Chapter 1 of 3

鵙の声が鋭く気たゝましい。万豊の栗林からだが、まるで直ぐの窓上の空でゞもあるかのやうにちかぢかと澄んで耳を突く。けふは晴れるかとつぶやきながら、私は窓をあけて見た。窓の下は未だ朝霧が立ちこめてゐたが、芋畑の向方側にあたる栗林の上にはもう水々しい光が射して、栗拾に駈けてゆく子供たちの影があざやかだつた。そして、見る見るうちに光の翼は広い畑を越えて窓下に達しさうだつた。芋の収穫はもう余程前に済んで畑は一面に灰色の沼の観で光りが流れるに従つて白い煙が揺れた。万豊は其処で小屋掛の芝居を打ちたいはらだが、青年団からの申込みで来るべき音頭小唄大会の会場にと希望されて不性無精にふくれてゐるさうだつた。

私と同居の御面師は、とつくに天気を見定めて下彫の面型を鶏小屋の屋根にならべてゐた。私は鋸屑を膠で練つてゐたのだ。万豊の桐畑から仕入れた材料は、ズイドウ虫や瘤穴の痕が夥しくて、下彫の穴埋に余程の手間がかゝつた。御面師は山向ふの村へ仕入れに行くと、つい不覚の酒に参つて日帰りもかなはなかつたから、寄所なく万豊の桐で辛棒しようとするのだが、斯う穴やふし瘤だらけでは無駄骨が折れるばかりで手間が三倍だと滾しぬいた。此後はもう決して酒には見向かずにと彼は私に指切したが、急に仕事の方が忙しくて材料の吟味に山を越える閑もなかつた。万豊は下駄材の半端物を譲つた。値段を訊くとその都度は、まあ/\と応揚さうにわらつてゐながら、仕事の集金を自ら引受け、日当とも材料代ともつけずに収入の半分をとつてしまふと、御面師は愚痴を滾した。万豊は凡てにハツキリしたことを口にするのが嫌ひで、ひとりで歩いてゐる時も何が可笑しいのか何時もわらつてゐるやうな表情だつた。では元々さういふ温顔なのかと想ふと大違ひで、邸の垣根を越える子供等を追つて飛出して来る時の姿は全くの狼で、普段はレウマチスだと称して道普請や橋の掛換工事を欠席してゐるにも係はらず、垣も溝も三段構へで宙を飛んだ。

そのうちにも、さつきの子供たちがばら/\と垣根をくゞり出て芋畑を八方に逃げ出して来たかと見ると、おいてゆけ/\野郎共、たしかに顔は知れてるぞなどと叫びながら、何方を追つて好いのやらと途惑ふた万豊が八方に向つて夢中で虚空を掴みながら暴れ出た。万豊の栗拾にゆくには面をもつて行くに限ると子供たちが相談してゐたが、なるほど逃げてゆく彼等は忽ち面をかむつてあちこちから万豊を冷笑した。鬼、ひよつとこ、狐、天狗、将軍達が、面をかむつてゐなくても鬼の面と化した大鬼を、遠巻にして、一方を追へば一方から石を投げして、やがて芋畑は世にも奇妙な戦場と化した。

