Chapter 1 of 3

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突然、すこしおそろしい音がした。それから、どたんばたんといろ/\の物音が矢つぎ早にしたかと思ふと、しいんとなつた。

はじめにした声は、俊一がその弟を叱りつけたのである。何か気に障つたことがあつたのだらう。弟と向ひ合つてゐて、俊一は突然怒鳴つた。そして、ちよつと仁王様に似たやうな顔付になつたが、その自分の怒つた顔に自信がないために、どこか抜けたところがありはしないかといふ怖れに駆られた、といつた様子でつと立上り、ばり/\と襖を押し開けて奥の間の自分の室へ行かうとした。何か重大な国際会議の席上から脱退する悲壮な日本代表のやうな調子であつた。ばりつと風を巻いて室から出ようとする時、壁に吊してあつた瓢箪が落ちた。勿論、俊一は、あつといふ間にその瓢箪を片足あげてふんづけた。気が立つてゐる時は、かういふ品物を一気に粉みぢんにするのは気持のいいものだ。が、あれほど俊一が力を籠めたにも拘らず、瓢箪は潰れなかつた。のみならずつるりと外れて俊一の足をすくつたから、彼はよろよろとして、危くひつくりかへるところであつた。怒り心頭に発した彼は、勿論電光石火の敏速さを以て瓢箪を潰さんともう一度試みるべきであつたし、又試みようとしたのだが、具合の悪いことに瓢箪は彼の足からすこし離れたところに在つた。それで、不覚にも彼は躊躇してしまつたのである。ちよつとの間、彼は足を出したものかやめたものかとぴく/\させてゐた。彼は、はたから見てゐて、それがどのくらゐ哀れな可笑しさを唆るものであるかといふことに忽ち気がついた。その上、尚悪いことには、すこしも騒がず坐つたまゝであつた弟の方をちらりと見てしまつたのである。弟は、意地悪さうな目付をしてにやりと笑ひかけてゐた。

俊一は、それからどしん/\と足音をさせて暴君のやうに廊下を通過して自分の室に入ると、机の前に出来るだけ力をつけてどかりと坐つた。同時に両手で頭を抱へた。今のみつともない手ちがひが、彼の頭の中をあつさり一と掻き掻き廻したのである。時々、ウウと低い唸り声を発した。自分が怒つたそも/\の原因は、もう忘れてしまつた。それより自分の惨めさと滑稽さが自分に分つたといふことが重大であつた。今、それが嵐のやうに草木を薙いでゐる。彼は閻魔大王の前にでも居るやうに平伏し、やたらに頭を下げ、夢中になり、なんだかボーフラや蚤の子や蜘蛛の子なぞがうじや/\してゐるんぢやないかと思はれるやうな暗くてべた/\したところを手足をめちやくちやに振り廻し、前後左右も知らず駈け廻つてゐた。これは、精神錯乱といふものかも知れない。しかし彼は、昨晩のうちに胃の腑へ収めた莫大な量の落花生と、同じく莫大な量の煙にした煙草と、これらが往々にして人間の頭に重大な影響を及ぼすといふことはもう、忘れた。

窓から、平凡な景色が見えた。瓦があつて、青い木が生えてゐる。それから瓦、青い木、瓦、青い木、遠くに昔風の火見櫓がある。今日は、雲が低くて、みんな、雀まで息苦しくつて耐らないといふ風にだまつてゐた。こんな日は、平凡である。

俊一は、すこししてから急に顔を上げた。そして、しばらく、ぼんやりと何かを見つめてゐた。自分の眼球の表面を見てゐるやうだつた。それから、顔は動かさずに、あまり大きくない眼の玉を精一ぱい下に向けて机の上の置時計を見た。止つてゐた。そして、今度はぐるり/\とその眼玉を二、三回廻して見た。ついでに壁にかゝつてゐるセザンヌの絵を見た。どうやら彼は、この運動に興味を持つたやうである。今度はゆつくりと、ぐるうり、ぐるうりと廻し始めた。視線の軌跡の中に、汚れた壁に走つた罅と、黒い小さい虫と、帽子掛と、舶来煙草の箱と、買溜めして積上げた原稿用紙と、罪と罰第一巻と、「独文法講義」と、模型の小さなされかうべと、風邪薬「一効散」があつた。眼の廻転を止めると、はじめて頸の筋肉を軟かにして手を伸ばし、本棚から本を一冊とり、ふわつと開いて机の上へ置いた。それから巻煙草を一本出して、火をつけて、口にくはへた。忽ち機関車の如く夥しい煙が吐き出された。蜘蛛が驚いて逃げた。それから本を、眉を寄せて読み始めた。書名は、ラ・ロシュフウコオ箴言集。いつまで経つても、頁は繰られなかつた。同じところを読んでゐるのである。

