一
消燈喇叭が鳴つて、電燈が消へて了つてからも暫くは、高村軍曹は眼先きをチラ/\する新入兵たちの顔や姿に悩まされてゐた。悩まされてゐた――と云ふのは、この場合適当でないかもしれない。いざ、と云ふ時には自分の身代りにもなつて呉れる者、骨を拾つても呉れる者、その愛すべきものを自分は今、これから二ヶ年と云ふもの手塩にかけて教育しようとするのであるから。
一個の軍人として見るにはまだ西も東も知らない新兵である彼等は、自分の仕向けやうに依つては必ず、昔の武士に見るやうに恩義の前には生命をも捨てゝ呉れるであらう。その彼等を教育する大任を――僅か一内務班に於ける僅か許りの兵員ではあるが――自分は命じられたのだ。かう思ふ事に依つて高村軍曹は自分が彼等に接する態度に就ては始終頭を悩まされてゐた。で、眠つてる間にもよく彼等新兵を夢に見ることがあつた。彼はどんな場合にも、自分の部下が最も勇敢であり、最も従順であり、更に最も軍人としての技能――射撃だとか、銃剣術だとか、学術に長じることを要求し希望してゐた。
彼は自分のその要求や期待を充足させることが、自分を満足させると同時に至尊に対して最も忠勤を励む所以だと思つてゐた。それに又競争心もあつた。中隊内の他のどの班の新兵にも負けない模範的の兵士に仕立てようと云ふ希望をもつてゐた。が、その希望はやがて大隊一の模範兵を作らうと云ふ希望になり、それがやがて聯隊一番の模範兵にしようといふ希望に変つて行つた。この時彼の心にはまた昔から不文律となつて軍隊内に伝はつてゐるところの、いや現在に於て自分たちを支配してゐるところの聯隊内のしきたり――部下に対する残虐なる制裁に対して、不思議な感情の生れて来るのを感じた。また自分よりかずつと若い伍長や軍曹、上等兵なぞがまるで牛か馬を殴るやうに面白半分に兵卒たち、殊に新兵を殴るのを見ると、彼は妙に苛立たしい憤慨をさへ感じた。殊に自分までが一緒になつて昨日までそれをやつてたのかと思ふと、不思議なやうな気さへした。新兵の時に苛められたから古兵になつてからその復讎を新兵に対してする――そんな不合理なことが第一この世の中にあるだらうか。自分たちを苛めてゐた古兵とは何んの関係もない新入兵を苛める――その不合理を何十年といふ長い間、軍隊は繰り返してゐるのだ。そして百人が百人、千人が千人といふもの、少しもそれを怪しまずにゐたのだ。俺はなぜ、そんな分り切つた事を今まで気がつかずにゐたらう?――さう思ふと彼は只不思議でならなかつた。
彼は聯隊では一番古参の軍曹であつた。もう間もなく満期となつて、現役を退かなければならなかつた。が彼は予備に編入される前には必ず曹長に進級されるであらうと云ふことを、殆ど確定的に信じてゐた。また古参順序から行けば当然、今年度の曹長進級には彼が推されなければならぬのであつた。それは強ち彼れ自身がさう思つてる許りでなく、他の同僚たちもさう信じ、よく口に出しても云つてる事であつた。だが、彼に取つて最も気懸りなことが一つあつた。それは自分の隣村から出身してゐる聯隊副官のS大尉が、その地方的の反感から自分を単に毛嫌ひしてゐると云ふこと、埒を越へて、憎悪してゐると云ふことを知つてゐたから。
S大尉さへ自分に好意を持つてゝ呉れるなら、いや好意は持たずとも無関心でゐて呉れたなら、自分はどんなに有難いだらう。だがあのS大尉はいつも自分を貶しよう貶しようとしてゐる人だ。現に、自分が新入兵の入営する間際になつて、第八中隊から此の第十二中隊に編入を命じられたと云ふのも、つまりはあのS大尉の差しがねに違ひない。それはもう明白な事実だ。――
