五 常識
経験の右の如き性質から、社会的に考えると、常識というものが出来てくる。常識は社会的経験の集積であって、我々の行為の多くは常識に従って行われている。常識は先ず行為的知識である。常識は実際的といわれるが、実際的とは経験的・行為的ということである。行為は環境における行為として技術的であり、常識は技術的知識であるのがつねである。実際的ということはまた日常的ということを意味し、常識は平生の生活に関わり、日常的ということがその特徴をなしている。常識は日常的・行為的知識である。そして次に常識は社会的な知識である。常識は個人的経験の結果でなく、社会的経験の結果である。個人にとってはそれはむしろ社会から与えられたものとして受取らるべきものである。この場合社会というのは何等か閉じたものの性質をもっているのがつねである。それは或る家族、或る部落、或る国というが如き、ベルグソンのいわゆる閉じた社会であって、人類というが如き開いた社会ではない。ベルグソンに依ると閉じた社会は諸習慣の体系と看做され得るものであるが、常識はかような社会において習慣的に行われる知識であり、常識そのものがまたかような社会の紐帯となっている。常識は閉じた社会に属するものである故に、一つの社会における常識はしばしば他の社会における常識と異っている。常識の通用性はそれぞれの社会に局限されているのがつねである。「ピレネーのこちらでは真理であるものも、あちらでは誤謬である」、とパスカルはいった。常識の通用性は局限されているが、しかしその社会に属する限り誰もそれをもつことを要求されている。第三に常識は何か直接的に自明なものと思われている。それがいかなる道筋を経て出来てきたものであるか、その根拠がいかなるものであるかを反省することなく、或る自明なものとして社会的に認められているのが常識のつねである。即ち常識は実定的なものである。常識のこの性質は、常識と科学的知識とを比較してみればわかる。科学的知識の性質は、それを問に対する答と考えると明瞭になる。問に対する答は、「然り」か「否」である、肯定か否定である。肯定は否定に対する肯定であり、否定は肯定に対する否定である。その肯定は否定によって媒介されたものでなければならぬ。科学的知識はつねに問に生かされ、従って探求を本質とするものである。しかるに常識は問のない然りであり、否定に対立した肯定でなくて単純な肯定である。常識は探求でなく、むしろ或る信仰である。常識は実定的なものであり、或る慣習的なものとして直接的な知識である。そして社会における慣習が法的な強制的な性質をもっているように、常識もその社会に属する者に対して法的な強制的な性質をもっている。それは常識が特に行為的知識であることと関係しており、常識は個人に対する一つの社会的統制力として働く。非常識であることは、無知を意味するのみでなく、社会的に悪とも考えられるのである。更に常識は有機的な知識である。それは決してばらばらなものでなく、それ自身の仕方で組織されたそれ自身の斉合性をもっている。一定の社会において一つの常識は他の常識と衝突することなく、もし衝突するものであれば常識とはいわれない。常識的な行為はその社会の全体との関係において不都合の起らないのが普通である。一つの常識はつねに他の常識と結び付き、これを予想している。常識のかような斉合性は科学の求める論理的斉合性とは性質を異にし、その際その常識の根拠、一つの常識と他の常識との論理的関係は反省されていない。常識の斉合性は慣習のもっている斉合性と同じ性質のものである。それは常識が社会の有機的な関係と結び付き、それに相応する有機的な知識であることに基いている。社会の有機的な関係というのは、社会のうちに均衡が保たれている状態であって、この場合個人と社会との間には適応が持続的に存在している。その均衡から習慣が生れ、それに従って常識が作られる。社会のうちに均衡が存在する限り常識は通用する、また社会は現存する均衡を維持するために人々が常識的であることを強制するのである。
常識の右の如き性質は逆に何処から常識が破られるに至るかを示しているであろう。常識は先ず日常的な知識であった。そこで常識は非日常的なものの経験によって動揺させられる。哲学が驚異に始まるといわれるのも、そのためである。ひとり哲学のみでなく、すべての精神的文化は、非日常的なものの経験或いは日常的なものの非日常的な仕方における経験から生れるのである。日常的な知識は習慣的な、その意味において自然的になった知識である。その常識が破られるところから特に精神的といわれる文化が出てくる。非日常的なものの経験或いは日常的なものの非日常的な仕方における経験は、経験の深化と呼び得るものである。第二に常識は閉じた社会と結び付いた知識であった。そこでまた常識は経験の拡大によって、言い換えると、自己が有機的に結び付けられている環境以外の新しい環境の経験によって破られる。自己の経験する世界の拡大するに従って常識は動揺させられる。或る社会において常識として行われることも他の社会においては常識として通用せず、一つの社会の常識と他の社会の常識とが矛盾するのを知るとき、自己のもっている常識に対して疑惑が生ずるようになる。第三に常識は有機的な知識として社会における均衡の状態に相応するものであった。その均衡が破られるとき、常識もまた動揺させられる。社会が有機的時期から危機的時期に入るとき、常識では処理し得ないようなことが次々に起って来る。有機的時期とは社会において均衡の支配的な時期であり、危機的時期とは反対に矛盾の支配的な時期である。後の場合、個人は社会の習慣的な有機的な関係から乖離し、経験の個性化が行われ、それと共に批判的精神が現われてくるのである。しかるにかような危機は、一定の歴史的時期において集中的に大量的に現われるのみでなく、あらゆる場合に存在している。習慣は絶えず破られるであろう。しかし旧い習慣が破られるにしても、新しい習慣が直ちに作られる。人間は習慣なしにやってゆくことができぬ。習慣が必要であるように、常識も欠くことのできぬ重要性をもっている。
ところで有機的と危機的とは、社会における均衡と矛盾との関係を意味し、社会がもと対立するものの統一であることを示している。常識は閉じた社会のものであると私は述べたが、いかなる社会も単に閉じたものでなく、同時に開いたものである。ベルグソンは、閉じたものと開いたものとはどこまでも性質的に異るものであって、閉じたものをいかに拡げても開いたものにはならぬといっているが、社会は元来このように対立するものの統一である。人間は閉じた社会に属すると同時に開いた社会に属している。我々は民族的であると同時に人類的である。かようにして、常識というものにも二つのものが区別されるであろう。それは一方、すでにいった如く、或る閉じた社会に属する人間に共通な知識を意味する。この場合、一つの社会の常識と他の社会の常識とは違い、それぞれの社会にそれぞれの常識がある。しかし他方、あらゆる人間に共通な、人類的な常識というものが考えられる。それは前の意味における常識と区別して特に「良識」と称することができる。例えば、「全体は部分よりも大きい」というのは常識である。それは「自然的光」によってすべての人間に知られるものであって、直接的な明証をもっている。それは知性の自然的な感覚に属している。我々の生活のあらゆる方面においてこの種の常識がある。この場合、常識の光と科学のそれとは根本において同じであるが、常識としてはそれが直接的であって反省されていないという差異がある。かようにして一般に常識といわれるものには固有の意味における常識と良識とが含まれ、両者はしばしば対立して現われる。余りに常識的であることは良識に反し、また余りに良識的であることは常識に反する。そこに既にいった二つの社会に同時に属するという人間の根本的性質が認められる。現実の社会は閉じたものであると同時に開いたものであり、開いたものであると同時に閉じたものである、その理解が我々の真の常識、また真の良識でなければならぬ。