Chapter 1 of 4

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明治三十九年の秋だつたと思う。

当時七歳の私は父に連れられて神戸港新開地の掛小屋で活動写真に見いつていた。

天幕のすきまからはいつてくる風にあおられて波のようにうねる映写幕には日露戦争の実況(?)が写つていた。

我々は観客席(といつてもそこは材木と布でしきられた何坪かのじめじめした地面にすぎないのであるが)に立つて押しあいながら見ていた。もちろん私のような子供は一番前まで出て行かぬことには画面を見ることができなかつた。地面は暗いのでよくわからないまでも、足を動かせばみかんの皮やラムネのびんに触れたり、歩こうとすれば大きな雑草の株につまずいたり、およそわびしいかぎりの光景であつたようだ。

幹の細長い木立の中に陣地を構えた野砲兵が敵にむかつて盛んに砲撃をやつている。

一発うつたびに白い煙がぱつと立つ、いきおいで砲車があとずさりをする。砲兵たちは身をかわしてぱつと散る。すぐに集つてきて次の行動に移る。実にチヨコチヨコと小まめによく働いた。とても実際にはああは行くまいと思われるほど、動作の敏捷さが人間ばなれをしているのである。しかし悲しいことにはこのチヨコチヨコとよく働く砲兵たちも、一人二人と次第に斃されて行つて、おしまいにはとうとう一人になつてしまつた。しかしこの最後の一人の働きぶりこそはまさに金鵄勲章的であつた。いま弾丸を運ぶかとみると次の瞬間にはそれを装填していた。そうかと思うと間髪を入れずして射撃手の席に座を占めている。白い煙。砲車の逆行。薬莢の抛擲。弾薬の運搬。ああ。見ていて眼が痛くなるほどの早さである。もうそれは人間業ではない。鬼神が乗り移つて日本のために超スピードの砲撃をやつているのであろう。しかしついにこの鬼神の働きもおわるときがきた。敵の弾丸が砲車のすぐ近くで炸烈し、画面が煙だらけになつたと思つたら、この最後の砲手もその煙の中で棒を倒すように倒れてしまつた。画面には青白き雨の筋が無数に上から下へ走つている。

私の記憶に存する範囲では、私の活動写真傍観史はこの時に始まるようである。

湊川神社の近くに八千代座というのがあつた。(大黒座というのもあつたように思うがどうもはつきりしない。)

やはり同じころ、親戚のものに連れられてそこへ活動写真を見に行つた記憶がある。それは全部西洋の写真ばかりで、そのうちの一つは子供の出る短い物語りであつた。家の入口が高いところにあり、入口から地面まで幅の広い階段が設けられている。階段の一方には丈夫そうな、装飾つきの欄干があつて、女の人や、子供がその欄干に沿うて階段を上下した。その写真について覚えているのはそれだけである。欄干つきの階段がうらやましかつたためかもしれない。

ほかに実写が二つ三つあつた。一つはサンフランシスコかどこかの万国博覧会であろう。大きな人工的な池がある。天よりも高いところから池の水面に達する幅の狭い斜面がこしらえてあり、人の乗つた舟がおそろしい勢いで斜面を滑つてきて池に飛びこむのである。舟が水面に達した瞬間水煙がまつ白く立つて舟と人の運命はどうなつたか判定がつかなくなる。しかしすぐ次の瞬間には水煙の間をつき抜けて舟のへさきが白鳥の首に似た曲線を現わす。やがて何ごともなかつたように舟の男女は笑い興じながら漕いで行く。そしてその時はもう次の舟が水煙を上げているのであつた。この光景は活動写真とは思えないほど生き生きした印象を残している。

次に天女の舞のようなダンスがあつた。これは感じからいうとどうもイタリヤ色が濃厚だつたように思う。美女が身に纏うた大風呂敷のようなものをうち振りうち振り、あたかも自分の肉体の一部であるかのように自由自在にそれを操つて、曲線や曲面を交錯させた不思議な美しさをえがきながら踊るのであるが、その大風呂敷は絶えず次から次へと変化する美しくも妖しき色に染められ、ことにそれが毒々しいばかりの真紅になつたときは、あたかもめらめらと揺れ上るほのおの中で立ち舞つているような奇観を呈した。

