Chapter 1 of 10

峰は木の葉の虹である、谷は錦の淵である。……信濃の秋の山深く、霜に冴えた夕月の色を、まあ、何と言はう。……流は銀鱗の龍である。

鮮紅と、朱鷺と、桃色と、薄紅梅と、丹と、朱と、くすんだ樺と、冴えた黄と、颯と點滴る濃い紅と、紫の霧を山氣に漉して、玲瓏として映る、窓々は恰も名にし負ふ田毎の月のやうな汽車の中から、はじめ遠山の雲の薄衣の裾に、ちら/\と白く、衝と冷く光つて走り出した、其の水の色を遙に望んだ時は、錦の衾を分けた仙宮の雪の兎と見た。

尾花も白い。尾上に遙に、崖に靡いて、堤防に殘り、稻束を縫つて、莖も葉も亂れ亂れて其は蕎麥よりも赤いのに、穗は夢のやうに白い幻にして然も、日の名殘か、月影か、晃々と艶を放つて、山の袖に、懷に、錦に面影を留めた風情は、山嶽の色香に思を碎いて、戀の棧橋を落ちた蒼空の雲の餘波のやうである。

空澄んで風のない日で、尾花は靜として動かなかつたのに。……

胡粉に分れた水の影は、朱を研ぐ藥研に水銀の轉ぶが如く、衝と流れて、すら/\と絲を曳くのであつた。

汽車の進むに連れて、水の畝るのが知れた。……濃き薄き、もみぢの中を、霧の隙を、次第に月の光が添つて、雲に吸はるゝが如く、眞蒼な空の下に常磐木の碧きがあれば、其處に、すつと浮立つて、音もなく玉散す。

窓もやゝ黄昏れて、村里の柿の實も輕くぱら/\と紅の林に紛れて、さま/″\のものの緑も黄色に、藁屋根の樺なるも赤い草に影が沈む、底澄む霧に艶を増して、露もこぼさす、霜も置かず、紅も笹色の粧を凝して、月光に溶けて二葉三葉、たゞ紅の點滴る如く、峯を落ちつつ、淵にも沈まず飜る。

散る、風なくして散る其もみぢ葉の影の消ゆるのは、棚田、山田、小田の彼方此方、砧の布のなごりを惜んでふ状に、疊まれもせず、靡きも果てないで、力なげに、すら/\と末廣がりに細く彳む夕の煙の中である。……煙の遠いのは人かと見ゆる、山の魂かと見ゆる、峰の妾かと見ゆる、狩り暮らし夕霧に薄く成り行く、里の美女の影かとも視めらるゝ。

水ある上には、横に渡つて橋となり、崖なす隈には、草を潛つて路となり、家ある軒には、斜めに繞つて暮行く秋の思と成る。

煙は靜に、燃ゆる火の火先も宿さぬ。が、南天の實の溢れたやうに、ちら/\と其の底に映るのは、雲の茜が、峰裏に夕日の影を投げたのである。

此の紅玉に入亂れて、小草に散つた眞珠の數は、次等々々照増る、月の田毎の影であつた。

やがて、月の世界と成れば、野に、畑に、山懷に、峰の裾に、遙に炭を燒く、それは雲に紛ふ、はた遠く筑摩川を挾んだ、兩岸に、すら/\と立昇るそれ等の煙は、滿山の冷き虹の錦の裏に、擬つて霜の階と成らう。凍てて水晶の圓き柱と成らう。……

錦葉の蓑を着て、其の階、其の柱を攀ぢて、山々、谷々の、姫は、上は、美しき鳥と成つて、月宮殿に遊ぶであらう。

木の葉は夜の虹である、月の錦の淵である。

此の峰、此の谷、恁る思。紅の梢を行く汽車さへ、轟きさへ、音なき煙の、雪なす瀧をさかのぼつて、輕い群青の雲に響く、幽なる、微妙なる音樂であつた。

驛員が黒く流れて、

「姨捨!姨捨!」……

Chapter 1 of 10