四
しかし、めどはついたのであった。南西に向って流れる渓流は彼らの目ざすトウベツの地へ、沼から来る川となって灌漑しているものに合していた。いるべきであった。とにもかくにも、地図に示された一筆の青いうねりはそれに該当していた。この地附近を一度踏んだことのある案内人もそう裏書きするのだ。更に一押し進めば、見るからに肥沃なというトウベツの原野に出ることが出来るであろう。按ずるに――と彼らの行路を説明する阿賀妻であった、――北西の海から吹きあげる冷気を間断なく防いでいる屏風のごとき山つづきになやまされたのだ。踏みまよい拒けられて、オヤフロの野と交わる尾根のふもとを歩かせられた。ここは、二つの地形の岐れ目にあたる。すでにご承知でもあろうが、見らるる通り、これから一気に駈けおりようとするわれらの原野は、三方に山を背負い、南にひらけて際涯ないイシカリの野につづいている。そこでわれらの使命は八分目まで達したというも過言ではない。
「――が」と彼は言葉をきって、燃える焔の白い煙に変るあたりに眼をやった。
樹と樹のあいだに菰を張った即席の屋根から、溜った雨水がごぼりと落ちた。灰かぐらを立て、ひと塊りのおきを黒くした。
焚火のあかりを取って、彼の膝に斜めにひらかれていた地図の上から、彼らは思い思いに顔をあげた。
雨はまだ降りつづいていた。
人夫は枯木を投げ入れた。焔に照らされて、木株に腰をおろした彼らの顔は異様に赤らんでいた。今し方かきこんだ炊きたての飯が、身内を充血させたのかも知れない。悶えるように燃えつづける火を見て、阿賀妻の言葉を待った。
「あとの二分じゃが――」
首で、眼で、顔色で――それぞれに頷くのだ。
「これがまた、なかなか侮りがたい、いや、お聞き下さい、云わば踏査はこれからはじまることになる、随って、今までの道は、踏査のうちでは、まさにその序論と見るが至当でござろう、この意味で、ご推察下さるか、さ、そこで」
彼は一ひざ乗り出すようにした。
「われら迂濶にも、両三日の糧食以外を携帯致しておりません、折あしくもこの悪路、明日倖い所期の地に着したとしても、一両日の滞在は覚悟いたさずばなるまい」
「なるほど」と戸田老人がうなった。
「食糧不足のため、一たんこの地より立ち戻るべきか、乃至は」
「むろん行き着くべきでござろうよ」と、また戸田老人が云った。
「大野どのはどう思いなさる?」
「されば」と彼は相変らず火を見ていた。
「玉目どのは?」
「同感ではございますが――」と、彼は瞳をあげた。きらりと焔がうつっていた。
あとは改めて云う必要もなかった。ここまで来た阿賀妻の心がどう定っているかも判っていた。糧食を補足して、その土地を検分しなければならぬのである。今か今かと帰りを待ちわびているものたちに、期待をもたした二日三日の遅延は大したことではない。素手で帰ることがしのびがたいのであった。その動揺落胆はむしろ恐ろしいのである。獲物は眼と鼻との間に見えている。当然、中途はんぱに引きあげられない立場である。問題は、ここ二三日の食糧を何とかして手に入れることだけである。
しかもまた、それにはたった一つの方法しか無かった。誰かがそれを取りに戻って来なければならないのであった。人の嗅いも感じられない荒野の中に、手軽く求められないことも解りきっていた。木の芽草の実のある季節でもないのだ。
「おたずね申すが――」と、ふいに大野順平が云った、「トウベツとやらは、まことに人跡未踏でござろうか」
「だんだん検べたところによれば、そう考えたが間違いないと思うが――何か?」
「この裏にどうやら踏みわけ路のようなものが見受けられたが」
「それは?――」と、眉のあいだに立皺をよせて、阿賀妻は猫背の案内人を見やった。
彼はふくみ笑いを浮べて云った。
「鹿の路ででもございましょうよ」
「鹿が通るか?」と大野が向きなおった。
「それは奴めの勝手ですがな、通るには通りますな」
「ふん――」と彼は唇を舐めて暗い闇をふりかえった。
食われるように出て来るわけでもなかった。
雨は絶えまなしに降っていた。焚火のなかでは、トド松の節がぱちぱちとはじけていた。
玉目三郎は、これ以上その沈黙に堪えられなかった。むろん戸田老人の出るべき場合ではなかった。ひしひしと、一番年若な自分が、それを云わなければならぬ場合と思ったのである。
「阿賀妻どの」と彼は云った。誰も身じろぎも見せなかった。
「拙者にそのお役目をおまかせ下さい」
一気にそう云った。けれども同じ静寂であった。何か――その声だけが空にふわふわ漂ったようであった。あたりの闇に白々しく描かれて宙に浮かんでいる。取りつくしまもないのだ。
やっと阿賀妻の口が動いた。
「路すじはそのものが存じておる」
そのもの――と指された案内人は、衝かれたように腰をひょろつかせた。それほど声はきびしく圧えつけるものがあった。われ知らず頭がさがって、心より先に身体が平たく畏ったように見えた。
いずれにしても、それらは翌日の予定であった。
焚火の焔は伸びたりちぢんだりした。