彼はS大尉のその軍人らしくない、百姓根生の染み込んだ卑劣な態度をどんなに憎んだことだらう。彼は兵卒から現在の故参下士官になる八年と云ふ長い間、自分の家庭のやうに暮して来た第八中隊を離れて此の中隊へ来た時、自分の部下たるべき第×内務班の兵卒の凡て、それから同僚の下士たちの凡てが、如何に冷たい眼をして、まるで異邦人の闖入をでも受けたやうな眼をして迎へた印象を、いつまでも忘れることが出来ない。今居る班の兵卒たちは皆んな、自分の教育したのではない、苦楽を倶にしたのではない、まゝつこだ――とも思つた。しかし、こん度入営して来る新兵こそは、自分に取つて実子である。自分は温かい心をもつて、理解ある広い同情をもつて、彼等を迎へ、彼等を教育してやらう。――彼は実にかう思つて、今の此の十五人の新兵を自分の班に迎へたのであつた。だから自分に取つてまゝつこである二年兵たちが新兵を苛めるのを見ると彼は頭がカツとした。彼は理由も訊さずに二年兵たちを叱つた。
高村軍曹は実にかうしたいろ/\の理由からして、兵卒たちを自分の恩義に狎れさせ、信服させようと努めたのであつた。また自分の受持である新兵教育を完全に果して、聯隊随一の模範兵を作ると云ふことは、取りも直さず自分の成績を上げることであり、それは又曹長進級の難関を通過する唯一の通行券となるものであつた。如何に利け者のS大尉が聯隊本部に頑張つてゐたからとて、自分の成績が抜群であり、自分の教育する部下が優良兵であり、模範兵となつたならばどうにもなりはしないだらう。高村軍曹は眼をつぶると浮んで来る部下の顔に、愛撫の瞳を向けながらそんなことを思つてゐた。
これから第一期の検閲までにはざつと四ヶ月ある。それまでは……と、彼は自分に与へられた四ヶ月と云ふその「時」を楽しむやうに、いろ/\教育に関して計劃を廻らした。
その日の演習が終つて入浴や夕飯をすますと、他の各班の班長たちはあとの事を上等兵たちに任せて外出して了ふのであつた。が、その上等兵は上等兵で只だ役目に二十分か三十分、厭や/\新兵を集めて読法とか陸軍々制につひての学課をして、帰営後の班長に報告するに止まつてゐた。だから少し記憶の悪い兵や、ふだん憎まれてゐる兵は、さらでも自分の「時」を新兵たちの為めに犠牲にされてると考へてゐる上等兵の疳癪を募らしては、可なり痛々しく苛めつけられてゐた。時には「パシーツ」「パシーツ」と横頬を喰らはされるらしい痛々しい無気味な音が、下士室まで響いて来たりした。高村軍曹は何んとも云へない複雑な表情を浮べてそれを聞き、やがて自分の部下のゐる第×内務班にスリツパを引き摺りながら入つてゆく。
「敬礼!」と云ふ叫び声が一かたまりの部下の中から起つて、彼等は一斉に起立して高村軍曹に対し敬礼した。彼は笑顔をもつてそれに答へた。
「古兵はよろしい、初年兵だけこつちへ集まれ、学課をする!」
高村軍曹は矢張り微笑を浮べながら云つた。初年兵たちは三脚並んでる大机を挟んで、両側に対ひ合つて腰をおろした。
「宮崎!」
高村軍曹はさう叫んで一人の初年兵を立たせた。宮崎はのつそりと立ち上つて、窟の奥の方からでも明るい外光を見るやうに、眩しさうな眼をして高村軍曹の顔を瞶めた。宮崎は高村軍曹の一番手古摺つてる兵であつた。彼の眼はいつも蝙蝠を明るいところへ引き出したやうにおど/\してゐた。
「おい、返事はどうした!」高村軍曹はぽかんと突つ立つてる宮崎を見ながら小供を教へるやうに穏やかに云つた。『呼ばれて立つ時には必ず「はいツ」と返事をしなければいけない』
