戻る
トリスタン
Table of Contents
トリスタン
マンパウル・トーマス
Reading Settings
文字サイズ
18px
テーマ
ライト
ダーク
セピア
ナイトアイ
行間
読書モード
翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 6 of 9

6

夫人はここへ着いた日の服装をしていた。――浮彫めいたビロオドの唐草模様のついた、黒っぽい重たそうな胸衣で、それが首と手とを、この世ならずなよやかに見せている。弾きはじめても、顔の表情は変らなかったが、それでも唇の輪郭が、平生よりさらにくっきりして、眼頭の陰がさらに濃くなったように見受けられた。弾き終ると、夫人は両手を膝に置いたなり、なお譜面を見つづけていた。シュピネル氏は音も立てず動きもせず、じっと坐ったままである。

夫人はもう一つノクチュルヌを弾いた。また一つ、さらにまた一つ弾いた。それから腰を浮かせた。が、それはただピアノの上蓋の上に、ほかの譜をさがすためにすぎなかった。

シュピネル氏はふと思いついて、廻転椅子の上にある、黒い厚紙表紙の譜本を調べてみた。突然彼は、なんだかわけのわからない声を立てた。そして彼の大きな白い両手は、この閑却せられた譜本の中の一冊を、熱烈にまさぐっている。

「こんなことがあるだろうか……これはうそだ……」と彼はいった。「いや、やっぱり見違いじゃない。……なんだか御存知ですか……ここにあったのは……いま私が持っているのは……」

「なんでございますの。」と夫人は問うた。

すると、彼は黙って題扉を指さした。すっかり蒼ざめてしまって、その本をだらりとさげて、唇をふるわせながら、夫人を見つめている。

「まあほんとうに? どうしてこんなものがここへ来ているのでしょうね。さあ、こちらへ頂きましょう。」と夫人はあっさりいって、その譜を譜台に立てて腰をおろすと、一刹那沈黙を守ったのち、第一ペエジから弾きはじめた。

彼は前かがみに、両手を膝の間に組み合せたなり、首を垂れて夫人のそばに腰かけている。夫人は発端を、低徊するような、聞いていて苦しくなるような緩やかさで、装飾音の一つ一つの間を、不安になるほど長く延ばして弾いた。あこがれの楽旨――夜の中の淋しい迷える声が、かすかに心細げな問をひびかせる。静寂と期待。すると、どうだろう、答えるものがある。問と同じ、おずおずした淋しいひびきではあるが、たださらに高く、さらになよやかなのである。また新しい緘黙。と、あの低調のみごとな急強音で――それはまるで、情熱が振い立って楽しくさわだつように聞える――恋の楽旨がはじまって、次第に昂まりつつ恍惚とよじ昇っていって、ついに快い紛糾に達したのち、また解けながら降りてきた。すると重たい悩ましい法悦の歌を低音に歌いながら、セロが出てきて、旋律をつづけてゆく……

演奏者はこのみすぼらしい楽器で、オオケストラの効果を、かなり上手に暗示した。壮大に高まってゆくヴァイオリンの急進音は、輝くばかり精密にひびき渡った。夫人はもったいぶった敬虔さで弾いている。一々の形象に信心深く停滞しては、僧侶が最も神聖なものを頭上に捧げるように、個々のものをうやうやしく明確に強調するのである。なにが起ったか。二つの力が、二人の遠く離れた者が、悩みと浄福のうちに、営々と相近づいた末、永遠と絶対とに向っての、恍惚たる物狂わしい欲望に燃えながら、相抱いたのである。……前奏はぱっとひらめき上って、やがて崩折れた。ちょうど幕の開くところで、夫人は弾き止めた。それから無言のまま、譜面を眺めつづけていた。

この間にシュパッツ夫人は、退屈というものが人間の容貌を醜くする――眼を顔から飛び出させて、死顔のような物凄い相好にしてしまう、あの程度に達していた。なおそのうえ、こういう種類の音楽は、彼女の胃神経に作用して、この消化不良の組織体を不安状態に置いたうえ、痙攣の発作が起りはせぬかと、彼女に気づかわせるのであった。

「わたくしどうしても自分の部屋に行かなければなりませんの。」と彼女は力なくいった。「これで失礼いたします。わたくし帰りますから……」

それなり彼女は出て行った。黄昏はずっとつのっていた。外には、こまかく音もなく雪が地壇の上に落ちているのが見えた。二本のろうそくが、ゆらゆらと乏しい光を投げている。

