Chapter 1 of 4

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老ホフマンはその金を、南アメリカの耕地の持主として、儲けたのであった。彼地で家柄のよい土着の娘と結婚してから、まもなく妻を連れて、故郷の北ドイツへ引き移った。二人は僕の生れた町で暮していた。ホフマンのほかの家族たちも、そこに住みついていたのである。パオロはこの町で生れた。

その両親を僕は、しかしあまりよく知らなかった。が、ともかくパオロはお母さんに生き写しだった。僕がパオロをはじめて見た時、つまり両方の父親たちが僕等をはじめて学校に連れて行った時、パオロは黄ばんだ顔色の、やせこけた小僧だった。今でも眼に浮かんでくる。彼はその時、黒い髪の毛を長くうねらせていたが、それがもじゃもじゃと水兵服の襟に垂れかかって、小さな細面をふちどっていた。

僕等は家では非常に仕合せに暮していたのだから、新しい周囲――殺風景な教室や、なかんずく僕等にぜひともABCを教えようとする、赤髯の小汚ない人間どもには、どうしても不服だった。僕は帰って行こうとする父親の上着を、泣きながらつかんで放さなかったが、パオロのほうは、まるで忍従の態度を取っていた。身動きもしないで壁によりかかって、薄い唇をきっと結んだなり、涙で一ぱいの大きな眼で、景気のいいほかの少年たちを眺めていたのである。その連中は横腹を突つき合いながら、冷酷ににやにや笑っていた。

こんな調子で怪物どもに取り囲まれていたので、僕等ははじめから、互いに惹きつけられるような気がした。だから、赤紫の教育家が僕等を隣同士に坐らせてくれた時には、嬉しかった。それ以来、僕等は団結してしまって、共々に教育の基礎を築いたり、毎日、弁当のパンの交易を営んだりした。

思い出して見れば、彼はしかしもうその時分から虚弱だった。時々かなり長く学校を休まされたが、再び出てくると、いつも彼のこめかみと頬には、平生よりなお明らかに、薄青い脈管が現われていた。かぼそい、浅黒い肌の人に限って、よくあるやつである。彼のはその後もずっと消えなかった。このミュンヘンで再会した時にも、それからあとロオマで逢った時にも、第一番に僕の眼についたのはそれだった。

僕等の友情は、それが成立したのとほぼ同じ理由で、ずっと学校時代を通じて継続した。理由とは、同級生の大多数に対する「距離の感激」である。十五歳でひそかにハイネを読み、中学三四年ぐらいで、世界人類の上に断乎たる批判をくだすほどの者なら、誰でも知っているあの感激である。

僕等はまた――二人とも十六だったと思うが――一緒に踊の稽古にも行って、その結果、共々に初恋を経験した。

彼を夢中にさせた小娘は、金髪の快活な子で、彼はその子を、年の割にはいちじるしい、僕には時々ほんとに気味悪く思われたほどの、沈鬱な激情であがめていた。

僕は特に或る舞踏会のことを思い出す。その少女があるほかの少年に、ほとんど立て続けに、二度もコチリオンを踊ってやりながら、彼には一度も踊ってやらなかった。僕ははらはらしながら、彼の様子を見ていた。彼は僕と並んで壁にもたれたまま、じっと自分の塗革靴をにらんでいたが、不意に気を失ってぶったおれてしまった。家に帰されてから、彼は一週間病床についていた。その時分――この事件のおりだったと思う――彼の心臓の決して健全でないことがわかったのである。

すでにこの時以前、彼は画を描くことをはじめていて、そのほうでは並々ならぬ才能を発揮していた。木炭の走り描きで、あの少女の風貌が如実に現わしてあって、下に「なれは花にも似たるかな――パオロ・ホフマン作之」と書いてある一枚を、僕はまだ蔵している。

いつのことだったか、はっきり覚えていないが、ともかく僕等がかなり上級にいた頃、彼の両親は町を去って、カルルスルウエに住みついた。老ホフマンはそこにいろんなつづき合いを持っていたのである。パオロは学校を換えないことになって、ある老教授のところに預けられた。

ところが、この状態も長くはつづかなかった。パオロがある日両親のあとを追って、カルルスルウエに行ったのには、次の事件が、まあ直接の動機ではなかったにしても、ともかくあずかって力があったのである。