「やあ、面白いぞ/\。」

私は重い眼蓋をあげて思はず手を叩いた。私の胸はいつも異様な酒の酔で陶然としてゐる見たいだつたから、そんな光景が一層不思議な夢のやうに映つた。私たちの仕事部屋は酒倉の二階だつたので、それに私は当時胃下垂の症状で事実は一滴の酒も口にしなかつたにも関はらず、昼となく、夜となく一歩も外へは出ようとはせずに、面作りの手伝ひに没頭してゐるうちには、いつか間断もない酒の香りだけで泥酔するのが屡々だつた。かなふ仕儀なら喉を鳴して飛びつきたい WET 派のカラス天狗が、食慾不振のカラ腹を抱へて、十日二十日と沼のやうな大樽に揺れる勿体振つた泡立の音を聴き、ふつふつたる香りにばかり煽られてゐると酔つたとも酔はぬとも名状もなし難い、前世にでもいたゞいた唐天竺のおみきの酔が、いまごろになつて効いて来たかのやうな、まことに有り難いやうな、なさけないやうな、実にもとりとめのない自意識の喪失に襲はれた。眠いやうな頭から、酒に酔つた魂だけが面白さうに抜け出してふわりふわりとあちこちを飛びまはつてゐるのを眺めてゐるやうな心持だつた。そのうちには新酒の蓋あけのころともなつて秋の探さは刻々に胸底へ滲んだ。倉一杯に溢れる醇々たる酒の靄は、享ければあはや潸々として滴らんばかりの味覚に充ち澱んでゐた。――鶏小屋の傍らでは御面師が切りと両腕を拡げて腹一杯の深呼吸を繰返してゐた。彼も「酒の酔」を醒さうとして体操に余念がないのだ。――万豊が地団太を踏みながら引返してゆく後姿が栗林の中で斑らな光を浴びてゐた。線路の堤に、音鬼、赤鬼、天狗、狐、ひよつとこ、将軍などの矮人連が並んで勝鬨を挙げてゐた。――もともとそれらは私達がつくつた成人用の御面なので、五体にくらべて顔ばかりが大変に不釣合なのが奇抜に映つた。音頭大会の日取は未だ決らないが、出場者の多くは面をかむらうといふことになつて、日々に註文が絶えなかつた。たとへこれが今や全国的の流行で踊りとなれば老若の別もないとは云ふものゝ、まさか素面では――とたぢろいて二のあしを踏む者も多かつたが、仮面をかむつて、――といふ智慧がつくと、われもわれもと勇み立つた。名誉職も分限者も教職員も自ら乗気になつて出演の決心をつけた。どんな歌詞かは知らぬが鬼涙音頭なる小唄も出来て「東京音頭」の節で歌はれるといふことであつた。

「面をかむつてゐれば、担がれるといふ騒ぎもなくなるだらう――やがては、あの永年の弊風が根を絶つことにでもなれば一挙両得ともなるではないか。」

一方では斯ういふ噂が高かつた。由来、このあたりでは村人の反感を買つた人物は屡々この「担がれる」なる名称の下に、世にも惨澹たるリンチに処せられた。

……「おい/\、ツル君、はやくあがつて来ないか。」

私は、いつまでも外気に顔を曝してゐることに「或る危惧」を覚えたので、未だ酔ひを醒してもゐなかつたのだが、御面師に声をかけた。それに干場の面型をかぞへて見ると辛うじて十二三の数で、あれがきのふまでの三日がかりの仕事では今夜あたりは徹宵でもしなければ追ひつくまいと心配した。私は、うしろの棚から鬼の赤、青、狐の胡粉、天狗の紅の壺などを取りおろし、塗刷毛で窓を叩きながらもう一遍呼ぶのだが、彼は振向きもしなかつた。

「聞えないのか――」

私は怒鳴つてから、さうだ口にしない約束だつた彼の名前を思はず呼んでしまつたと気づいた。彼は自分の姓名を非常に嫌ふといふ奇癖の持主で、うつかりその名を呼ばれると時と場所の差別もなく真赤になつて、あはや泣き出しさうに萎れるのであつた。

「厭だ/\/\、堪らない……」と彼は身震ひして両耳を掩つた。それ故彼は、滅多な事には人に自分の姓名を明したがらず、

「えゝ、もう私なんぞの名前なんてどうでもよろしいやうなもので……」と言葉巧みにごまかしたが、それは徒らな謙遜といふわけでもなく、実はそれが神経的に、そして更に迷信的に適はぬといふのであつた。それで私も久しい間彼の名前を知らなかつたし、また不図した機会から彼と知合になり、どうして生活までを共にするまでに至つたかの筋みちを短篇小説に描いたこともあり、実際の経験をとりあげる場合には何時も私は人物の名前をも在りのまゝを用ひるのが習慣なのだが、その時も終始彼の代名詞は単に「御面師」とのみ記入してゐた。私はそのころ「御面師」なる名称の存在を彼に依つてはじめて知り、稍奇異な感もあつて、実名の頓着もなかつたまでなのだつたが、後に偶然の事から彼の名前は水流舟二郎と称ぶのだと知らされた。私はミヅナガレと読んだが、それはツルと訓むのださうだつた。

「この苗字は私の村(奈良県下)では軒並なんですが――」と彼はその時も、ふところの中に顔を埋めるやうにして呟いだ。「苗字と名前とが恰で拵へものゝ戯談のやうに際どく釣合つてゐるのが、私は無性に恥しいんです。それに何うもそれは私にとつてはいろいろと縁起でもない、これまでのことが……」