「第二幕を。」と彼はささやいた。そこで夫人はペエジをめくって、第二幕をはじめた。

角笛のひびきが遠くかなたに消えた。いや、それとも木の葉のそよぎであろうか。泉の柔かなささやきであろうか。すでに夜は、その沈黙を、森にも家にも注ぎかけていた。そしていかに切なる戒めも、もはや憧憬のみなぎりを押しとどめる力はなかった。聖なる神秘は成就した。灯が消える。異様な、にわかに曇らされた音色で、死の楽旨が降りてくる。するとあわただしい焦躁のうちに、憧憬はその白いベエルを、恋人に向ってはためかす。彼は両腕をひろげながら、闇の中を近づいて来るのである。

おお、万象の永遠なる彼岸における合体の、溢るるばかりゆたかな、飽くこと知らぬ歓呼よ。悩ましき迷誤をのがれ、時空の束縛を脱して、「汝」と「我」と、「汝がもの」と「我がもの」とは、一つに融けて、崇高なる法悦となった。真昼の腹黒いまぼろしこそは、彼等を裂くことができたものの、真昼の思いあがった偽りは、夜も見得るこの人々を、魔薬の力が彼等のまなざしを浄めて以来、もはやまどわすことはできなかった。恋をしながら、死の闇夜とその夜の甘き神秘を観じた者には、光の妄想のうちに、ただ一つのあこがれが――その聖なる夜へ、久遠にして真実なる夜へ、すべてを一つにする夜へ向ってのあこがれが残った……

おお、帷をおろせ、恋の夜よ、彼等の待ち望む忘却を、彼等に贈れ。汝の法悦もて、彼等をひしと押し包め。そして彼等を、欺瞞と別離の世界から解き放せ。見よ、最後の灯は消えた。世を救いつつ、妄念の苦悩の上に立ちこめる神聖な薄明の中に、思索思考は溺れ沈んだ。まぼろしの色は薄れ、わが眼は夢見心地に光を失う時も――真昼の偽りが我から押し隔てていたもの、わがあこがれをいやしがたく悩ませつつ、幻のごとくかなたに立てていたものが、消え去る時も――その時すらも、おお、実現のいみじさよ、その時すらも我は世である。――さてそれにつづいて、ブランゲエネの陰気な「心せよ」の歌に伴って、あらゆる理性よりもけだかい、あのヴァイオリンの昂騰がひびいた。

「わたくしすっかりはわかりませんの、シュピネルさん。ただ想像だけしていることが、ずいぶん多いのですよ。これはいったいどういう意味なのでしょうか――その時すらも我は世なり――と申すのは。」

彼は小声で手短かに説明してやった。

「ああ、そうなのですか。――あなたそれほどよくわかっていらっしゃるのに、お弾けになれないというのは、ほんとにどうしてでしょう。」

奇妙なことに、彼はこの無邪気な問に耐える力がなかった。赤くなって両手をもみ合せながら、彼は椅子ごと沈んでしまいそうに見えた。

「それはめったに一致するものではありませんよ。」と、彼はやがて苦しげにいった。「いえ、弾くほうは私だめなのです。――しかしまあおつづけ下さい。」

そこで二人は、この神秘劇の恍惚たる歌をつづけていった。愛は死ぬことがあろうか。トリスタンの愛が? 汝の而してわがイゾルデの愛が? おお、否、死の手はこの永遠の女にまではとどかぬ。我等を妨ぐるもの、まどわしつつ、一身同体の我等を裂くもの、それよりほかに、何が死の手に倒れようぞ。――甘き「及び」によって、愛は彼等二人を結びつけている。死がその語をたち切るとしても、もし彼等の一人に死が与えられたとすれば、もう一人の生をもって、それをたち切るよりほかはないのである。そして神秘な二重唱が、彼等を愛死という名づけがたい希望のうちに融合させた――夜の仙境の無窮に離るることなき抱擁という希望のうちに。甘き夜よ。永劫の恋の夜よ。いっさいを包容する浄福の国よ。汝を予感のうちに観じたほどの者は、いかにしておそれなしに、落莫たる真昼へと戻りめざめることができよう。このおそれを追い払え、やさしき死よ。いざ、あこがるる者らを、めざめの不幸から残りなく解き放せ。おお、節奏の乱れ狂う嵐。形而上的認識の半音ずつ押し昇る狂喜。昼の光の別離苦をはるか離れたこの法悦に、心のおきどころもないではないか。偽りもおそれもなき、穏かなあこがれ、崇高な、悩み知らぬ消滅、無辺際の中の至幸なるまどろみ。汝はイゾルデ、われはトリスタン、否、もはやトリスタンにもあらず、イゾルデにもあらず――