というのは、ある宗教の時間、不意にくだんの教授が、物凄い眼付をして、つかつかと彼のところへ歩み寄るなり、彼の前にあった旧約聖書の下から、紙を一枚引っ張り出した。それには、左足だけまだ出来上っていない、きわめて女性的な姿が、なんら羞恥の色もなく、現われていたのである。

こういうわけで、パオロはカルルスルウエに行った。そして僕等は時々はがきを交換していたが、その交渉も次第次第にまったく絶えてしまった。

ミュンヘンでふたたび彼に出会ったのは、別れてから五年ばかり経った後だった。あるうららかな春の午後、アマアリエン街を下って行くと、アカデミイの入口の石段を、だれかが降りて来るのが見えた。遠くから見ると、まるでイタリア人のモデルかなんぞのようだった。近づいて見れば、それはまさしく彼だったのである。

中背で、やせぎすで、ゆたかな黒い髪に帽子をあみだにのせて、青筋の浮いている黄ばんだ顔色で、贅沢だけれども自堕落な身なりで――例えばチョッキのボタンが二つ三つ外れている短かい口髭を軽くひねり上げて……といった様子をしながら、持前のうねるような面倒臭そうな足どりで、彼は僕のほうへやって来た。

二人はほぼ同時に気がついた。そしてほんとうに心からの挨拶を交した。カフェエ・ミネルヴァの前で、互いに最近何年間かの動静を尋ね合っていた間、彼は昂然とした、ほとんど熱狂的な気分でいるらしく思われた。眼はきらきらと輝き、身振りは雄大荘重であった。そのくせ顔色はすぐれず、実際どこか悪そうな様子をしていた。今になれば僕はもちろんなんとでもいえるわけだが、でもほんとに、それは僕の目をひいたのである。それどころか、僕は構わずそういってやった。

「そうか。相変らずか。」と彼は問うた。「うん、そうだろうとも。ずいぶん病気をしたからなあ。つい昨年も、長い間それこそ大病をやってね。ここが悪いんだ。」

彼は左手で胸を指さした。

「心臓さ。昔からいつもこれだったんだ。――でも近頃はよほどいい。非常に工合がいいんだ。まったく健康だといっても差支えないくらいなんだよ。それに僕もまだ二十三だからね――あんまりかわいそうだろうじゃないか……」

彼は実際上機嫌だった。快活にいきいきと、一別以来の生活を語った。僕と別れてからまもなく、画家になることをやっとのことで両親に許してもらって、九カ月ほど前にアカデミイを終ると、――今しがたは、偶然アカデミイに寄ったのである――しばらく旅で、なかんずくパリで暮して、約五カ月以来このミュンヘンに住みついている……「多分まだずっと長くいるかも知れない――そりゃわからない。あるいは永久にね……」

「そうなのかい。」と僕は問うた。

「まあさ。つまりその――そうなってもいいわけじゃないか。この町が気に入ってるんだもの。特別に気に入ってるんだもの。全体の調子といい――ねえ、どうだい――人間といいさ。それにこりゃなかなか肝腎なことだがね、画家としての……まったく無名でもだよ……社会的地位は実際すてきなものなんだ。こんなにいいところがほかにあるもんか……」

「気持のいい知り合いでもできたかい。」

「うん、たくさんじゃないが、その代り非常にいいのがね。たとえばある家なんぞは、君に勧めずにはいられないな……謝肉祭の時に知り合いになったんだ……ここの謝肉祭は実に愉快なんだぜ。――シュタインという家だ。おまけにシュタイン男爵なんだ。」

「そりゃいったいどういう貴族なんだろう。」

「金力貴族という奴さ。男爵というのはもと相場師でね、昔はウィインでおそろしい勢力があって、全皇族と交際したりなんかしていたんだよ。……それから急に衰えちまってね、百万ばかり残して――といううわさだがね――事業から手を引いて、今じゃこの町で、地味だけれど貴族的に暮しているんだ。」

