおっしゃったか覚えていますか」
エルドレッドの物言いで、先生は何か感ずるものがあった。
「よく覚えておる。目に焼き付いているのは煤けてドロドロの物質が大きな傘になり突然、大都市を霧で包んだ。霧の為に煤が下降し広がった。思い出せば、もしあの船がテムズ川の、そうだなあ、グリニッジに居たらどうなったやら」
「先生は今日の濃霧を予想してなかったですか」
「確かに予想した。最新の実験装置が裏付けておる。なんで訊くんだ」
「けさ早く川下の大きな石油タンクが出火したからです。何百万リットルという油が燃えるはずです。どんな奇跡でも火は消せません。おそらく今日も明日も暴れるでしょう。消防隊も歯が立ちません。第一に火勢が強すぎて近づけません。第二に水をかければ悪化する一方です。過去最大の火災です。残念、先生が予想されたさしもの霧も、煙の上には降りないですよ」
先生は朝食を途中で切り上げて、外套をひっかけた。この危機はロンドン市民が夢想だにしてなかった。
どぶ板通りから新聞売り子がテムズ河畔の大火災を叫んでいる。人々が大惨事を語る様子はとても冷静で、身近な事柄の合間に話す程度だった。
先生がぶつぶつ言った。
「いつものとおり簡単に降りるさ。降りれば仕方がない、降りなきゃ……いや来るさ。チャリング・クロスから追跡しよう」
川岸をちょっと下ると、霧のカーテンが晴れた。丸い大きな太陽がくすんだ地面を照らした。南東方面で大きな黒煙の柱が天空へ伸びている。煙柱は静止してるように見えた。黒い地面から伸びた姿は奇怪なキノコのようだった。
今度はエルドレッドがぶつぶつ言った。
「あれを吸うなんて。毒でしょう。あの塊なら何トンもあります。もう五時間燃えています。あれじゃロンドン中が窒息します」
先生は答えなかった。本心では逃げたかった。あの煙柱はさらに何時間も立ち昇るだろう。だが、同時に大きなチャンスがある。ある企てをやりたくて、準備万端整えてあった。
二人は惨事現場に着いた。半径五百メートル以内は灼熱。誰も事故原因は知らないようだが、噂では油の蒸気に火がついたとか。
手の打ちようがなかった。どの消防車も近づけず、何もできなかった。巨大なタンクは石油が満杯、燃えるに任せるしかないだろう。
炎の壁がごうごう、ぼうぼうと唸っている。炎の上に真っ黒い煙柱が立ち昇り、少し西の方になびいている。上空に広がる黒い煙は棺桶のようだ。もし先生の予言した霧がいま降りたら、ロンドンは大惨事になる。
郊外の田舎、太陽がさんさんと降り注ぐところでは、人々が恐怖で黒雲を眺めていた。数キロメートル離れた所からは全世界の山脈がロンドン上空を覆ったように見えた。霧が次第にテムズ川の南部を覆い、免れたのはバーネット以北であった。
静寂と陰鬱の中に何か、ロンドンの霧はいつもと違っていた。
先生はやっと踵を返し、気づけば朝食は中断、驚天動地を二時間も眺めていた。
エルドレッドが尋ねた。
「先生、解決方法は? これからどうされます?」
先生がぶっきらぼうに言った。
「昼飯だ。そのあと仕掛けをリージェント公園に見に行く。グリンファン卿の飛行機がある。それに爆発理論も。問題は実験許可を当局から得ることじゃ。警察が絶対に禁止するのはロンドン上空の爆発実験だ。だが今度は爆発させてやる。穏やかな気候ほど嬉しいものはないが、今回は……」
「今晩おひまですか」
とエルドレッドが訊いた。
「いいや、暇じゃない。でも時間はたっぷりある。今晩はグリンファン卿の所に行く予定だ。娘さんにも会えるぞ、アービングへ行けば誰でもな。一生に一度のチャンスをつかんだ。うまく行ってほしいよ、エルドレッド君。真夜中に来てくれれば……」
エルドレッドが息せき切って言った。
「行きますとも。立ち合いますよ。爆発案のすべてを知りたいです」