一
蝉――テテツクス――ミユーズの下僕――アポロの使者――白昼の夢想家――地上に於ける諸々の人間の行状をオリムパスのアポロに報告するためにこの世につかはされた観光客――客の名前をテテツクスといふ――蝉。
「その愚かな伝説は――」
さあ歌へ/\、今度はお前の番だ! と攻められるのであつたが、何故か私には歌へぬのだ――だが、私は凝ツとしてゐられないのだ――酒樽の上に立ちあがつて喋舌り出したのである。
「えゝ、もう沢山だわい。演説を聴くために俺達は酒を飲んでゐるんぢやない。」
「仕方がないや、例に依つて合唱の一節だけを、アウエルバツハの古めかしいワン・スタンザを借用して、諸君順番に勝手気儘に歌ふと仕様ぢやないか。」
「賛成/\、そこで水車小屋の太将、お前から始めてくれい!」
私達が住んでゐる村の酒場であるが、常連の森に住む炭焼家、村役場にゐる執達吏、村長のノラ息子、牧場の牛飼ひ、麦畑作りの小作人、舟を持たない漁業家、小説家である私、私と同じ家に起居して、同じく文学研究に没頭してゐるHとRといふ二人の大学生、隣り村の元村長達の毎夜/\の大騒ぎは恰もアウエルバツハの不良青年の面影に似てゐる! といふところから私達は、いつの間にかゝら此の居酒屋を、その名で称び、何か勝手気儘な歌をうたつては、合間/\に一同が声をそろへて、あの合唱である「恋に焦れて悶ふるやうに――」と高唱するのが慣ひになつてゐた。
「よしツ!」
と水車小屋の大将は、フラ/\と立ちあがると足拍子をとりながら、斯んなやうな意味の歌をうたつた。――俺にだつて云ふに云はれぬ悲しみも苦しみもあるのだ、それを知りもしないで昨夜も昨夜、一杯機嫌で此処から帰つて行くと、吾家の婆アは大不機嫌で閉め出しを喰はせた、癪に触つたから門口の扉を滅茶苦茶に叩きのめした、ところが昨日のあの雨で水嵩の増した水車の勢ひが目の廻るやうな凄じさだ、俺の騒ぎなんて聞へればこそだ、俺は気狂ひのやうに暴れた、水車のしぶきが雨のやうに頭から降りかゝつて俺は何だか勇ましい芝居でもしてゐるやうな好い心地になつて、戦つた、格闘した、角力をとつた、月の光りを浴びながら、クルクル回る水車の影を相手に――、そして、目が廻つて、げんげの花盛りの田の中に、悶絶した……それ合唱だ!
「恋に焦れて悶ふるやうに、恋に焦れて悶ふるやうに――」
常連は手拍子、足拍子をそろへて喉も張り裂けよとばかりに高唱した。
「あの娘が呉れた紅苺を――」
今度は村長が身振りよろしく歌ひ出した。
「うつかり喰べたら毒だつた……苦しい/\堪らない、手あたり次第に掻きり、噛み齧つては七転八倒、悶え悶えて跳ね狂ひ、甲斐なく萎れて倒れしは――」
合唱「恋に焦れて悶ふるやうに……」
その村長は、つい此間まで街の歌妓に現を抜かして通ひ詰めてゐたのであるが、いつの間にか財産を倒尽し、名誉職から失墜して、加けに歌妓には逃げられ――悶々の情遣方なく此の酒場で毎夜憂さを晴してゐる気の毒な身であつた。あまり真に迫つた歌をうたつたので一同は稍暫らく同情の眼蓋を伏せた。
「俺は世の中の人間といふ人間は大概まあ破れかぶれの気持で生きてゐるんぢやないかと思ふんだが、何うだらう。」
執達吏が変に沁々とした調子で斯んなことを呟いたりした。「たゞ、その破れかぶれなりのかたちが千差万別といふわけぢやないんだらうか。」
そして彼は、酒注台に凭りかゝつて凝つと何か物思ひに耽つてゐる私の方を振り向いて同意を求めるやうな眼つきをしたので私は、即坐に、
「冗談ぢやない――」と否定した。彼は、この一年位ひの間凡そ二三十回も私の住家に通ひ詰めたであらう。そして、気の毒だ/\と呟きながら、其家のあらゆるものに「差押へ」の赤札を貼つたのである。彼と私は、その度に赤い顔を見合せ苦笑を浮べる毎に、親密さを増して来たのであつた。彼は、村長とも私と同じやうな動機で友達となり、そして、その役目の帰途夕暮時になり、私や村長の案内で此の酒場の常連になつたのである。