そのうちに、俊一は、又突然頭を抱へた。ウウといふ唸り声が又洩れた。それから、決然とした様子で顔を上げて、「馬鹿!」と言つた。すると、悲しさうなだらしのない表情がその顔を掩つた。その実に見つともない顔付がかなり長くつゞいた。かういふちよつと形容出来ぬ顔付を時々するのがこの男の癖である。やがてもう一度、「馬鹿な」と呟くと、矢庭にぶるぶるぶるんと顔を左右に猛烈に振つた。そのためにあの表情は振り落されてしまつたらしく、今度は哲学者のやうな、詩人のやうな、ちよつと気取つて眉をしかめて、さつき開いた本の活字を睨み出した。が、すぐぱちんと閉ぢて、そろりとその本をもとあつたところへ収めた。そして渋い顔をしながら、「ええと、要するに……」と独り言を言つた。要するに、今見た本はおれにはちつとも分らなかつたのだ、と云はうとしたらしい。

さて、それから独り言は続く。独り言の趣味である。自分で自分の言葉を無意識に飴の如くしやぶりながら独り言を云つてゐる。

「ふうん…………ふうん…………いや、愚劣なことだ…………愚劣!…………まあ騒ぐなよ、騒いでもしやうがないぢやないか…………ああ…………ためいき出るね…………ほう?…………ためいき出るね…………ためいきの分類か、冗談ぢやないよ…………いまは分類がはやるからなあ…………」

ここまで来ると、彼は急に突拍子もない声を出した。

「おや、お、ぼうぼう火が燃える…………カチカチ山か、ちよつと懐しいな…………いや、懐かしくもない…………それで思ひ出したんだけれど…………何を…………忘れてしまつた…………おれはよつぽど馬鹿な男と見える…………そりやさうだらう…………何がさうなのだ…………あああ、と云はざるを得ないね…………デカダンスの秋…………気取つたことを云ふなよ…………僕はそんなことがあるなんて信じられません、か…………名せりふ…………何云つてやがる…………月を見るのだ、月を…………われら忽ち寒さの闇に陥らん…………やがて冬…………冬はさむいな、いやだな…………狐も冬ごもり…………」

俊一は突然その独り言をやめた。しめた、といふ顔付で机の引出しを開けた。奥の方にノートがある。それを出して机の上に開いた。あり来りのノートで、ヴァリエテと表紙に書いてある。これは、彼の感想録である。何やら文句が、二、三行づつあけて、あまり上手でない字で書かれてある。みな、つまらぬ。彼自身もそれを自認してゐる。が、棄てる気になれない。何か勿体ないやうな気がするのである。けれどそのつまらない文句を保存しておく理由を発見するため、彼は日夜何か素晴らしい文句はないかと頭を悩ましてゐる。それを見つけられなかつたらこのノートを後生大事に保存しておく理由はなくなる。存在理由のないものは、無駄だ。それは棄てられねばならぬ。が、このノートは棄てられぬ。矛盾。おお駄目だと時々考へるけれど、このノートは棄てられない。そこで彼は殆んど必死にうまい文句を考へつかうと努力する。時々、ちよつと気が利いてゐると思へる文句を見つけるけれど、二、三日するといかにも平凡なつまらない文句と化する。そこで彼は永遠に常にうまい文句を探求せねばならない羽目に陥つた。すこし、馬鹿といつた感じがする。阿呆である、と彼自身も思つてゐる。

さて、彼は、しめたといふ顔付で、そのノオトを開いた。そしてぱら/\と頁を繰つて、ペンをインキに浸し、「狡猾にして悪辣、だが、狐ほどのスマアトさはない。」と書いた。書いたと思ふと、さつと吸取紙で紙の上を掠め去り、さつと勢よく閉ぢてさつと引出しの中へ滑り込ませた。そして、すこし笑つた。けれど、ぢきにそは/\し出して、ものの一分と経たない内に我慢が出来なくなつたやうに引出しを開けてノートを引つぱり出して今書いたところを開き、じつと自分の字を見つめた。そして急に思ひ当つたやうに、なんだ、これはおれのことぢやないか、と独り言を云つた。

このあたりで、彼は少し朗らかになつてもいい筈であつた。実際、だん/\気が晴れて来たやうであつた。

と思つたのは間違ひであつた。なるほど、太陽は朝からの雲を突き破つて、てらてらと輝き、そこら一面ふわあつと蒸発するやうに明るくなつて、俊一のみじめな暗い顔は、その光の反射を受けてすこし違つた風になつたけれど、ほんとはやはり元のまゝだつた。そして両手で頭を抱へ込んで、いはゆる、穴あらば入りたしといつたやうな格構になつた。若しそこに何か穴があつたら、そのまゝもぞ/\と潜り込んでしまふであらうと思はれた。

