Chapter 1 of 3

曠野

「はゝあ、此の堂がある所爲で==陰陽界==などと石碑にほりつけたんだな。人を驚かしやがつて、惡い洒落だ。」

と野中の古廟に入つて、一休みしながら、苦笑をして、寂しさうに獨言を云つたのは、昔、四川都縣の御城代家老の手紙を持つて、遙々燕州の殿樣へ使をする、一刀さした威勢の可いお飛脚で。

途次、彼の世に聞えた鬼門關を過ぎようとして、不案内の道に踏迷つて、漸と辿着いたのが此の古廟で、べろんと額の禿げた大王が、正面に口を赫と開けてござる、うら枯れ野に唯一つ、閻魔堂の心細さ。

「第一場所が惡いや、鬼門關でおいでなさる、串戲ぢやねえ。怪しからず霧が掛つて方角が分らねえ。石碑を力だ==右に行けば燕州の道==とでもしてあるだらうと思つて見りや、陰陽界==は氣障だ。思出しても悚然とすら。」

飛脚は大波に漾ふ如く、鬼門關で泳がされて、辛くも燈明臺を認めた一基、路端の古い石碑。其さへ苔に埋れたのを、燈心を掻立てる意氣組で、引るやうに拂落して、南か北か方角を讀むつもりが、ぶる/\と十本の指を震はして、威かし附けるやうな字で、曰く==陰陽界==とあつたので、一竦みに縮んで、娑婆へ逃出すばかりに夢中で此處まで駈けたのであつた。が、此處で成程と思つた。石碑の面の意を解するには、堂に閻魔のござるが、女體よりも頼母しい。

「可厭に大袈裟に顯はしたぢやねえか==陰陽界==なんのつて。これぢや遊廓の大門に==色慾界==とかゝざあなるめえ。」

と、大分娑婆に成る。

「だが、恁う拜んだ處はよ、閻魔樣の顏と云ふものは、盆の十六日に小遣錢を持つてお目に掛つた時の外は、餘り喝采とは行かねえもんだ。……どれ、急がうか。」

で、兩つ提へ煙管を突込み、

「へい、殿樣へ、御免なせいまし。」と尻からげの緊つた脚絆。もろに揃へて腰を屈めて揉手をしながら、ふと見ると、大王の左右の御傍立。一つは朽ちたか、壞れたか、大破の古廟に形も留めず。右に一體、牛頭、馬頭の、あの、誰方も御存じの――誰が御存じなものですか――牛頭の鬼の像があつたが、砂埃に塗れた上へ、顏を半分、べたりとしやぼんを流したやうに、したゝかな蜘蛛の巣であつた。

「坊主は居ねえか、無住だな。甚く荒果てたもんぢやねえか。蜘蛛の奴めも、殿樣の方には遠慮したと見えて、御家來の顏へを掛けやがつた。なあ、これ、御家來と云へば此方人等だ。其の又家來又家來と云ふんだけれど、お互に詰りませんや。これぢや、なんぼお木像でも鬱陶しからう、お氣の毒だ。」

と、兩袖を擧げて、はた/\と拂つて、颯と埃を拭いて取ると、芥に咽せて、クシヤと圖拔けな嚏をした。

「ほい。」と云ふ時、もう枯草の段を下りて居る、嚏に飛んだ身輕な足取。

まだ方角も確でない。旅馴れた身は野宿の覺悟で、幽に黒雲の如き低い山が四方を包んだ、灰のやうな渺茫たる荒野を足にまかせて辿ること二里ばかり。

前途に、さら/\と鳴るは水の聲。

扨は流がある。里もやがて近からう。

雖然、野路に行暮れて、前に流れの音を聞くほど、うら寂しいものは無い。一つは村里に近いたと思ふまゝに、里心がついて、急に人懷かしさに堪へないのと、一つは、水のために前途を絶たれて、渡るに橋のない憂慮はしさとである。

但し仔細のない小川であつた。燒杭を倒したやうな、黒焦の丸木橋も渡してある。

唯、其の橋の向う際に、淺い岸の流に臨んで、束ね髮の襟許白く、褄端折りした蹴出しの薄ら蒼いのが、朦朧として其處に俯向いて菜を洗ふ、と見た。其の菜が大根の葉とは違ふ。

葡萄色に藍がかつて、づる/\と蔓に成つて、葉は蓮の葉に肖如で、古沼に化けもしさうな大な蓴菜の形である。

はて、何の菜だ、と思ひながら、聲を掛けようとして、一つ咳をすると、此は始めて心着いたらしく、菜を洗ふ其の婦が顏を上げた。夕間暮なる眉の影、鬢の毛も縺れたが、目鼻立ちも判明した、容色のいゝのを一目見ると、呀、と其處へ飛脚が尻餅を搗いたも道理こそ。一昨年亡くなつた女房であつた。

