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妖魔の辻占
泉鏡花
一
伝へ聞く……文政初年の事である。将軍家の栄耀其極に達して、武家の代は、将に一転機を劃せんとした時期だと言ふ。
京都に於て、当時第一の名門であつた、比野大納言資治卿(仮)の御館の内に、一日偶と人妖に斉しい奇怪なる事が起つた。
其の年、霜月十日は、予て深く思召し立つ事があつて、大納言卿、私ならぬ祈願のため、御館の密室に籠つて、護摩の法を修せられた、其の結願の日であつた。冬の日は分けて短いが、まだ雪洞の入らない、日暮方と云ふのに、滞りなく式が果てた。多日の精進潔斎である。世話に云ふ精進落で、其辺は人情に変りはない。久しぶりにて御休息のため、お奥に於て、厚き心構の夕餉の支度が出来た。
其処で、御簾中が、奥へ御入りある資治卿を迎のため、南御殿の入口までお立出に成る。御前を間三間ばかりを隔つて其の御先払として、袿、紅の袴で、裾を長く曳いて、静々と唯一人、折から菊、朱葉の長廊下を渡つて来たのは藤の局であつた。
此の局は、聞えた美女で、年紀が丁ど三十三、比野の御簾中と同年であつた。半月ばかり、身にいたはりがあつて、勤を引いて引籠つて居たのが、此の日修法ほどき、満願の御二方の心祝の座に列するため、久しぶりで髪容を整へたのである。畳廊下に影がさして、艶麗に、然も軟々と、姿は黒髪とともに撓つて見える。
背後に……たとへば白菊と称ふる御厨子の裡から、天女の抜出でたありさまなのは、貴に気高い御簾中である。
作者は、委しく知らないが、此は事実ださうである。他に女の童の影もない。比野卿の御館の裡に、此の時卿を迎ふるのは、唯此の方たちのみであつた。
また、修法の間から、脇廊下を此方へ参らるゝ資治卿の方は、佩刀を持つ扈従もなしに、唯一人なのである。御家風か質素か知らない。此の頃の恁うした場合の、江戸の将軍家――までもない、諸侯の大奥と表の容体に比較して見るが可い。
で、藤の局の手で、隔てのお襖をスツと開ける。……其処で、卿と御簾中が、一所にお奥へと云ふ寸法であつた。
傍とも云ふまい。片あかりして、冷く薄暗い、其の襖際から、氷のやうな抜刀を提げて、ぬつと出た、身の丈抜群な男がある。唯、間二三尺隔てたばかりで、ハタと藤の局と面を合せた。
局が、其の時、はつと袖屏風して、間を遮ると斉しく、御簾中の姿は、すつと背後向に成つた――丈なす黒髪が、緋の裳に揺いだが、幽に、雪よりも白き御横顔の気高さが、振向かれたと思ふと、月影に虹の影の薄れ行く趣に、廊下を衝と引返さる。
「一まづ。」
と、局が声を掛けて、腰をなよやかに、片手を膝に垂れた時、早や其の襖際に気勢した資治卿の跫音の遠ざかるのが、静に聞えて、もとの脇廊下の其方に、厳な衣冠束帯の姿が――其の頃の御館の状も偲ばれる――襖の羽目から、黄菊の薫ともろともに漏れ透いた。
藤の局は騒がなかつた。
「誰ぢや、何ものぢや。」
「うゝ。」
と呻くやうに言つて、ぶる/\と、ひきつるが如く首を掉る。渠は、四十ばかりの武士で、黒の紋着、袴、足袋跣で居た。鬢乱れ、髻はじけ、薄痘痕の顔色が真蒼で、両眼が血走つて赤い。酒気は帯びない。宛如、狂人、乱心のものと覚えたが、いまの気高い姿にも、慌てゝあとへ退かうとしないで、ひよろりとしながら前へ出る時、垂々と血の滴るばかり抜刀の冴が、脈を打つてぎらりとして、腕はだらりと垂れつつも、切尖が、じり/\と上へ反つた。
局は、猶予はず、肩をすれ違ふばかり、ひた/\と寄添つて、
「其方……此方へ。」
ひそみもやらぬ黛を、きよろりと視ながら、乱髪抜刀の武士も向きかはつた。
其をば少しづゝ、出口へ誘ふやうに、局は静々と紅の袴を廊下に引く。
勿論、兇器は離さない。上の空の足が躍つて、ともすれば局の袴に躓かうとする状は、燃立つ躑躅の花の裡に、鼬が狂ふやうである。