「ヘーツ」
宮崎はからだをくね/\と曲げて揺さぶりながら長く語尾をひつぱつて云つた。腰掛の両側からくす/\と笑ひ声が起つた。
「笑つてはいけない。軍隊は笑ふところではない!」と、高村軍曹は一寸顔をしかめて見せて云つた。
「宮崎! 昨日教へた勅諭の五ヶ条を云つて見い!」
「ヘーツ」と、宮崎は再び云つて頸をだん/″\下へ垂れて、時々蝙蝠のやうな眼で高村軍曹の顔を見る。そして「忘れました」と云つた。
「忘れたら思ひ出すまでそこに立つて居れ!」と云つて高村軍曹は眼をきよろ/\させて其処にかしこまつて腰掛けてゐる初年兵たちを物色する。「では田中!」
「はい!」と、田中は威勢よく立ち上つて「一つ、軍人は忠節をつくすを本分とすべし」「一つ、軍人は……」と云つてすら/\と片づけて了つた。
高村軍曹の顔には嬉しげな微笑が浮んで、「さア、宮崎云つて見い!」と、また宮崎の顔を見つめた。
「一つ、軍人は……」と云ひかけて、彼はまたつかへて了う。
高村軍曹の顔は一寸曇つたが、今度は自分で一句一句切りながら自分の云ふあとをつかせて、宮崎に読ませた。そして云つた。「暇があつたらよく暗記して置かなくてはいけないぞ!」
かうして一時間ばかりの学課がすんで、高村軍曹が下士室へ引き上げると間もなく点呼の喇叭が鳴つた。外出してゐた各班の下士たちもぞろ/\時間を違へずに帰つて来て、班毎にならぶ。点呼がすんでやがて消燈喇叭が鳴り、皆んな寝台について了ふと高村軍曹は必ず、自分が寝る前に一度自分の班に来て見て皆んな寝顔を見てから自分の寝床へ入るのであつた。が、彼は班内を巡視する時に、若し寝てゐる筈の初年兵が寝台に居ずに空になつてゐる時には、いつまでもそこに待つてゐた。兵卒たちは大概点呼がすんでから便所に行つて寝るので彼等は便所から戻るのが遅くなつた場合にはいつも、高村軍曹の心配げな顔に見迎へられるのであつた。
高村軍曹はまた夜中にふと眼が覚めたりすると、必ずシヤツのまゝで下士室を出て自分の班に行つて見た。彼には一つ気になつてたまらない事があつたのである。それは毎夜のやうに自分が班内を見て廻るのに、皆んなぐう/″\鼾をかいて寝てゐる中に宮崎だけがいつも溜息をしながらゴソ/\寝返りを打つてゐるのを見かけるからであつた。彼の今までの長い軍隊生活の経験に依つて、逃亡するやうな兵は兵営生活に慣れない一期の検閲前に一番多く、そして最も注意すべき事は宮崎のやうな無智な人間が、殊に何か屈託があるらしい溜息をついたり眠れなかつたりする時であつた。
困つた奴を背負ひこんだもんだなア――高村軍曹の頭はいつもこの事の為めに悩まされてゐた。
日曜が来た。各班では初年兵を一纏めにして、一人の上等兵がそれぞれ引率して外出するのであつた。が、高村軍曹は上等兵には関はないで自分が引率して外出した。彼は時間を惜しむ余り、かうした休暇をも何かしら他の班の兵たちの及ばない智識を得させたいと思つたのであつた。
「皆んなどういふ所へ行つて遊びたい?」
先頭に立つてゐた高村軍曹は歩きながら後ろを振り返つて云つた。が、誰れも、どこそこへ行きたい――と自分の希望を述べる者はなかつた。
「では観音山へ登つて見よう」暫く皆んなの返事を待つて得られなかつたので、彼はかう云つてまた先頭に立つた。
観音山はK川を隔てゝ高台にある聯隊と相対してゐる山であつた。山の頂上には京都の清水の観音堂になぞらへて建てられたといふ観音堂が、高い石の階段を挟んでにゆツと立つてゐた。
