七
四時近くなった夏の日は、沢合に山の影を長く投げていた。
三人は別々な想いに耽りながら、並んだかげを追って歩いて行った。
池田は一月ばかり前に、自分の身の上に起ったことを思うと、夢のような気持ちがした。若しあの時に自分があんな煮え切らない真似をしないで、すぐ石山と争ったら、人も殺さず、この善良な青年を苦しめることもなく済んだのだと思うと、彼の心はまた痛んだ。けれども彼はまた、自分はこの山に来てから、なすべき丈けの事はちゃんとして来た。まだその上に、人の生活にまで立ち入って、要もない事にまで干渉したり、束縛したりする鉱主が悪いのだと思った。イヤ、それに媚びる卑怯な奴等が何時でも害を醸すのだ、その先きにも悪いことが沢山あると、罪をそれになすりつけて、ホッと気を軽くしてもみた。
然しそれでは、矢張り彼の心は落ちつかなかった。周囲がどんなに悪かろうと、自分さえドシドシ強く進んで行ったなら、こう言う心の苦しみは受けまいと思った。そして自分の卑怯と怠惰を責めるより外に途はなかった。
絣の着物をきて、帽子も被らずに、夕陽を背負って歩いて行く、やせぎすな松田の姿をみると、彼は妙に悲しくなった。
「気の毒だね」と、フト萩野に呟いた。
「全く気の毒でさ、俺なんか若い時から暴れて歩いて、随分切りも切られもしたけど、まだ牢屋の味は知らずに済んでるんだ。松田のようなおとなしい人間が、人を殺して懲役に行くなんて、全くはずみですよ。だけど松田が殺さなきゃ、三田が殺すか殺されるかしたんだ。どっちみち、一人は死んで、一人は行くことになってたんだ」
「全くそうだね、元はって言えば、あの阿久津が、何時かのことを根に持って、こんなことを仕出かしたんだよ、卑怯な奴だ」と、池田はまた宿屋の伜を憎んでみた。
「そう言や、俺があすこで喧嘩したのが種になったことにもなりますね」と、萩野は少し不服らしく言った。
「そりゃそうさ、一番最初は、行って見るって言った僕が悪いんだ。けれども、何も向うの坑夫だって、自分の持ってる山でもないのに、一寸見たって、怒って喧嘩するにゃあ当らないんだ。あんな事で喧嘩して、友子を一人懲役にやったって、鉱主から褒美が貰える訳でもないのに、みんな悪いんだよ。一体山と山の坑夫が意地っ張りっこをするなんて言うのが間違ってるんだ」
「だってお前さん、昔から隣山同志は、立会の時だって、意地の張りっこをするに定ったもんでさ」
「だって君達のいる山の鉱石を掘り切って、鉱主がウンと金をこさえたら坑夫にどうしてくれるんだい。矢張り浪人すりゃ友子の間を一宿一飯で歩かなきゃならないじゃないか」
「其処がしきたりと人情で、矢張り自分のいる山の肩を持つんでさ」
「君達はしきたりや人情にだまされているんだ。仲間同志、他人のために喧嘩するなんて、何が人情なもんか」
池田が語気を荒くしたので、二人はそれきり黙ってしまった。
村境いの峠の上に登った時、
「あすこが水戸だ、お前は明日はあすこへ送られるんだ」と、萩野は遠く東の方を指した。
山かげはすでに夕暮れらしい風が吹いていたが、広い平野の上には、まだ夕陽が黄色く輝いていた。
「水戸に監獄があるんですかね」と、松田は其時はじめて口を利いた。
「あるとも」と萩野は、よく知り切ったように答えたが、松田はそれきり黙ってしまった。
峠の下の茶屋の前を通る時、池田は障子のかげの暗いところに、孫根の巡査だと言った男の姿をチラと見掛けた。けれども彼は、わざと知らない振りをして行き過ぎてしまった。そして仙太の茶屋の前に来た時、
「此処で何か食って行かないか」と言って先きに入った。
彼等はまた其処で酒を飲んだ。崖下の川でとれたという鮎と玉子があったのを、せめての肴に松田にすすめたが、彼はもう其処では余り食いもしなかった。
「監獄へ行きゃ不自由だらけだ、食えるだけ食ったら好いじゃないか」と萩野がすすめると、
「山にいたって、監獄へ行ったって、大した違いはありゃしない」と松田は、憎らしいほど落着いていた。
「その気ならまあ好いや、長屋で金を集めて弁護士を頼むから、あんまりがっかりしねえようにな」と萩野が言った後について、
「僕等も出来る丈けのことはするよ、それから何処か知らせてやるところはないのか」と池田が訊ねると、
「親分だけだけど、奉加帳で何処を歩いてるか解らないんです」と云ったが、松田の眼には涙がうるんでいた。
「それじゃ、もう別に何も用はないね」と念を押してから、
「萩野君、君はあっちの茶屋に孫根の巡査がいるから、呼んで来てくれないか。どうせ彼奴は見たんだから、後から追かけて来て、逮捕するなんて言われてもつまらないから」と萩野に頼んだ。
「そうですとも、呼んで来ましょう」と言って外に出たが、萩野は間もなく巡査を連れて来た。
「先刻はどうも失礼しました」と、萩野に話を聞いたのか、巡査はニコニコしながら入って来た。
「実は塩子の犯人と言うのはこの男だそうですが、あなた方が帰って行かれてから、自首をすると言って出て来たので、附き添って来たんです。此処でお渡ししても、自首したことになりますかしら」と池田が訊くと、
「ええ、自首にします。私はあれからその、この方面を警戒するように言われて、裏山を廻って来たとこで、丁度好いところでした」
犯人を手に入れた巡査は、嬉しそうに受け合った。
「この男は十九だそうですが、丁年未満だし、自首したとすれば、大したことはないでしょうな」
池田は気遣わし相に訊ねた。
「ええ、そうですとも、それに初犯ではあるし、ことに先方の寅吉の素行も悪かったのですから」
「無罪にはならんでしょうか、喧嘩は向うから売ったんですから」と、役には立たない事と思いながらも、池田はなお巡査に訊いていた。
「兇器を有っていたとすれば、どうですかな、それも裁判の結果でないと解りませんが」
巡査は要領を得ないことを答えてから、
「孫根まではまだ二里の余もありますから、それではもう行くとしましょう」と支度をしはじめた。
「それじゃ萩野君、僕はこれで失敬するからよろしく頼むよ。若し都合では今夜向うに泊っても、よく容子を見て来てくれ給え」と萩野に頼んでから、
「まあ心配しないで、身体を大事にしてい給え、弁護士もつけるから」と松田に別れを告げた。
「どうもいろいろ有り難うございました」と、松田は叮嚀に礼をして出て行った。
「大丈夫です、安心しておいでなさい」と、巡査は一人喜んで、外に出た。
池田は門口に出て、萩野の黒い脚袢と、巡査の白股引に送られて行く松田の姿を、遠く畑の夕もやの中に消えるまで、ジッと見送っていた。が、やがてまた中に入って、新たに酒を飲みはじめた。
彼は一人で盃を手にしながら、落着いて牢獄に行った松田の心を考えていた。そして、友達のために人を殺して牢獄に行く松田には、自分のように生煮えな卑劣から受ける苦痛がないであろうと思った。ケチな安逸を貪る自分を、独りして憎んでいた。けれども、孫根まで松田を送って行った萩野が帰って来た頃には、彼はへべれけになって、茶屋の土間に寝込んでいた。
●図書カード