「関東の武家のやうに見受けますが、何うなさつた。――此処は、まことに恐多い御場所。……いはれなう、其方たちの来る処ではないほどに、よう気を鎮めて、心を落着けて、可いかえ。咎も被せまい、罪にもせまい。妾が心で見免さうから、可いかえ、柔順しく御殿を出や。あれを左へ突当つて、ずツと右へ廻つてお庭に出や。お裏門の錠はまだ下りては居ぬ。可いかえ。」
「うゝ。」
「分つたな。」
「うーむ。」
雖然、局が立停ると、刀とともに奥の方へ突返らうとしたから、其処で、袿の袖を掛けて、曲ものの手を取つた。それが刀を持たぬ方の手なのである。荒き風に当るまい、手弱女の上の此の振舞は讃歎に値する。
さて手を取つて、其のまゝなやし/\、お表出入口の方へ、廊下の正面を右に取つて、一曲り曲つて出ると、杉戸が開いて居て、畳の真中に火桶がある。
其処には、踏んで下りる程の段はないが、一段低く成つて居た。ために下りるのに、逆上した曲ものの手を取つた局は、渠を抱くばかりにしたのである。抱くばかりにしたのだが、余所目には手負へる鷲に、丹頂の鶴が掻掴まれたとも何ともたとふべき風情ではなかつた。
折悪く一人の宿直士、番士の影も見えぬ。警護の有余つた御館ではない、分けて黄昏の、それぞれに立違つたものと見える。欄間から、薄もみぢを照す日影が映して、大な番火桶には、火も消えかゝつて、灰ばかり霜を結んで侘しかつた。
局が、自分先づ座に直つて、
「とにかく、落着いて下に居や。」
曲ものは、仁王立に成つて、じろ/\と瞰下した。しかし足許はふら/\して居る。
「寒いな、さ、手をかざしや。」
と、美しく艶なお局が、白く嫋かな手で、炭びつを取つて引寄せた。
「うゝ、うゝ。」
とばかりだが、それでも、どつかと其処に坐つた。
「其方は煙草を持たぬかえ。」
すると、此の乱心ものは、慌しさうに、懐中を開け、袂を探した。それでも鞘へは納めないで、大刀を、ズバツと畳に突刺したのである。
兇器が手を離るゝのを視て、局は渠が煙草入を探す隙に、そと身を起して、飜然と一段、天井の雲に紛るゝ如く、廊下に袴の裙が捌けたと思ふと、武士は武しや振りつくやうに追縋つた。
「ほ、ほ、ほ。」
と、局は、もの優しく微笑んで、また先の如く手を取つて、今度は横斜違に、ほの暗い板敷を少時渡ると、※ともみぢの緋の映る、脇廊下の端へ出た。
言ふまでもなく、今は疾くに、資治卿は影も見えない。
もみぢが、ちら/\とこぼれて、チチチチと小鳥が鳴く。
「千鳥、千鳥。……」
とたく口誦みながら、半ば渡ると、白木の階のある処。
「千鳥、千鳥、あれ/\……」
と且つ指し、且つ恍惚と聞きすます体にして、
「千鳥や、千鳥や。」
と、やゝ声を高うした。
向う前栽の小縁の端へ、千鳥と云ふ、其の腰元の、濃い紫の姿がちらりと見えると、もみぢの中をくる/\と、鞠が乱れて飛んで行く。
恰も友呼ぶ千鳥の如く、お庭へ、ぱら/\と人影が黒く散つた。
其時、お局が、階下へ導いて下り状に、両手で緊と、曲ものの刀持つ方の手を圧へたのである。
「うゝ、うゝむ。」
「あゝ、御番の衆、見苦しい、お目触りに、成ります。……括るなら、其の刀を。――何事も情が卿様の思召。……乱心ものゆゑ穏便に、許して、見免して遣つてたも。」
牛蒡たばねに、引括つた両刀を背中に背負はせた、御番の衆は立ちかゝつて、左右から、曲者の手を引張つて遠ざかつた。
吻と呼吸して、面の美しさも凄いまで蒼白く成りつつ、階に、紅の袴をついた、お局の手を、振袖で抱いて、お腰元の千鳥は、震へながら泣いて居る。いまの危さを思ふにつけ、安心の涙である。
下々の口から漏れて、忽ち京中洛中は是沙汰だが――乱心ものは行方が知れない。
二
「やあ、小法師。……」
こゝで読者に、真夜中の箱根の山を想像して頂きたい。同時に、もみぢと、霧と、霜と、あの蘆の湖と、大空の星とを思ひ浮べて頂きたい。
繰返して言ふが、文政初年霜月十日の深夜なる、箱根の奥の蘆の湖の渚である。
霧は濃くかゝつたが、関所は然まで遠くない。峠も三島寄の渚に、憚らず、ばちや/\と水音を立てるものがある。さみしさも静けさも、霜に星のきらめくのが、かち/\と鳴りさうなのであるから、不断の滝よりは、此の音が高く響く。
