一
八月三十一日の夕方、朔日から学校の始まるちいさい子供達を連れて、主人夫婦は東京に帰る事になり、由井ヶ浜の曲淵の別荘には、九人の人数が残る事になった。長男の一郎と、長女の甲子と、次女の乙子と、夫人の里の遠縁の者の娘で甲子や乙子の世話をする養子と、一郎の同級生の澤と、女中の延と鉄と、別荘番のじいやとばあやがいた。外には英国種のポインタアの年をとってよぼよぼしているのがいた。
行儀のいい事を何よりも好む、神経質で口やかましい主人がいなくなったので、いい合せたようにみんなの心持は愉快に自由に放縦になった。停車場へ送って行った帰りに、一郎は外の者に別れて、一の鳥居の側にいる岡部の兄妹を誘って、ホテルに出かけた。夏中そこの舞踏場で、一郎の連中は、亜米利加の女や日本の令嬢達と踊ったが、今はもう客も少なく、比律賓から夏場の稼ぎに来ていた楽手達も、小金をためて帰国してしまって、涼しい風の来る広い板の間に並べた卓について、飲料をとる人影もなかった。それでも一郎は楽しかった。目の前に明るい顔をしている友達の妹の心を、この頃になって、漸くしっかりと捉えてしまった確信があった。いつでも、こっちから求めさえすれば、求めるものは容易に与えられそうないきいきした希望と、流石にそれに伴う軽い不安とに、若々しく、健康で、浮気な胸をおどらせていた。
一郎と別れた外の者は、滑川に沿った砂山から海辺に出て、夕日の沈んで行く頃の、めっきり秋めいて冷い渚に、下駄や裸足の跡を残して歩いて行った。
中学時代から同級で、学問でも世間智でも、お坊ちゃん育ちの一郎と比べると格段に立勝っている澤は、先年父親の死んだ時、学資の関係で廃学しなければならなかったのを、一郎の父が息子の良友と見込んで、毎月の衣食費から月謝まで補助する事になったのであった。来年学校を卒業すると、一郎は洋行するはずになっていたが、澤は主人の主宰している会社に雇われる事にきまっていた。彼は小学時代から優等生の誇を持っていた。模範的の学生だという自信もあった。郷里では旧家として知られていたが、母は早く死に、父は政治狂で、山林から田畑まで全部を運動費につかって、幾度となく議員選挙の候補者に祭上げられたあげく、一度も当選の喜びを知らずに、一人息子を無一物に残して世を去った。夏休が来ても、帰るべき家は人手に渡ってしまったので、曲淵の一家にくっついて、その別荘にいる外には途がなかった。以前は対等の友達づきあいだったのが、主従とまでは行かないでも、今では多少ひけ目を感じる関係になっているので、彼の心持には始終滑かでない陰影があった。学業にこそ身を入れないけれども、何をやっても器用な運動家で好男子の一郎は、富裕に育った友達と一緒に、夏休といえば、恋の冒険の季節のように考えて、避暑地に集る美しい娘達の噂に夢中になっているのだが、澤だけは仲間はずれで、気楽な連中を羨む心持と、軽蔑する心持とを持っていた。自分はそんなのらくら息子とは訳が違うのだと云う誇に頼って、密かになぐさめていた。
しかし、彼の心の中にも、つい近頃になって、一人の女の姿がはっきりと浮ぶようになった。それは養子だった。
養子は曲淵夫人の里の縁類の娘で、これも不幸な身の上だった。事業に失敗した父親が、手形偽造の嫌疑を受けて自殺した後で、継母は他へ再縁し、兄は植民地の病院医として赴任し、外に頼る処がないので、曲淵の世話になる事になった。甲子とは四才違い、乙子とは七才違いの、今年二十一ではあるが、姉妹のためには家庭教師のような地位に置かれ、殊に体の弱い乙子のためには保母の役目さえ負わされていた。府立の女学校に通っていた頃は、女子陸上競技の選手として短距離競走の記録保持者だった事もある。大柄で、色の白い、目鼻立のはっきりしたのが、大勢の中や、広々とした場所では、若い男の目につく姿だった。一郎の友達仲間でも、少なからず問題にしていたが、養子はそういう連中を頭から馬鹿にしていた。
澤は、自分と同じような恵まれない境遇に在る養子に対して、素直な同情は先から持っていたが、恋らしい心持は最近までなかった。ひとつには、生来の己れを高く評価する性質が、不遇な人を哀れみこそはすれ、自分と同等もしくはそれ以上のものとして考える事を妨げたのである。彼はむしろ、出来る事ならば家門の正しくかつ現在栄えている家の娘を、将来の妻として迎えたいと密かに願っていた。母親似の一郎とは違って、角張った父親に似た甲子ではあるが、自分の才能を見込んでくれるものなら貰いたいと云う望を、心の奥底に秘めていた時代もあった。