彼はわけもなく恐縮して是非とも忘れて欲しいなどと手を合せたりする始末だつたのである。そんな想ひなどは想像もつかなかつたが、私は難なく忘れて口にした験もなかつたのに、ツマラヌ連想から不意とその時、人の名前といふほどの意味もなく、その文字面を思ひ浮べたらしかつたのである。

それはさうと、その頃私の身には飛んだ災難が降りかゝらうとしてゐるらしいあたりの雲行であつた。

「今度、踊りの晩に、担がれる奴は、おそらく彼の酒倉の居候だらう。」

「畢竟するに、野郎の順番だな。」

私を目指して、この怖るべき風評が屡々明らさまの声と化して私の耳を打つに至つてゐた。あの戦慄すべきリンチは、季が熟したとなれば祭りの晩を待たずとも、闇に乗じて寝首を掻れる騒ぎも珍らしくはない。私たちが此処に来た春以来からでさへも、三度も決行されてゐる。

現に私も目撃した。花見の折からで「サクラ音頭」なる囃子が隆盛を極めてゐた。夜毎夜毎、鎮守の森からは、陽気な歌や素晴しい囃子の響が鳴り渡つて、村人は夜の更るのも忘れた。あまり面白さうなので私も折々遅ればせに出かけては石灯籠の台に登つたりして、七重八重の見物人の上から凝つと円舞者連の姿を視守つてゐた。円陣の中央には櫓がしつらはれ、はじめて運び込まれたといふ、拡声機からはレコードの音頭歌が鳴りも止まずに繰返されて梢から梢へこだました。それといつしよに櫓の上に陣取つてゐるお囃子連の笛、太鼓、擂鐘、拍子木が節面白く調子を合せると、それツとばかりに雲のやうな見物の群が合の手を合唱する大乱痴気に浮されて、吾も吾もと踊手の数を増すばかりで、終ひには円陣までもが身動きもならぬ程に立込み、大半の者は足踏のままに浮れ呆け、踊り痴けてゐた。――そのうちに向方の社殿のあたりから、妙に不調和な笑ひ声とも鬨の声ともつかぬどよめきが起つて、突然二十人ちかい一団がわツと風を巻いて、森を突き走り出た。でも、踊の方は全くそつちの事件には素知らぬ気色で相変らず浮れつゞけ見物の者も亦、誰ひとり眼も呉れようともせず、知つて空呆けてゐる風だつた。弥次馬の追ふ隙もなさゝうな、全く疾風迅雷の早業で、誰しも事の次第を見届けた者もあるまいが、それにしても、群集の気合ひが余りにも馬耳東風なのが寧ろ私は奇体だつた。