突然、はっとするようなことが起った。演奏者ははたと弾き止めで、片手を眼にかざしながら、暗い中をうかがった。すると、シュピネル氏も坐ったなり、急いで振り返った。奥のほうの、廊下に通ずる扉が開いていて、一つの黒い人影が、もう一つのの腕にすがりながら入って来たのである。それは「アインフリイト」の客の一人で、やはり橇の遠乗りに加わることができず、この日暮に乗じて、例のごとく本能的に悲しげに、療院中を巡回しているのだった。十九人の子供を生んだあげく、もはや考えるということができなくなってしまった、あの婦人患者だった。看護婦の腕によっているヘエレンラウフ牧師夫人だった。眼もあげずに、たどたどしい、さまよいの足どりで、室の奥のほうを横切ると、反対側の戸口を通って、彼女は消えてしまった――物言わず凝然と、踏み迷いながら無意識に。――ひっそりと静けさがつづいた。

「あれはヘエレンラウフの奥さんでした。」と男がいった。

「ええ、お気の毒なヘエレンラウフさんでした。」と女がいった。それからペエジをめくって、大詰めを弾いた。イゾルデの愛死を弾いた。

彼女の唇が、なんと蒼ざめてくっきりしていることか。また眼頭の陰が、なんと濃くなったことか。透き通るような額の眉の上には、あの薄青い脈管が、せつなげにまた危ぶませるように、ますますはっきりと浮き出てきた。彼女のせわしい両手の下で、空前の上騰が、あの兇悪といってもいいほどの、にわかなピアニシモで刻まれながら、果された。足もとから大地が滑り去るような、崇高な情炎の中に没入してしまうようなピアニシモである。巨大な解決と成就とが、満ち溢れるような勢いで、はじまって繰り返された。測りがたい満悦の、耳を聾するようなとどろきである。それが飽くことなく、何度も何度も繰り返された後、潮のように引き退きながら形を変えて、まさに消え入りそうになったが、もう一度あこがれの楽旨を、その諧音の中へ織り込んだと思うと、息を吐きつくして、絶え入り消え果て散り失せてしまった。深い静寂。

二人は聞き耳を立てた。首をかしげながら、聞き耳を立てた。

「あれは鈴ですわ。」と彼女がいった。

「あれは橇です。」と彼がいった。「私は行きます。」

彼は立ち上って、部屋を突っ切って行った。奥の扉口で立ち止って振り返ると、ちょっとの間、おちつかぬ様子で足踏みをしていた。と、やがてこういうことが起った。――彼女から十五歩か二十歩離れたところで、彼はひざまずいたのである。音もなく両膝をついたのである。長い黒いフロックコオトが、床の上にひろがった。両手は口のあたりで組み合わされて、肩が引きつるようにふるえている。

彼女は両手を膝に、前かがみになって、ピアノから身をそむけたまま、彼のほうを見つめた。あやふやな、困ったような微笑が顔にうかんで、眼は考え込むように、またいくらか光を失いかけるほど大儀そうに、薄闇の中をうかがっている。

はるか遠くのほうから、鈴の音と鞭のうなりと、人声の入りまざった響きとが、近づいてきた。

あとまで長いことみんなの口に上ったあの橇の遠乗りは、二月二十六日に行われたのであった。二十七日は雪解の日で、あらゆるものが溶けて滴ってはねかって流れたが、クレエテルヤアン氏の夫人は、この日はすこぶる工合がよかった。二十八日になって、夫人は少し血を吐いた……なに大したことではない。しかしそれは血だった。同時に夫人は、かつてなかったほどのはげしい衰弱におそわれて、床に就いてしまった。

レアンデル博士は夫人を診察したが、診察しながら、博士の顔は石のように冷たかった。それから博士は、科学の命ずるものを処方した。――氷片とモルヒネと絶対の安静とである。ただしその翌日博士は、多忙のゆえをもってこの診察を辞し、これをミュラア博士の手に移した。ミュラア博士は義務と契約とに従って、すこぶるおとなしくこれを引き受けた。寡黙な蒼白い貧相な憂鬱な男で、そのささやかな栄えないはたらきは、健康に近い患者と、もう望みのない患者とに捧げられているのである。

Chapter 6 of 9
|