Chapter 1 of 8

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悪獣篇

泉鏡花

つれの夫人がちょっと道寄りをしたので、銑太郎は、取附きに山門の峨々と聳えた。巨刹の石段の前に立留まって、その出て来るのを待ち合せた。

門の柱に、毎月十五十六日当山説教と貼紙した、傍に、東京……中学校水泳部合宿所とまた記してある。透して見ると、灰色の浪を、斜めに森の間にかけたような、棟の下に、薄暗い窓の数、厳穴の趣して、三人五人、小さくあちこちに人の形。脱ぎ棄てた、浴衣、襯衣、上衣など、ちらちらと渚に似て、黒く深く、背後の山まで凹になったのは本堂であろう。輪にして段々に点した蝋の灯が、黄色に燃えて描いたよう。

向う側は、袖垣、枝折戸、夏草の茂きが中に早咲の秋の花。いずれも此方を背戸にして別荘だちが二三軒、廂に海原の緑をかけて、簾に沖の船を縫わせた拵え。刎釣瓶の竹も動かず、蚊遣の煙の靡くもなき、夏の盛の午後四時ごろ。浜辺は煮えて賑かに、町は寂しい樹蔭の細道、たらたら坂を下りて来た、前途は石垣から折曲る、しばらくここに窪んだ処、ちょうどその寺の苔蒸した青黒い段の下、小溝があって、しぼまぬ月草、紺青の空が漏れ透くかと、露もはらはらとこぼれ咲いて、藪は自然の寺の垣。

ちょうどそのたらたら坂を下りた、この竹藪のはずれに、草鞋、草履、駄菓子の箱など店に並べた、屋根は茅ぶきの、且つ破れ、且つ古びて、幾秋の月や映し、雨や漏りけん。入口の土間なんど、いにしえの沼の干かたまったをそのままらしい。廂は縦に、壁は横に、今も屋台は浮き沈み、危く掘立の、柱々、放れ放れに傾いているのを、渠は何心なく見て過ぎた。連れはその店へ寄ったのである。

「昔……昔、浦島は、小児の捉えし亀を見て、あわれと思い買い取りて、……」と、誦むともなく口にしたのは、別荘のあたりの夕間暮れに、村の小児等の唱うのを聞き覚えが、折から心に移ったのである。

銑太郎は、ふと手にした巻莨に心着いて、唄をやめた。

「早附木を買いに入ったのかな。」

うっかりして立ったのが、小店の方に目を注いで、

「ああ、そうかも知れん。」と夏帽の中で、頷いて独言。

別に心に留めもせず、何の気もなくなると、つい、うかうかと口へ出る。

「一日大きな亀が出て、か。もうしもうし浦島さん――」

帽を傾け、顔を上げたが、藪に並んで立ったのでは、此方の袖に隠れるので、路を対方へ。別荘の袖垣から、斜に坂の方を透かして見ると、連の浴衣は、その、ほの暗い小店に艶なり。

「何をしているんだろう。もうしもうし浦島さん……じゃない、浦子さんだ。」

と破顔しつつ、帽のふちに手をかけて、伸び上るようにしたけれども、軒を離れそうにもせぬのであった。

「店ぐるみ総じまいにして、一箇々々袋へ入れたって、もう片が附く時分じゃないか。」

と呟くうちに真面目になった、銑太郎は我ながら、

「串戯じゃない、手間が取れる。どうしたんだろう、おかしいな。」

とは思ったが、歴々彼処に、何の異状なく彳んだのが見えるから、憂慮にも及ぶまい。念のために声を懸けて呼ぼうにも、この真昼間。見える処に連を置いて、おおいおおいも茶番らしい、殊に婦人ではあるし、と思う。

今にも来そうで、出向く気もせず。火のない巻莨を手にしたまま、同じ処に彳んで、じっと其方を。

何となくぼんやりして、ああ、家も、路も、寺も、竹藪を漏る蒼空ながら、地の底の世にもなりはせずや、連は浴衣の染色も、浅き紫陽花の花になって、小溝の暗に俤のみ。我はこのまま石になって、と気の遠くなった時、はっと足が出て、風が出て、婦人は軒を離れて出た。