「あら、丁さん。」

と婦も吃驚。――亭主の亭と云ふのではない。飛脚の名は丁隷である。

「まあ、お前さん、何うして此處へ、飛んだ事ぢやありませんかねえ。」

人間界ではないものを……と、唯た今、亭主に死なれたやうな聲をして、優しい女房は涙ぐむ。思ひがけない、可懷しさに胸も迫つたらう。

丁告之以故。――却説、一體此處は何處だ、と聞くと、冥土、と答へて、私は亡き後、閻魔王の足輕、牛頭鬼のために娶られて、今は其の妻と成つた、と告げた。

飛脚は向う見ずに、少々妬けて、

「畜生め、そして變なものを洗ふと思つた。汝、そりや間男の鬼の腹卷ぢやねえかい。」

婦は、ぽツと瞼を染めながら、

「馬鹿なことをお言ひでない。丁さん、こんなお前さん、ぺら/\した……」

「乾くと虎の皮に代る奴よ。」

「可い加減なことをお言ひなさいな。此はね、嬰兒の胞胎ですよ。」と云つた。

十度、これを洗ひたるものは、生れし兒 清秀にして貴し。洗ふこと二三度なるものは、尋常中位の人、まるきり洗濯をしないのは、昏愚、穢濁にして、然も淫亂だ、と教へたのである。

「内職に洗ふんですわ。」

「所帶の苦勞まで饒舌りやがる、畜生め。」

とづか/\と橋を渡り掛ける。

「あゝ、不可い、其處を。」と手を擧げて留める間もなく、足許に、パツと火が燃えて、わツと飛び移つた途端に、丸木橋はぢゆうと水に落ちて、黄色な煙が――濛と湧立つ。

「何が、不可え。何だ内職の葉ツ葉ぐれえ。」

女房は、飛脚を留めつゝ驚く發奮に、白い腕に掛けた胞胎を一條流したのであつた。

「否、まあ、流した方は、お氣の毒な娑婆で一人流産をしませうけれど、そんな事よりお前さん、橋を渡らない前だと、まだ何うにか、仕樣も分別もありましたらうけれど、氣短に飛越して了つてさ。」

「べらぼうめ、飛越したぐらゐの、ちよろ川だ、また飛返るに仔細はあるめえ。」と、いきつて見返すと、こはいかに、忽ち渺々たる大河と成つて、幾千里なるや果を見ず。

飛脚は、ハツと目が眩んで、女房に縋着いた。

強ひても拒まず、極り惡げに、

「放して下さい、見られると惡いから。」

「助けてくれ。」

「まあ、私何うしたら可いでせう。……」

と色つぽく氣を揉んで、

「とに角、家へおいでなさいまし。」

「助けてくれ。」

川の可恐しさに氣落がして、殆ど腰の立たない男を、女房が手を曳いて、遠くもない、槐に似た樹の森々と立つた、青煉瓦で、藁葺屋根の、妙な住居へ伴つた。

飛脚が草鞋を脱ぐうちに、女房は褄をおろした。

まだ夕飯の前である。

部屋へ灯を點ける途端に、入口の扉をコト/\と輕く叩くものがある。

白い頬へ口を寄せつゝ、極低聲で、

「誰だい、誰だい。」

「内の人よ。」

「呀、鬼か。」

と怨めしさうに、女房の顏をじろり。で、慌てて寢臺の下へ潛込む。

布で隱して、

「はい、唯今。」

扉を開ける、とスーと入つた。とゞろ/\と踏鳴らしもしない、輕い靴の音も、其の筈で、ぽかりと帽子を脱ぐやうに角の生えた面を取つて、一寸壁の釘へ掛けた、顏を見ると、何と! 色白な細面で、髮を分けたハイカラな好男子。

「いや、何うも、今日は閻王の役所に檢べものが立込んで、甚く弱つたよ。」

と腹も空いたか、げつそりとした風采。ひよろりとして飛脚の頭の前にある椅子にぐたりと腰を掛けた、が、細い身體をぶる/\と振つた。

「人臭いぞ、變だ。甚く匂ふ、フン、ハン。」

と嗅して、

「これは生々とした匂ひだ。眞個人臭い。」

前刻から、手を擧げたり、下げたり、胸に波を打たして居た女房。爰に於て其の隱し終すべきにあらざるを知つて、衝と膝を支いて、前夫の飛脚の手を取つて曳出すとともに、夫の足許に跪いて、哀求す。曰く、

「後生でござんす。」――と仔細を語る。

曳出された飛脚は、人間が恁うして、こんな場合に擡げると些しも異らぬ面を擡げて、ト牛頭と顏を見合はせた。

(家内が。)(家内が。)と雙方同音に云つたが==毎々お世話に==と云ふべき處を、同時に兩方でのみ込みの一寸默然。

「其の時のよ、己の顏も見たからうが、牛頭の顏も、そりや見せたかつた。」

と、蘇生つて年を經てから、丁飛脚が、内證で、兄弟分に話したと傳へられる。

時に其時、牛頭は慇懃に更めて挨拶した。

「貴方、お手をお擧げ下さい。家内とは一方ならぬ。」と云ひかけて厭な顏もしないが、婦と兩方を見較べながら、

「御懇意の間と云ひ、それにです。貴方は私のためには恩人でおいでなさる。――お前もお聞きよ、私が毎日出勤するあの破堂の中で、顏は汗だらけ、砂埃、其の上蜘蛛の巣で、目口も開かない、可恐く弱つた處を、此のお方だ、袖で綺麗にして下すつた。……お救ひ申さないでおかるゝものか。」

Chapter 1 of 3