K川にかゝつてるH橋を渡ると、麦畑と水田が広々と拡がつてゐた。高村軍曹はそこの道を歩きながら云つた。
「かういふ広いところを開豁地と云つて、演習や実戦の場合、軍隊が行進する時には最大急行軍をもつて通過して了はなければならない。さうしないと直ぐ敵から発見されて了ふ……いゝか、かういふ広い場所を開豁地と云ふのだ。」
高村軍曹はかう教へてから「駆け足――ツ」と号令をかけた。足を揃へることも、ろくに知らない十五人の初年兵は、バタ/\高村軍曹のあとについて走り出した。学課の時、寝てゐる時、いつも高村軍曹の注意を惹く宮崎は、この駆け足の時にも彼の眼を惹いた。宮崎はまるで跛を引いたやうに、右と左の肩をひどく揺さぶつて足を引き摺り、埃をポカ/\と立てた。
「宮崎! お前どうかしたか?」高村軍曹は走りながら訊いた。「足でも痛めたんぢやないか」
宮崎は最初は顔をしかめて頸を左右に振つて、どうもしたんぢやない――と云ふことを示してゐたが、やがて「班長殿! 靴がでつか過ぎてバタ/\して駆けられません」と、云つた。
隊はやがて観音山の麓について、百姓家のボツ/\並んでる村に入つた。
「早足ーツ、オーイ」と、言ふ号令が高村軍曹の口から出た。皆んな息をハア/\はづませながら、普通の歩き方に復つた。道の両側が竹籔だの雑木林だので狭くなつてゐるところへ出た時、高村軍曹はまた後ろを振り返つて云つた。
「かういふ狭い処を隘路と云ふ。そしてかういふ処を斥候なんかになつて通る時は必ず、銃に剣を着けて、いつ敵の襲撃を受けてもそれに応じられるやうに要意して置く。」
高村軍曹はかう云つてまた直ぐ宮崎に呼びかけた。「宮崎ツ、かういふ狭い処を何んと云ふ?」
「アイロと云つて剣を着けて通ります」宮崎は得意然として蝙蝠のやうな眼を光らせながら、今度は言下に答へた。
「ふむ、今度は記憶へたな! 忘れないやうにしろ、いまに野外要務令でかういふ学課があるんだから」高村軍曹は微笑を含みながら云つた。そして観音堂の正面につけられた石階の道を取らないで、側道へ入つて行つた。そこは少しも人工の加はらない自然のまゝの山道であつた。箒のやうに細かい枝の尖つた雑木林の間には松や杉の木が緑の葉をつけて立つてゐた。山へかゝると同時に、陰鬱な萎びたやうな宮崎の顔がすつかり元気になつて、生々とした色が蘇つて来た。山道で皆んなの足が疲れて来ると反対に、宮崎の足はぐづ/″\してゐる仲間を追ひ越して先頭に立つて了つた。
高村軍曹は驚異の眼をもつて彼を見た。
「宮崎! お前は隊へ入るまで何をしてゐたんだ、商売は」彼は静にかう訊いた。
「班長殿、木挽をしてゐました。あつしらの仲間はもうはア山から山を歩いて一生涯山ん中で暮しますだよ」宮崎はいつか高村軍曹の穏やかな言葉にそゝられて、軍隊語を放擲して自分の言葉で話し出した。が、彼も別に咎めもしないで微笑をもつて聞いてゐた。
「木挽は儲かるか?」彼はまた訊いた。
「別に儲かりもしねえだが呑気でえゝがな、誰れに気兼ねするでもねえ猿や兎を相手に山ん中でべえ暮してるだからねえ」
「毎日毎日山ん中に許り居て飽きやしないのか」
「そりや班長殿、いくら山ん中つちうたつていろ/\遊びがあるだからね、丁半もあれば酒だつて皆んな内緒で醸るだからね」宮崎はかう云つて今まで笑つたことのない顔をにやにや笑ひに頽した。
「宮崎! お前は丁半なんかやるのか」高村軍曹は愕いたやうに云つた。「だが木挽と兵隊とどつちが好い?」
宮崎はそれは何とも答へなかつた。黙つて何か思ひ出してはにやにやと笑つてゐた。