Chapter 1 of 6

「こら、何故お前はそんな所に寝ているんだ」

フリッツ・ハアルマンが斯う声を掛けると、古着を叩き付けたように腰掛けに長くなって眠っていた子供が、むっくり起き上った。独逸サクソニイ州ハノウヴァ市の停車場待合室は、電力の節約で、巨大な土窖のように暗い。ハアルマンは透かすようにして子供の顔を見た。一九一八年十一月二十三日の真夜中だった。霙を混えた氷雨が、煤煙を溶かして、停車場の窓硝子を黒く撫でている。大戦後間もなくのことで、広い構内には、火の気一つないのだが、それでも、拾い集めた襤褸片や紙屑等で身体を囲って、ベンチにぐっすり寝込んでいたフリイデル・ロッテは、突然呶鳴り付けられて喫驚※ね起き乍ら、ははあ、刑事だな。警察へ引っ張られて保護とか言う五月蝿い目に遭わないように、例ものように此処で謝罪って終おうと、十二歳の少年だったが、浮浪児に特徴の卑屈な、そして、既う職業的になっている笑顔を作って、その、自分を覗き込んでいる男を見上げた。それは、少年の微笑と言うよりも、娼婦が、誰にも教えられずに何時の間にか体得する、手法的な媚びに近かった。それ程、フリイデル・ロッテは、悩艶と言って好い位いの美少年だったので、起したフリッツ・ハアルマンの方が驚いた。

「何うしたんだ。お前、家はないのか」

彼は少年の肩を掴んで荒々しく揺すぶりながら、顔はにやにや笑っていた。この、本篇の主人公、ハノウヴァ市の肉屋フリッツ・ハアルマン―― Fritz Haarmann ――は、まず何よりも先に稀代の男色漢だったのだ。

Saxony の Hanover 市から、ライプツィヒの方へ少し南下した所に Weetzer という小都会がある。Friedel Rothe は、このウィイツェル町のピアノ調律師ラインハルト・ロッテの息子だった。其の珍らしい美貌が禍して、性来少からず不良性を帯びていたかも知れないが、この十二歳の少年の性格を破壊したのは、矢張りあの大戦だった。町の壮青年は全部出征する。フリイデルの父親もその一人だ。戦争という国家興亡の非常時に際して、日常の徳律は些少しか云為されない。フリイデルは何時しか不良少年の群に投じて、ハノウヴァを中心に放浪生活を続けていた。ハノウヴァは、地図で見ても判る通り、伯林、ハンブルグ、ブレイメン、ドュッセルドルフ、ケルン、フランクフルト、ライプツィヒ等、四通八達の鉄道線路が網の目のように集まっている中点である。欧洲大戦の直後、此市の停車場のプラットフォウムと待合室は、日に何回となく各方面からの列車によって吐き出される避難民と浮浪者の大群で、名状す可からざる混雑を呈していた。或る者は炊事道具を持込んで停車場で生活している。或る者は遊牧の民に還元して、停車場を足溜りに家族を引き伴れて食を漁る。そしてその大部分は、全国的な食糧不足、家庭の離散、社会的不安、それらの肉体的及び精神的飢餓に追い立てられて町から町を浮動している、十代の少年だったということは、想像に難くない。彼等は、仔犬のように互いの体温で煖め合って、空貨車や無蓋車の中、プラットフォウムの隅、待合室の腰掛けなどで夜を明かすのだが、フリイデル・ロッテもその一人だった。

同市ツエラルストラッセ二十七番―― 27 Cellarstrasse は、停車場と公設市場の中程にある、赤煉瓦の燻んだ、低い建物で、愛嬌者の肉屋フリッツ・ハアルマンの店として附近に知られていた。ハアルマンという男は、写真で見ると、丸顔にちょび髯を生やして、快活な円い眼をした、中肉中背、と言うより、幾らか背が低くて小肥りの、呑気そうな人物である。附近の公設市場をぶらぶらして、仲買人の手を経ずに、肉類を協定価額以下にこっそり仕入れて来て売るのが、このハアルマンの商賃で、ツエラルストラッセの店には、一通り牛豚鳥類の肉が置いてあるのは勿論、冷蔵庫、売台、計量器、肉切台、各種の庖丁等、備品も立派に整い、裏街の小店ながら、普通の肉屋の体裁を備えていた。ハアルマンは三十三歳。独身だった。店員も置かず、身の周りから店の事まで、万事独りで遣っていた。勿論、人を置く必要のない程小さな商売だったが、それよりも、他に人を置けない理由があったのだった。

このツエラルストラッセ二十七番の肉屋の店に立って、「血だらけな前掛」をして襯衣の腕まくりをしたフリッツ・ハアルマンは、毎日赭ら顔をにこにこさせて、肉を切ったり腸詰を作ったりしている。肉屋の「血だらけな前掛」は、人の注意を惹く可く余りに普通事である。傍らの錻力缶に、大小の白い骨が一杯詰っているのも、肉屋であってみれば異とするに足らない。近処のお神さん連が肉を買いに来る。町内の人が前を通る。時には立寄って、煙草の烟りと雑談を残して行く。平和且つ平凡なる裏町風景の一つである。ハアルマンは其の誰とも愛想よく応対して、斯うして「ツエラルストラッセの肉屋さん」は、界隈の人気者だった。店で肉を小売りしていた許りでなく、行商にも出たという。御用聞きのようなことをしたり、品物を担いでお顧客を廻ったりしたのだろう。