それが、どうして養子を恋しく思うようになったかと云うと、やはり同じような境遇が結びつけたものと言う外はない。おまけに一方では、甲子の彼に対する態度が、先方が女らしく成熟して来るに連れて、いよいよかけはなれたものになって来たのも、自然と彼女に対する野心とも云うべきただならぬ心を薄らがせた原因となった。
一例としては、或時麹町の曲淵の本邸の庭にのぞんだ座敷に、甲子の友達が集っているところを、何も知らずに澤が通りかかった事があった。若い派手づくりの令嬢達の見る目にびくびくして、耳のかげまで赤くなって足早に過ぎたが、何かささやき合う気配を感じたと思うと、
「あら、違うわ。うちの書生みたいな人なのよ。」
と声変のしている甲子の打消すのが聞えた。続いて賑かに笑う声に追われるように逃げ出した澤は、屈辱の念に堪えられなかった。自分とは全く違う世界の人間だと云う事が、常識の発達した実業家志望の青年の頭脳には、別段の無理もなくはっきりとわかった。
「どうせ私なんか犯罪人の娘よ。」
と、なげやりな口をききながら、腹の底にはしっかりした信念を持っていそうな養子の方が、段々親しみを増して来た。一郎にしても、娘達にしても、浮々とその日その日を遊び暮しているばかりで、取り止めた考というものは何ひとつ持っていないのに、養子はとにかく学問にも実社会の問題にも多少の理解は持っていて、同じ新聞を読むにしても、音楽会や運動会の記事に兄妹が興じている時、澤と二人の話は大人の会話だった。
「澤さんは羨しいわねえ。学校さえ卒業すれば、後は自分の腕次第でしょう。男はほんとにいいと思うわ。」
いつも養子は口癖にして、女性の生甲斐なさを嘆いていた。気の毒な身の上と、女ながらも自力で何かしたいという意気と、世が世ならばと胸中ではなぐさまずにいながら、さばさばしたとりなりの一切が、澤には気持よく思われて来た。
殊にこの一箇月半の鎌倉の生活が、一層二人を親しくした。澤が食当りで五日ばかり寝た時の養子の看護は、母親の慈愛の温さを知らない青年の心には、忘れ難いものに思われた。いつの間にか、澤は養子に対して苦しいような慕わしさを感じるようになった。恋愛の冒険的の興味をついぞ知らない澤の事だから、恋は直ぐに将来の結婚の問題だった。身よりのない二人こそ終生の最もいい伴侶だというような、真面目くさった考も持っていた。とにかく自分の心持だけはいい機会に打明けて、先方からもはっきりした言葉を酬いられたいと願っていた。心と心とが許しあった男女の清い交際と云った風な、感傷的な小説らしい空想が、彼の頭にはいっぱいだった。
そこに、烟ったい主人夫婦の帰った後の、解放された延びやかな心持が、もくもく湧返って来た。一郎が友達を誘ってホテルに出かけて行く姿を、いつもならば苦々しく思うはずなのに、その日は同情にみちた微笑をもって見送った。
夕方の浜辺を散歩する人の数もめっきり少なくなって、甲子を真先に、少し遅れて乙子と養子がつづき、最後に澤が、前に行く三人の後姿に興味を持ちながら歩いて行った。ホテルの涼場の下を通って、稲瀬川のそばまで行くと、別荘の屋根が見える。そこまで行って、女達は砂の上に腰を下した。
「澤さん、休め。」
養子が大きな声で号令をかけたので、姉妹は声を揃えて笑った。
「えんやらやっと。」
澤もあかるい気持で冗談をいいながら、昼間のぬくもりの残っている砂の上に両足を投出した。
磯の日細りて更くる夜半に
岩打つ浪音ひとり高し
かかれるとも船人は寝たり
誰にか語らん旅のこころ
細く高い三人の肉声が、誰が始めたともなくうたい出した。澤はその傍で、初秋の澄んだ海気を吸いながら、誰でもいいから心から親しめる人のほしい、孤独感に瞼が熱くなりながら、星の出た海の上の空を、じいっと見つめていた。
四人が別荘に帰ったのは、すっかり夜になってからだった。あかりの下で、めいめい勝手な雑誌を読んだり、編物をしたりしているのを、縁側の籐椅子に長くなって、澤は見ないようなふりをして見ていた。庭先の松の林の向うに、月の出の明るい色が段々濃くなって、見ているうちにまんまるい月が、ぐんぐん空にのぼって行った。
「あら、私櫛を落して来たわ。」
突然読みかけの雑誌を伏せて養子が叫んだのは、大分更けてからだった。少し旧式の大きい束髪に手をあてて、首をかしげたが、