鷺、獺、猿の類が、魚を漁るなどとは言ふまい。……時と言ひ、場所と言ひ、怪しからず凄じいことは、さながら狼が出て竜宮の美女たちを追廻すやうである。
が、耳も牙もない、毛坊主の円頂を、水へ逆に真俯向けに成つて、麻の法衣のもろ膚脱いだ両手両脇へ、ざぶ/\と水を掛ける。――恁る霜夜に、掻乱す水は、氷の上を稲妻が走るかと疑はれる。
あはれ、殊勝な法師や、捨身の水行を修すると思へば、蘆の折伏す枯草の中に籠を一個差置いた。が、鯉を遁した畚でもなく、草を刈る代でもない。屑屋が荷ふ大形な鉄砲笊に、剰へ竹のひろひ箸をスクと立てたまゝなのであつた。
「やあ、小法師、小法師。」
もの幻の霧の中に、あけの明星の光明が、嶮山の髄に浸透つて、横に一幅水が光り、縦に一筋、紫に凝りつつ真紅に燃ゆる、もみぢに添ひたる、三抱余り見上げるやうな杉の大木の、梢近い葉の中から、梟の叫ぶやうな異様なる声が響くと、
「羽黒の小法師ではないか。――小法師。」
と言ふ/\、枝葉にざわ/\と風を立てて、然も、音もなく蘆の中に下立つたのは、霧よりも濃い大山伏の形相である。金剛杖を丁と脇挟んだ、片手に、帯の結目をみしと取つて、黒紋着、袴の武士を俯向けに引提げた。
武士は、紐で引からげて胸へ結んで、大小を背中に背負はされて居る。卑俗な譬だけれど、小児が何とかすると町内を三遍廻らせられると言つた形で、此が大納言の御館を騒がした狂人であるのは言ふまでもなからう。
「おう、」
と小法師の擡げた顔の、鼻は鉤形に尖つて、色は鳶に斉しい。青黒く、滑々とした背膚の濡色に、星の影のチラ/\と映す状は、大鯰が藻の花を刺青したやうである。
「これは、秋葉山の御行者。」
と言ひながら、水しぶきを立てて、身体を犬ぶるひに振つた。
「御身は京都の返りだな。」
「然れば、虚空を通り掛りぢや。――御坊によう似たものが、不思議な振舞をするに依つて、大杉に足を踏留めて、葉越に試みに声を掛けたが、疑ひもない御坊と視て、拙道、胆を冷したぞ。はて、時ならぬ、何のための水悪戯ぢや。悪戯は仔細ないが、羽ぶしの怪我で、湖に墜ちて、溺れたのではないかと思うた。」
「はゝ。」
と事もなげに笑つて、
「いや、些と身に汚れがあつて、不精に、猫の面洗ひと遣つた。チヨイ/\とな。はゝゝゝ明朝は天気だ。まあ休め。」
と法衣の袖を通して言ふ。……吐く呼吸の、ふか/\と灰色なのが、人間のやうには消えないで、両個とも、其のまゝからまつて、ぱつと飛んで、湖の面に、名の知れぬ鳥が乱れ立つ。
羽黒の小法師、秋葉の行者、二個は疑もなく、魔界の一党、狗賓の類属。東海、奥州、ともに名代の天狗であつた。
三
「成程、成程、……御坊の方は武士であつた。」
行者が、どたりと手から放すと、草にのめつた狂人を見て、――小法師が言つたのである。
「然れば、此ぢや。……浜松の本陣から引攫うて持つて参つて、約束通り、京極、比野大納言殿の御館へ、然も、念入りに、十二間のお廊下へドタリと遣つた。」
「おゝ御館では、藤の局が、我折れ、かよわい、女性の御身。剰へ唯一人にて、すつきりとしたすゞしき取計ひを遊ばしたな。」
「ほゝう。」
と云つた山伏は、真赤な鼻を撮むやうに、つるりと撫でて、
「最早知つたか。」
「洛中の是沙汰。関東一円、奥州まで、愚僧が一山へも立処に響いた。いづれも、京方の御為に大慶に存ぜられる。此とても、お行者のお手柄だ、はて敏捷い。」
「やあ、如何な。すばやいは御坊ぢやが。」
「さて、其が過失。……愚僧、早合点の先ばしりで、思ひ懸けない隙入をした。御身と同然に、愚僧等御司配の命令を蒙り、京都と同じ日、先づ/\同じ刻限に、江戸城へも事を試みる約束であつたれば、千住の大橋、上野の森を一のしに、濠端の松まで飛んで出た。かしこの威徳衰へたりと雖も、さすがは征夷大将軍の居城だ、何処の門も、番衆、見張、厳重にして隙間がない。……ぐるり/\と窺ふうちに、桜田門の番所傍の石垣から、大な蛇が面を出して居るのを偶と見つけた。霞ヶ関には返り咲の桜が一面、陽気はづれの暖かさに、冬籠りの長隠居、炬燵から這出したものと見える。早や往来は人立だ。