「ユダヤ人かね。」

「男爵はそうじゃあるまい。細君のほうはもしかするとね。でも、僕はみんな実に気持のいい上品な人たちだというよりほかはないな。」

「あの――子供はあるのかい。」

「ない。――いや実は――十九になる娘が一人ある。ふたおやはごく愛想のいい人たちでね……」

彼はちょっとの間てれたが、やがてこうつけ加えた。

「僕は本気で君に勧めるがね、僕があの家に紹介してやろうじゃないか。そうさせてくれりゃ僕は嬉しいがな。不服かい。」

「不服なものか。感謝するよ。その十九の娘さんと知り合いになるためだけでもね――」

彼は横眼で僕を眺めたが、やがていった。

「じゃ、そうしよう。そうなると早いほうがいいな。君の都合がよければ、あした一時か一時半頃、さそいに行くぜ。シュタインのところは、テレエジェン街二十五番地の二階だ。学校友だちを引き合わせてやるのは、楽しみだな。じゃ、そうきめたよ。」

僕等は実際、その翌日の正午頃、テレエジェン街のある立派な家の二階で、ベルを鳴らしたのである。ベルのわきには、太い黒い字で、男爵フォン・シュタインという名が書いてあった。

パオロはみちみちずっと興奮しつづけていて、乱暴に近いほど陽気だった。ところが、今二人で扉の開くのを待っている間に、僕は彼の様子に奇妙な変化を認めた。僕と並んで立っている彼は、瞼を神経的に慄わせているほか、どこもかしこも完全に静かだった――それは無理強いの緊張した静けさだった。首を少し差し伸べている。額の皮が張り切っている。その様子は、耳をぴくぴくと尖らせて、あらゆる筋肉を緊張させながら、物音をうかがっている獣かなにかのような感じがした。

僕等の名刺を受け取って引っ込んだ召使が、また出て来て、奥様はすぐお見えになりましょうから、しばらくおかけ下さいと勧めながら、かなり大きな、黒っぽい家具の置かれた部屋の扉を開けてくれた。

僕等が中へ通ると同時に、往来に面した出窓のところで、薄色の春の衣裳を着た若い婦人が立ち上って、探るような顔つきで、一瞬間たたずんでいた。「十九の娘だな。」と僕は思わず連れのほうへ、ちょっと横眼をつかいながら考えた。すると「男爵令嬢アダ。」と彼が僕にささやいた。

令嬢はすらりとした姿の、しかし年の割には成熟した輪郭を持った人で、きわめて柔かな、ほとんどものうげな身のこなしを見ると、そんなに若い娘さんとはちょっと思えないほどであった。こめかみを覆いながら、二つの捲毛になって、額まで出ている髪の毛は、つややかな黒で、顔色のほの白さとくっきり映り合っている。顔にはゆたかな、濡れた唇と分厚な鼻と巴旦杏形の黒い眼と、その眼の上に弓なりにかかっている濃い柔かい眉とがあるので、彼女に少くともある程度まで、ユダヤ種のあることは疑う余地がなかったけれど、しかしその顔は実に異常な美しさを持っていた。

「あら――お客様なの。」と僕等を数歩立ち迎えながら、令嬢は問うた。少しふくみ声である。なおよく見ようとするつもりか、片手を額にかざすとともに、片手を壁際にあるグランド・ピアノの上に突いた。

「それにまあ、大変嬉しいお客様のようね――」と令嬢は同じ語調で、今はじめて僕の友だちを、それと認めたかのようにつけ加えた。それから僕のほうへ、問うような一瞥を投げた。

パオロは令嬢のそばへ歩み寄ると、えりぬきの享楽に身を任せる人の、ほとんど眠たそうなゆるやかさをもって、さし伸べられた令嬢の手の上へ、無言のまま身をかがめた。

「お嬢さん。」と、やがて彼はいった。「失礼ですが、私の友だちを紹介いたします。一緒にABCを習った小学時代の同輩です。」

令嬢は僕にも手を差出した。柔かな、骨がなさそうに思われる、ひとつも飾りのない手である。

「嬉しゅう存じます――」と、微かなふるえを特有とする暗いまなざしを、僕の上に据えながら、令嬢はいった。「それに両親も喜ぶでございましょう……おとりつぎいたしたのだとよろしゅうございますが。」

令嬢がトルコ椅子に座を占めると、僕等二人は令嬢と相対して椅子についた。彼女の白い力のない両手は、雑談の間、膝にのっていた。寛やかな袖は、やっと肱を越すぐらいだった。手首の柔かなふくらみが僕の眼をひいた。

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