小走りに急いで来る、青葉の中に寄る浪のはらはらと爪尖白く、濃い黒髪の房やかな双の鬢、浅葱の紐に結び果てず、海水帽を絞って被った、豊な頬に艶やかに靡いて、色の白いが薄化粧。水色縮緬の蹴出の褄、はらはら蓮の莟を捌いて、素足ながら清らかに、草履ばきの埃も立たず、急いで迎えた少年に、ばッたりと藪の前。

「叔母さん、」

と声をかけて、と見るとこれが音に聞えた、燃るような朱の唇、ものいいたさを先んじられて紅梅の花揺ぐよう。黒目勝の清しやかに、美しくすなおな眉の、濃きにや過ぐると煙ったのは、五日月に青柳の影やや深き趣あり。浦子というは二十七。

豪商狭島の令室で、銑太郎には叔母に当る。

この路を去る十二三町、停車場寄の海岸に、石垣高く松を繞らし、廊下で繋いで三棟に分けた、門には新築の長屋があって、手車の車夫の控える身上。

裳を厭う砂ならば路に黄金を敷きもせん、空色の洋服の褄を取った姿さえ、身にかなえば唐めかで、羽衣着たりと持て囃すを、白襟で襲衣の折から、羅に綾の帯の時、湯上りの白粉に扱帯は何というやらん。この人のためならば、このあたりの浜の名も、狭島が浦と称えつびょう、リボンかけたる、笄したる、夏の女の多い中に、海第一と聞えた美女。

帽子の裡の日の蔭に、長いまつげのせいならず、甥を見た目に冴がなく、顔の色も薄く曇って、

「銑さん。」

とばかり云った、浴衣の胸は呼吸ぜわしい。

「どうしたんです、何を買っていらしったんです。吃驚するほど長かった。」

打見に何の仔細はなきが、物怖したらしい叔母の状を、たかだか例の毛虫だろう、と笑いながら言う顔を、情らしく熟と見て、

「まあ、呑気らしい、早附木を取って上げたんじゃありませんか。」

はじめて、ほッとした様子。

「頂戴! いつかの靴以来です。こうは叔母さんでなくッちゃ出来ない事です。僕もそうだろうと思ったんです。」

「そうだろうじゃありませんわ。」

「じゃ、早附木ではないんですか。」

「いいえ、銑さんが煙草を出すと、早附木がないから、打棄っておくと、またいつものように、煙草には思い遣りがない、監督のようだなんて云うだろうと思って、気を利かして、ちょうど、あの店で、」