「きっと先刻休んだ所ですよ。その前には確かにあったんだから。参円五拾銭落してしまっちゃあ惜いわねえ。」
冗談を云いながら立上ると、縁側に出て空を見た。
「いい月夜だから、一寸行って見て来よう。乙子さん待ってらっしゃい。直き戻って来ますから。」
「養子さん、一人でよくって。」
編物の手をとめて、甲子が声をかけた。
「大丈夫ですよ。こんなに明るいんですもの。」
無雑作に答えて、後姿は歩き出した。
「僕が行って来ましょうか。」
澤は、機械体操でもするような身の軽さで、椅子から飛下りると、あとを追って庭に出た。
「いいえ、いいんですよ。自分で行きますよ。」
という女の声がはっきりと姉妹の耳に聞こえたが、それきり二人とも行ってしまった気配だった。
門の外の、雑草にまじって芒や野菊も延びている溝川のへりを真直ぐに海に出ると、月夜のあかるさは一層はっきりしたが、西の方の空には大きな雲が重なり合って、風も思いの外強かった。脚に巻きついたり、吹きまくられたりする白衣の裾を気にしながら、養子は先に立って歩いて行った。
青貝入の西洋櫛は、澤の目にも覚えのある物だった。きっとそこに落したに違いないと、確信をもって養子の云う幾時間か前にみんなが並んで腰を下した場所を、共々に探したけれど見つからなかった。
「どうしたんでしょう、確かにここに違いないんですが、拾われちゃったのかしら。」
養子は思い切れないで、幾度も同じ所を見て廻った。父親が自殺する前に、珍しく一緒に散歩に出た時買ってくれた遺品だった。並みでない死に方をした父に対して、執拗な愛情を持っている養子には、なくなしては申訳がないという気持もあった。
「やっぱりなくなしちゃったのかしら。」
あきらめ兼て、砂の上に長く影を投げて佇みながら未練らしく嘆息した。
「おや、雨かしら。」
たった一粒、ひやりとした頬ぺたに掌をあてて、澤は後の方の空を振仰いだ。先刻の雲が、月に向ってちぎれて飛んで行くのであった。
「雨ですよ。」
そう云うひまもなかった。はげしい夕立が砂地を打って落ちて来た。二人は砂山の下の、昼間は海に入る人の着物を預かる葭簀張の茶店の中にかけ込んだ。
月はまだまんまるく、高い処に澄んでいるのに、空の半分は暗くなって、なかなか雨は止まなかった。
「変な天気ですねえ、気味が悪いわ。」
「明日が二百十日ですか。」
「いいえ、あさってでしょ。」
葭簀の隙間から落ちる雨だれに身をすくめながら、二人は別々の心持で、不思議なその晩の景色を見て立っていた。
不意に、目の前の砂浜を手を引合って駆けて行く男女の姿が見えた。頭から降りそそぐ雨を避ける場所がないので女は軽い叫声をあげながら、男の力に引擦られて行ったが、間もなく大きな漁船のかげにかくれて見えなくなった。
「今の、一郎さんでしょ。」
養子にそう云われるまでもなく、それが一郎と、その友達の岡部の妹である事は澤も認めた。何か大きな事件でも目撃したような気持で胸がどきどきして、返事も出来なかった。
月はしばしば雲にかくれたり、又未練らしく顔を出したが、雨はなかなか止まなかった。頭から肩へかけて、二人ともぐっしょり濡れてしまった。養子の横顔を澤はいつにも増して艶々しく思った。
「養子さん。」
非常な努力で、澤が呼びかけた声は無慙に震えていた。
「僕は真面目に貴女に聴いて頂きたい事があるんですが……」
ただならぬ男の語気に、身をかたくして振向いた相手の視線に射られて、澤は言葉が詰ってしまった。こんな事では駄目だぞと思いながら、どんな態度も、どんな言葉も、この場合芝居めいておかしいものに考えられ、唇はすっかり乾いてしまった。
暫時の間、無言のまま、お互の呼吸を感じながら、二人は顔を見合っていた。
「澤さん。」
気力負けして、足下の砂地に澤が視線を落した隙を見て、余程たってから養子の方が口を切った。
「私は犯罪人の娘ですよ。」
驚いて澤が顔を上げた時、養子は強いて笑おうとしたらしかったが、笑うだけのゆとりがなく、いきなり土砂降の雨の中を、別荘の方に駆出した。
しまったと思いながら、澤も直ぐ後から駆出した。
別荘の門を入る時には、雨はぱったり止んで、又まんまるい月が、けろりとした顔をして、滞りなく晴れた中空の風に吹かれていた。
「養子さん、櫛あって。」
「遅かったわねえ、濡れちゃったでしょう。」
気づかっていた姉妹が縁側に出迎えた時、二人ともずぶ濡になって着物の吸いつくようにぴったり肌にくっついたままの姿で、せいせい息を切らしていた。