ところで、話は別だが、俊一は、弟と女中と三人で暮してゐる。主に、兄貴の方が働く。職場は、新聞社、雑誌社、自宅。このごろは、自宅が多い。ものを、書くのである。それから、親父から相当の援助をしてもらふ。この方が重大である。まあ、大体そんな生活。これ以上書くのは不必要だ。今度の事件のそもそもの原因は、弟の不行跡にある。ありきたりの不行跡である。だから、そんな、金をすこしたくさん使つてしまつたなどといふ平凡な過失に対して腹を立てるのは大人げないな、と俊一はすこしの間考へてゐた。けれど、もう怒つてしまつた。怒つた以上はこちらの権威を示さねばならぬ。権威を示さうとして、瓢箪をふんづけて、ひよろ/\した。瓢箪は健在であつた。だから甚だ不充分である。その上、まづいことをして後を振り向いたら、弟の奴、笑ひやがつた。……かういふことをくど/\と不本意にも思ひ出してゐる内に、動きのとれなくなつた自嘲の波の中で、彼はウオーと叫んで、手足をやたらに振り廻したくなつた。やつて見よう。ウオー。それから勢をつけて立上つて、ちよつと悲壮な気持になつたけれど、手足を振り廻すことは止めた。自分で自分の馬鹿さ加減に気がついたのである。

怒は、そのうちにだん/\と増して行つて、どうしても弟に対してもうすこし兄貴の権威を示さねばならぬと考へた。弟め、今ごろはおれの阿呆さを笑つてゐるだらう。いや、恐らく……おれなんか無視してゐるのかも知れない。平気で、おれのことなんか気に留めずに、好きな本でも読んでゐるのだ。……無視! この言葉を口にすると、俊一は、頭が傘のやうにつぼまつて、天辺から細い粉になつて空中へ四散して行くやうな感じのする程の憤怒をどうしやうもなかつた。

その時、彼は、ふと荻軒の菓子のことを思ひ出した。近所の荻軒といふ菓子屋兼喫茶店の菓子はなか/\うまい。週に二、三回、いまごろ売出される。今日はその日だ。しめた。彼は、非常に得をしたと思つた。

菓子のことを思ひついたからと云つて、怒ることは忘れなかつた。それほど正直ではないのである。――先づ、怒る。襖を荒々しく開けて、弟と向き合つて、怒る。おまへは何て男なのだ。それでいいと思ふのか。考へたら分るだらう。もういくつになるのだ。おまへの親は……とにかくうんときめつけてやらなければ。なるたけ長くかけて、十分以上、云ふ必要がある。ぎゆつと押へつけて、それから、すこし優しい調子で、かう云へばいい。おれはちよつと外出して来るから、その間に、自分のしたことをじつくり考へて、悪かつたところを捉へるのだ。家のなかに一人で静かに考へてごらん。自分の悪かつたところをしつかり捉へるのだよ。さうして、いつも、それと格闘する気でゐたら、いいのだ。いままでのおまへは、すこし反省といふことが足りなかつた気がする。静かに、真剣に考へたら、いままで逃してゐたものが、ぢきに分るだらう。さうだよ、きつとぢきに分るよ。……ぢや、ちよつと外へ出るから。……

ばりつと襖が鳴つた。壊れかゝつてゐるのだからしやうがない。開けるときはばりつといつて、閉めるときはぎゆうといふ。速く閉めるときひいつ、とおそろしい音を上げる。俊一は、襖を押し開けて、廊下を歩いて行き、その間に顔の筋肉を適当に動かして厳めしい顔を作り、ちよつと心構へして、茶の間の襖を力一ぱい押し開けた。誰も居なかつた。ちよつと拍子抜けがした。厳しく作つた顔が卑屈な用心深さでだん/\とほぐれて行つた。それから、他の二、三の室を、そのたびに顔を作つて、のぞいて廻つた。便所の前にも立止つて見た。どこにも居なかつた。もう、おそろしい顔付をする必要はなくなつた。女中は、今日遊びにやらしてある。俊一は、弟が外出したと思はざるを得なかつた。そして、一人で怒り出した。何か感歎詞を発したくらゐである。おれには一言も断らないで外出した。けしからん。俊一は、弟が自分を無視したといふことに腹を立てゝゐたのだが、それ以上の無視である。と彼は思つた。けしからん。どろぼうに入られたらどうする。どろぼうが、開放した玄関から忍び込んで、金や、机や、釜や、時計や、そんなものを盗んだらどうする。おれは、莫大な損害を受けるのだ。金と引換ならまだしも、無償で、おれが金をかけて買つたものを取られてしまふのだ。彼は、息が塞りかけたと感じた。そして、すこし、あわてたと思つた。それから急にはたと手を拍つて、門のところへ飛出した。鍵がかかつてゐた。彼は、今度はほんたうに息が塞つたと思つた。そして、戸の格子につかまつて、オランウータンの如く二、三度がた/\と揺つて見た。自分でも何故だか分らなかつた。何か、絶海の孤島へ一人だけおいてきぼりを食つたことを想像するときの、死ぬやうな、頭の皮が四散するやうな、食道が裏がへるやうな絶望感を感じた。それから一度冷たくなると、改めて、ウームと云つた。きつと萩軒の菓子を目的に出て行つたに違ひない。なんと、兄貴を家の中へ閉ぢ込めて行つた。……

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