と身を横に、踵を浮かして、恐いもののように振返って、

「見附かったからね、黙って買って上げようと思って入ったんですがね、お庇で大変な思いをしたんですよ。ああ、恐かった。」

とそのままには足も進まず、がッかりしたような風情である。

「何が、叔母さん。この日中に何が恐いんです。大方また毛虫でしょう、大丈夫、毛虫は追駈けては来ませんから。」

「毛虫どころじゃアありません。」

と浦子は後見らるる状。声も低う、

「銑さん、よっぽどの間だったでしょう。」

「ざッと一時間……」

半分は懸直だったのに、夫人はかえってさもありそうに、

「そうでしたかねえ、私はもっとかと思ったくらい。いつ、店を出られるだろう、と心細いッたらなかったよ。」

「なぜ、どうしたんですね、一体。」

「まあ、そろそろ歩行きましょう。何だか気草臥れでもしたようで、頭も脚もふらふらします。」

歩を移すのに引添うて、身体で庇うがごとくにしつつ、

「ほんとに驚いたんですか。そういえば、顔の色もよくないようですよ。」

「そうでしょう、悚然として、未だに寒気がしますもの。」

と肩を窄めて俯向いた、海水帽も前下り、頸白く悄れて連立つ。

少年は顔を斜めに、近々と帽の中。

「まったく色が悪い。どうも毛虫ではないようですね。」

これには答えず、やや石段の前を通った。

しばらくして、

「銑さん、」

「ええ、」

「帰途に、またここを通るんですか。」

「通りますよ。」

「どうしても通らねば不可ませんかねえ、どこぞ他に路がないんでしょうか。」

「海ならあります。ここいらは叔母さん、海岸の一筋路ですから、岐路といっては背後の山へ行くより他にはないんですが、」

「困りましたねえ。」

と、つくづく云う。

「何ね、時刻に因って、汐の干ている時は、この別荘の前なんか、岩を飛んで渡られますがね、この節の月じゃどうですか、晩方干ないかも知れません。」

「船はありますか。」

「そうですね、渡船ッて別にありはしますまいけれど、頼んだら出してくれないこともないでしょう、さきへ行って聞いて見ましょう。」

「そうね。」

「何、叔母さんさえ信用するんなら、船だけ借りて、漕ぐことは僕にも漕げます。僕じゃ危険だというでしょう。」

「何でも可うござんすから、銑さん、貴郎、どうにかして下さい。私はもう帰途にあの店の前を通りたくないんです。」

とまた俯向いたが恐々らしい。

「叔母さん、まあ、一体、何ですか。」と、余りの事に微笑みながら。

「もう聞えやしますまいね。」

と憚る所あるらしく、声もこの時なお低い。

「何が、どこで、叔母さん。」

「あすこまで、」

「ああ! 汚店へ、」

「大きな声をなさんなよ。」と吃驚したように慌しく、瞳を据えて、密という。

「何が聞えるもんですか。」

「じゃあね、言いますけれど、銑さん、私がね、今、早附木を買いに入ると、誰も居ないのよ。」

「へい?」

「下さいな、下さいなッて、そういうとね。穴が開いて、こわれごわれで、鼠の家の三階建のような、取附の三段の古棚の背のね、物置みたいな暗い中から、――藻屑を曳いたかと思う、汚い服装の、小さな婆さんがね、よぼよぼと出て来たんです。

髪の毛が真白でね、かれこれ八十にもなろうかというんだけれど、その割には皺がないの、……顔に。……身体は痩せて骨ばかり、そしてね、骨が、くなくなと柔かそうに腰を曲げてさ。

天窓でものを見るてッたように、白髪を振って、ふッふッと息をして、脊の低いのが、そうやって、胸を折ったから、そこらを這うようにして店へ来るじゃありませんか。

早附木を下さいなッて、云ったけれど聞えません。もっともね、はじめから聞えないのは覚悟だというように、顔を上げてね、人の顔を視めてさ。目で承りましょうと云うんじゃないの。

お婆さん、早附木を下さい、早附木を、といった、私の唇の動くのを、熟と視めていたッけがね。

その顔を上げているのが大儀そうに、またがッくり俯向くと、白髪の中から耳の上へ、長く、干からびた腕を出したんですがね、掌が大きいの。

それをね、けだるそうに、ふらふらとふって、片々の人指ゆびで、こうね、左の耳を教えるでしょう。

聞えないと云うのかね、そんなら可うござんす。私は何だか一目見ると、厭な心持がしたんですからね、買わずと可いから、そのまま店を出ようと思うと、またそう行かなくなりましたわ。

弱るじゃありませんか、婆さんがね、けだるそうに腰を伸ばして、耳を、私の顔の傍へ横向けに差しつけたんです。

ぷんと臭ったの。何とも言えない、きなッくさいような、醤油の焦げるような、厭な臭よ。」

「や、そりゃ困りましたね。」と、これを聞いて少年も顰んだのである。

「早附木を下さい。

(はあ?)

(早附木よ、お婆さん。)

(はあ?)

はあッて云うきりなの。目を眠って、口を開けてさ、臭うでしょう。

(早附木、)ッて私は、まったくよ。銑さん、泣きたくなったの。

ただもう遁げ出したくッてね、そこいらすけれど、貴下の姿も見えなかったんですもの。

はあ、長い間よ。

それでもようよう聞えたと見えてね、口をむぐむぐとさして合点々々をしたから、また手間を取らないようにと、直ぐにね、銅貨を一つ渡してやると、しばらくして、早附木を一ダース。

そんなには要らないから、包を破いて、自分で一つだけ取って、ああ、厄落し、と出よう、とすると、しっかりこの、」

と片手を下に、袖をかさねた袂を揺ったが、気味悪そうに、胸をかわして密と払い、

「袂をつかまえたのに、引張られて動けないじゃありませんか。」

「かさねがさね、成程、はあ、それから、」

「私ゃ、銑さん、どうしようかと思ったんです。

何にも云わないで、ぐんぐん引張って、かぶりを掉るから、大方、剰銭を寄越そうというんでしょうと思って、留りますとね。

やッと安心したように手を放して、それから向う向きになって、緡から穴のあいたのを一つ一つ。

それがまたしばらくなの。

私の手を引張るようにして、掌へ呉れました。

ひやりとしたけれど、そればかりなら可かったのに。

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