私が、その家を出て、この村に移つた時には、二つとも私の書斎に永い間壁飾りとなつて懸つてゐたアメリカ・インヂアンのガウンと一対の錆びたフエンシング・スオウルドだけが私の所持品だつたのである。競売の日にこれらの品物だけは買手がなくて、自然私に残されたのであつた。私は他に着るものがなかつたので寄ン所なくこればかりを羽おつてゐたのだ――そして私は、水車小屋の主が何時でも私に借して呉れるドリアンといふ牝馬に、「ロシナンテ」とか「ブセハラス」とかいふ異名をつけて、或時は、ラマンチアの紳士気取りでロシナンテを駆り出し、森の奥へ走つて闘剣の練習をしたり、また或時は街にある叔父さんの家を襲つて物凄い掠奪を縦にし、村に引きあげる時には、アルベラの戦ひから凱旋する大王アレキサンドルの心を心としてブセハラスの背中で、新たに建てるべき己れの王国について考慮を廻らせたりしてゐた。――町にゐる私の憐れな年寄つた母親は、老眼に涙を湛へて、私のたつたひとりの倅は倒々気狂ひになつてしまつた、案ぜられる――と日夕悲しみの祈りをあげてゐるといふ話であつた。そんなこんな、様々な事情を知つてゐるので執達吏は、「あの合唱の場合に君の歌ふ姿は就中息苦し気だ。」とか、「やぶれかぶれで、そんな身装をして――平気さうな顔をしてゐるんだらう?」などと余計な質問をするのであつた。
違ふ、私には生来の一つの習癖があるのだ。私は何時の時でも朝な夕な不思議に勇壮な運動を試みずには居られない習癖があるのだつた。私は、どんな立場で何処に住んでも、必ず朝は竜巻になつて襲ふて来る怖ろしい煙に似た悲しみに取り巻かれ、夕べは得体の知れぬ火に似た情熱に追はれて、何うにも凝つとしてゐられなくなる――私は、この悲しみと奮戦し、この情熱と組み打ちをする思ひで、機械体操を試みる、オートバイで駆け廻る、大酒を喰ふ、夫婦喧嘩をする、美女を追ひ廻す、水泳を行ふ――そして健やかな汗をしぼると、忽ち爽やかな楽天家に立ち戻ることが出来るのだ。村に来て私は寧ろ稀大な生甲斐を覚へてゐる位ひなのだ。自働自転車の代りには精悍なロシナンテが控へてゐる。機械体操の代りには闘剣が役立つてゐる。あの土人の着物とこの一対の闘剣とが最も私のために役立つことになつた先代の最後の遺物かと思ふと私は異様な昂奮を覚へ、その上私に凡そ嘗て感じたこともない祖先崇拝の念が浮んで来るかのやうな力強さに打たれたりした。
この村には、綺麗な丘があり、夢のやうに深々とした狩に適した森があり、釣を誘ふさゝやかな小川が流れ、この賑やかな酒場があつて、何の私に不足があるものぞ! であつた。森の獲物も海の獲物もない荒天続きの上句食に窮すれば、私は何んな責も覚ゆることなく忽ち飛鳥の如き掠奪者とこの身を変へることが出来る。そして私は馬を飛ばせて崖道に添ふて村の棲家に引きあげて来る時などは、憧れの中世紀に突如この身を見出したかのやうな夢心地に走り、面白さのあまりに恍惚とする位ひであつた。
「たゞ、この私の、時折諸君の前にも示してしまふ――この憂ひを含んだ表情は……」
と私が執達吏に弁解しかけると、番が廻つてゐる私が珍らしくも調子に乗つて歌をうたひ出したのか! と早合点して、一勢に腰掛の樽を叩いて拍子をとり、声をそろへて、
「恋に焦れて悶ふるやうな――恋に焦れて悶ふるやうな――」
と合唱し、
「やあ、聴かう/\、町から村へ流れ込んで来た俺達の親愛なる吟遊詩人の旅物語を聴かうぢやないか。俺達の腹がルウテル博士のそれのやうに、ぽんぽこぽんにふくれあがるまで歌つて歌つて歌いぬいて呉れい。」
と八方から所望追求の矢を浴せた。
(親しい者同志の間に於ては、そこに特別な言葉が生じたり特異な習慣が出来たりする現象を吾々は屡々見うけるが、こゝの酒場の常連の間では、何んな会話を取り交す場合にも彼等は、相手の顔を直接眺めることなしに、舞台の上に立つてゐる唱歌者の通りに、いち/\立ちあがつて、ジエスチユアと一処に、会話を歌で交すのが習慣になつてゐた。私だけにはそれが何うしても未だ真似られなかつたのであるが、今が今私は、あの凱旋の光景を思ひ出して有頂天になつてゐたために、「この私の――憂ひを含んだ表情は――」と説明しようとすると、思はず翼でもあるものゝやうにスラスラと爪先立つて酒場の真中に進み出ると、彼等が演る通りな格恰で節をつけて発声したのであつたから、彼等が早合点してお世辞のために悦び迎へたのは当然なのである。)