「一体、今のあれは何の騒動なんだらう。喧嘩にしては何うもをかしいが……」と私は首を傾げた。すると誰やらが小声で、

「万豊が担がれたんだよ。」といとも不思議なさ気にさゝやいた。

朧月夜であつた。あの一団が向方の街道を巨大な猪のやうな物凄さでまつしぐらに駈出してゆくのが窺はれた。誰ひとりそつちを振向いてゐる者さへなかつたが、私の好奇心は一層深まつたので、兎も角正体を見定めて来ようと決心して何気なさ気に其場を脱けてから、麦畑へ飛び降りるやいなや狐のやうに前へのめると、矢庭に径も選ばず一直線に畑を突き抜いて、彼等の行手を目指した。街道は白く弓なりに迂廻してゐるので忽ち私は彼等の遥か行手の馬頭観音の祠の傍に達し、凝つと息を殺して蹲つたまゝ物音の近づくのを待伏せした。突撃の軍馬が圧寄せるかのやうな地響をたてゝ、間もなく秘密結社の一団は、砂を巻いて私の眼界に大写となつた。非常な速さで、誰も掛声ひとつ発するものとてもなく、唯不気味な息づかひの荒々しさが一塊となつて、丁度機関車の煙突の音と聞違ふばかりの壮烈なる促音調を響かせながら、一陣の突風と共に私の眼の先をかすめた。見ると連中は挙つて鬼や天狗、武者、狐、しほふき等の御面をかむつて全く何処の誰とも見境ひもつかぬ巧妙無造作な変装振りだつた。たゞひとり彼等の頭上にさゝげ上げられて鯉のやうに横たはつたまゝ、悲嘆の苦しみに悶掻き返り、滅茶苦茶に虚空を掴んでゐる人物だけが素面で、確とは見定めもつかなかつたが、やはり正銘な万豊の面影だつた。その衣服はおそらく途中の嵐で吹飛んでしまつたのであらうか、後は見るも浅猿しい裸形のなりで、命かぎりの悲鳴を挙げてゐた。たしかに何かの言葉を吐いてゐるのだが、支那かアフリカの野蛮人のやうなおもむきで、まるきり意味は通じなかつた。たゞ動物的な断末魔の喚きで気狂ひとなり、救ひを呼ぶのか、憐れみを乞ふのか判断もつかぬが、折々ひときわ鋭く五位鷺のやうな喉を振り絞つて余韻もながく叫びあげる声が朧夜の霞を破つて凄惨この上もなかつた。と、その度毎に担ぎ手の腕が一勢に高く上へ伸びきると、逞ましい万豊の体躯は思ひ切り空高く抛りあげられて、その都度空中に様々なるポーズを描出した。徹底的な逆上で硬直した彼の肢体は、一度は鯱のやうな勇ましさで空を蹴つて跳ねあがつたかとおもふと、次にはかつぽれの活人形のやうな剽逸な姿で踊りあがり、また三度目には蝦のやうに腰を曲げて、やをら見事な宙返りを打つた。そして再び腕の台に転落すると、またもや激流にのつた小舟の威勢で見る影もなく、拉し去られた。――私は堪らぬ義憤に駆られて、夢中で後を追ひはじめたが忽ち両脚は氷柱の感で竦みあがり、空しくこの残酷なる所刑の有様を見逃さねばならなかつた。空中に飛びあがる憐れな人物の姿が鳥のやうに小さく遠ざかつてゆくまで、私は唇を噛み、果は涙を流して見送るより他は術もなかつた。――それにしても私は、斯んな奇怪な光景を眼のあたりに見れば見るほど、見知らぬ蛮地の夢のやうでならなかつた。

後に聞くところに依ると、あの激しい胴上を十何辺繰返しても気絶もせぬと、村境ひの川まで運んで、流れの上へ真つさかさまに投げ込むのださうである。結社の連中は必ず覆面をして黙々と刑を遂行するから、被害者は誰を告訴するといふ方法もなく、人々は一切知らぬ顔を装ふのが風習であり、何としても泣寝入より他はなかつた。

あの時の万豊の最後は、あれなり私は見届け損つたが、狙はれたとなれば祭りや闇の晩に限つたといふのでもなく、蛍の出はじめたころの或る夕暮時に、村会議員のJ氏が役場帰りの途中を待伏せられて、担がれたところを、私は鮒釣の帰りに目撃した。彼は達者な泳ぎ手で、難なく向岸へ抜手を切つて泳ぎついたが、とぼ/\と手ぶらで引あげて行つた折の姿は、思ひ出すも無惨な光景で私は目を掩はずには居られなかつた。

鵙の声などを耳にして、あの時のことを思ひ出すと、私にはありありと万豊の叫びや議員のことが連想された。やがては次第に私も迷信的にでも陥入つたせゐか、水流舟二郎などゝいふ文字を考へたゞけでも、臆病気な予感に悸やかされた。あの胴上もさることながら、この寒さに向つての水雑炊と来ては思ふだに身の毛の悚つ地獄の淵だ。私は、水だの、流れだのといふ川に縁のある文字を感じても、不吉な空想に震へた。定めとてもない漂泊の旅に転々として憂世をかこち勝ちな御面師が、次第に自分の名前にまでも呪詛を覚えたといふのが、漠然ながら私も同感されて見ると、私は彼との悪縁が今更の如く嗟嘆されたりした。

澄み渡つた青空に、鵙の声が鋭かつた。往来の人々が、何か迂散臭い眼つきで此方を眺める気がして私は、いつまでも窓から顔を出してゐることも出来なかつた。

「そんな色に塗られては……」

戻つて来た御面師が、慌てゝ私の腕をおさへた。なるほど私はうかうかと青の泥絵具を、紅を塗るべき天狗の面になぞつてゐるのに気がついた。

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