知れている限り、このフリイデル・ロッテ少年がハアルマンの最初の犠牲者ということになっているが、犯人は刑死に先立って犯行の全部を自白した訳ではないし、何しろ、大戦直後のことで、人別、人の動き等平時には想像だも出来ない程混乱を極めた時代だから、少年の失踪、捜索願などは各地の警察に徒らに山積して、その内幾割かが正式に受理されて法の発動を見たに過ぎない状態なので、勿論確実な事は判明していない。が、兎に角、この第一のロッテ事件に因って、肉屋ハアルマンの正体の何分の一かが其の筋に知れて、爾後其の意味での注意人物――変態性慾者――として或る程度の看視を受けるに到った。と言うのは、今もいう通り、少年少女とのみ言わず、行衛不明の届や捜索願は、ハノウヴァの警察にも氾濫していたけれど、もっと根本的な、一般的秩序の樹て直しに忙殺されていて、それらの比較的小さな事件には殆んど一顧も払わない、と言うより、正確には、払う暇のない有様だったのが、何ういうものか、このフリイデル・ロッテの捜索願だけは取上げになって、しかも不思議にも、まるで針で指示するように、捜査の手は直ちに伸びてツエラルストラッセの肉商フリッツ・ハアルマン方を襲っている。これでハアルマンという男に、鳥渡ハノウヴァ市民の視線が集まって、近処では大評判にもなったのだが、併しそれは、皮肉にも、この人鬼の本然の姿を曝露したものではなかった。単に鶏×常習者として、寧ろ異常者に対する多分の憐憫と滑稽の眼を以って視られたに過ぎなかった。

斯うである。

ウィイツェル町のロッテの家で、母のゲルトルウト・ロッテ夫人が、家出した息子の身の上を案じて狂気のようになっていると、少年が失踪した二日目に、既に平和が回復していたので良人のピアノ調律師ラインハルト・ロッテが軍務を解かれて帰って来た。そこで夫婦は相談して、近接各市の警察へフリイデルの捜索願を出したのだが、あの、フリッツ・ハアルマンがハノウヴァの停車場待合室でフリイデル少年に近づいていた頃、何う言う風の吹廻しか、其の捜索願の一つに動かされて、既に同市警察は腰を上げつつあったのだ。

ベンチに眠っている所を叩き起されたフリイデル・ロッテは、ハアルマンを警察の旦那と許り思い込んで、専心哀訴歎願し始めた。事実また、このハアルマンは、勿論刑事ではなかったが、その下働きのような格で、警察の仕事を手伝ってもいた。所謂民間探偵――囮鳩――というやつで、鳥渡妙な話しだが、これは後で説明する。が、日本で言えば、丁度江戸時代の岡っ引きに相当する役柄だから、好い事にして、署の者だ位い言ったに相違ない。相手は、幾ら不良でも十二の子供である。許されないと知って、顫え上っている美少年を急き立てて、肚に一物あるハアルマンは変態的な情炎を燃やし乍ら停車場を出た。その、二人伴れ立って停車場を出る所を、同じ不良で放浪仲間の猶太人の少年エリヒ・ホルトハウゼンが見ていたのだが、ハアルマンは気が付かない。

その儘ツエラルストラッセの店の二階へフリイデルを連れ帰って、其の夜は美食と煖い寝床を与えて休養させた後、翌朝少年に暴行を加えようとすると――以下は一九二四年七月三十日以後の公判廷に於ける犯人ハアルマンの得々たる陳述である――既に年長の悪友に依ってそういう事を知っていたらしいフリイデル少年は、恐怖困迷等の色なく、却って薄化粧までして大いにハアルマンの意を迎え、その都度彼の慾望を満足せしめたとある。斯うしてハアルマンは、十一月二十三日から四日間、この美少年と奇怪な生活を持ったのだが、その間、近処の者は、誰もハアルマンの家に少年の泊り客があること等は気が付かなかった。自白に依ると、冬の事で、高温に保った寝室に××にして監禁し、連日連夜×んだと言っている。が、二十七日に到って、その寝室にも、少年の姿は見られなくなった。

そして、翌る八日の朝、ハアルマンは例によって、「血だらけの前掛」をして、狭い店でせっせと「何か」の肉を切っていた。肉屋に「血だらけな前掛」は附き物である。傍らの錻力缶に大小の骨片が投げ込まれてあるのも、肉屋の店では見慣れた景色だ。近処の神さん達が買出しに来る。ハアルマンの背後の壁に、釘に差さって血の垂れている大きな肉片は、「今朝早く屠殺した犢」である。軟かいこと請合だと言う。おまけに破格に安価い。仲買の手を通さないからだと説明し乍ら、ハアルマンは其の肉を切って売る。古くなると腸詰にするのだ。そうすると又素晴らしく美味く食べられるぞ――そんな事を言って、愛想よく客に応対していると、店の前を町内の人が通る。

「お早う!」

「お早う!」

大声の朝の挨拶、快活な冗談が投げ交わされる。時には、若い衆など店へ這入って来て、喫煙と雑談で油を売って行く。平和で平凡な裏町スナップの一つだ。斯うしてツエラルストラッセの肉屋さんは、「威勢の好い兄哥」、「面白い小父さん」として、依然として界隈の人気者だ。

Chapter 1 of 6