そして、夜明けの冷気は、山に寝ている彼らの骨身にまたしてもこたえるのである。馴染まない土地の息吹きは荒々しかった。彼らの皮膚は脅えている。小粒になったが雨はまだ降りつづき、木の葉や草の葉はしょうしょうと鳴りつづける。
身近かで一発の銃声がとどろいた。
「どうなされた?」
焚火は大部分は白い灰になって周囲にひろがっていた。そのむこうに、大野順平の後姿が見えるのであった。杖づいた銃の筒先からうっすらと煙が垂れていた。
「どうなさった?」
彼はちらりとふり向いただけであった。近づいて行く玉目三郎に、彼はあちら向きのまま太い声で云った。
「門出の血祭りと思いまして、な」
貫き徹った先程の銃声が、山や木に当って遠ざかっていた。あちらこちらにゆるい反響が伝っていた。
大野順平の視線の先では一頭の鹿が斃れたところであった。
「やはり、なるほど、あれは鹿の路でござったよ」
彼はそう呟いた。昨夜見かけた踏分け路らしいものにこだわっていたのだ。自分を納得させた深い声で云った。
「やはりおぬしに行って貰わにゃなるまい」
玉目三郎は素直にうなずいていた。川に沿って急ぐならば、中一日をおいて再び引きかえして来れようという計算も胸に収めていた。本流では、あるいは手近かなところに土人の漁場を見出だすことが出来るかも知れない。イシカリの河畔に点在するという鮭場所の話は彼も聞いていた。どこでもよろしい、早ければ早いほどよろしい――と、そういう阿賀妻の心も判っていた。買入れに必要な準備の金も渡され、すでに彼のふところに納められていた。
二人は、爪先あがりになった草やぶを、樹々の間を縫って歩いて行った。落ちかかる雫が、ざんぎり頭の毛を濡らした。射止めた鹿の生命はまだ微かにその四肢の先に残ってぴくんぴくんと痙攣していた。
「火を慕って来おったのかも知れませんな」
「そうかも知れぬ」
大野順平は腰をかがめて、その後脚をつかみあげた。そのとき斃れている鹿の眼がしわりと瞬いたのである。玉目三郎は思わず一足うしろに退った。
「どうした?」
「いや」
「気をつけて行って貰いたいものだ」
年輩の男は、舎弟を見るようなやさしさをこめてそう云った。
燃え残りの木に土をかぶせ、簑や笠の緒をしめた彼らはまた出発するのであった。谷川の水はひどく殖えていた。せっかく乾した足ごしらえも長くは保てなかった。岩にくだける水流に追われて彼らの一行は下って行った。
進むにつれて平原に出ていることは、岸と水面との差が追い追い小さくなって来るのでもそれと知ることが出来る。草の色もちがって来た。アヤメの花がべったりと、樹林の切れめに咲いていた。水の流れも落ちついて来た。
「よく降る」
「されば」と戸田老人が注釈をつけた、「郷里ではあたかも梅雨の季節でござる」
枝川の流れは湿地のなかに散らばり、右手から押し出して来る、より大きな流れに呑まれていた。雨水を集めて両岸の草の根まで幅をひろげ、はるかなとどろきを立てていた。間違いもなく、これが探しもとめた彼らのトウベツ川であった。上目づかいに見わたす上流の平原は、ひしめき叢る樹木つづきの緑の海であった。天をかぎる巨木が青葉の波濤をつくり――それが五月の雨にけぶっていた。
水はその隙間にこぼれ、低みをえらんで寄り集った。年々歳々のはてもない月日が、土を穿ち岩をかみくだいてこの川筋を掘り下げたのであろう。地底の砂礫も抉られている。白くむき出しになった深い木の根や、浅いところには笹の根やイラ草の地下茎などもとびだしていた。
撫でさするようにあたりの地形を眺めまわしていた彼らの眼は、期せずして向う岸のそういう懸崖に吸いついた。地の底を割ってみせたのである。一尋もあるかと思われる黒い壌土の層が、水気をふくんだうるみ顔をこちらに向けている。
むッとする土の香が匂ったようであった。
おお、これがわれらの土。虚脱されたような幾秒かが過ぎた。へたへたとくず折れそうになった。彼らの身体に、そのときあつい血が湧きあがって来た。撥じかれたようにとび出したのは阿賀妻であった。彼は流れの中に駈けこんだ。
川は彼の膝でしぶきをあげた。遮るものに当って不遠慮な音をたてた。両手を左右にひろげ、のしのしと進んで行く阿賀妻はそれよりもなお倨傲であったと云える。簑の裾を浸し、腰まで沈んでもなお進んで行った。立ちなおり立ちなおり、胴体で水をかきわけて押しきった。
彼はその崖にとびついたのである。下半身からしずくの滝を流しながら、木の根につかまって匐いあがりだした。砂礫がざらざらとこぼれ落ちた。石はもんどりうって川にとびこみ、飛沫をあげた。片手を土にさしこみ、他の手に熊笹の根をつかんだ彼は、木の根にかけた草鞋がけの脚をちぢめ、ぐいと跳ねた。ひと揉み身体がまわって、彼は崖の上にとびあがっていた。
すっくと立ちあがって、その手を天につきあげた。見おろした彼の顔は、感極ったときのあの醜さであった。それも一瞬であった。
「玉目どの――」と、そこから呼びかけた彼の声はいつもの阿賀妻にかえっていた。
「ご足労願おうか、われらはこの川筋附近に於てお待ち申すとしよう」