一番しまいにはやはり美しくいろどられた目も綾なる花火の実写があつた。

その変幻きわまりない不思議な美しさは私を茫然とさせてしまつた。そしてひたすらこの美しい魔法が永久に終らないことを希望するのであつた。今にも終りはしないかという心配で私の胸は締めつけられるようであつた。そして遂に終りの時がくると絶望的な深い寂しさを感じた。

神戸で見た活動写真の記憶は以上で尽きる。

八歳のとき私は郷里の松山へ帰つた。そしてそこで十八の春まですごした。

松山に常設館というものができたのは私が十三の年であつた。

常設館ができるまでは巡業隊の持つてくる写真を芝居小屋か招魂祭の掛小屋で見ていた。

招魂祭の掛小屋で乃木大将の一代記というのを見た覚えがある。その写真は乃木大将の少年時代からのことが仕組まれてあつて、まだ前髪をつけた乃木大将が淋しい田舎道を歩いていると、大入道や傘の一本足のばけものやその他いろいろのばけものが趣好をこらして入りかわり立ちかわり現われた。乃木大将は新しいばけものが現われるたびにカラカラとうち笑つて「それしきのことに驚く無人(大将の幼名)ではないぞ」という同じせりふを何べんとなくくり返した。もちろんそれは弁士のつたない声色であるが、この年になつてもいまだにその節まわしが耳に残つているところをみると人間の記憶力の気まぐれな選択作用に驚かされる。

そのころ松山には四つの芝居小屋があつた。四つのうち二つは目抜きの場所にあり、そのうち新栄座というのが一流で寿座というのが二流どころであつた。

あとの二つは場末にあつてともに三流であるが、この三流のうちの片方はまつたくはいつたことがないので私は知らない。

知つているのは伊予鉄道の松山駅のすぐ傍にあつた末広座という小屋である。

末広座というのは比較的新しい名前であるらしく、私の祖母などは常に旧名を用いて大西座と呼んでいた。

この小屋は今はなくなつてしまつたが、実に不思議な小屋で、それは駅の傍というよりもむしろまつたく駅の構内にあつた。

舞台と観客席は建物の二階と三階が使用されていて、この小屋には一階がなかつた。

一階にあたるところは駅の引込線がはいつていて、ちようど扉のない倉庫のような体裁を備えており、しかもだれでも通りぬけ自由であつた。そのかわり夜などはまつ暗で線路につまずかないように注意して歩かねばならず、ときによるとまつ暗な中にまつ黒な貨車が引きこんであるのに鼻をぶつけそうになつたり、またある時は壁に沿うて塩だわらが山と積まれ、通るところがなくなつていてめんくらつたりした。

もともとあまり大きくもない駅の構内にあるわけだから、駅の中心からいくらも離れていない。したがつて汽笛の音、蒸気の音、車輪の音、発車のベルの音その他、すべて鉄道事業の経営に付随する各種の音響は遠慮なく劇場の中へ飛びこんできて見物の注意を奪つたから、不幸なこの小屋の見物たちは忠臣蔵の芝居を見ているときでも、自分のからだがプラットフォームの近所にいることをどうしても忘れることができなかつた。

今になつて考えるとこの小屋は、その敷地の位置からおしてあるいは伊予鉄道会社が経営していたのかとも思われるが、万一そうだとするとこの二つの事業の関係はかなり奇妙なものである。

およそ考え得る劇場の位置として、停車場の構内よりも不適当なところはあまり多くあるまいと思われる。最も鋭く、最も現実的な音響を聞かせて、絶えず見物の幻想を破壊しながら芝居や活動を見せようという仕組みになつているのだから、見物の身にしてみればやりきれたわけのものではない。何のことはない、遊興してよい気持になりかけると入りかわり立ちかわり借金取りが現われるようなものである。

はたしてこの劇場はまもなく取り壊されてしまつたが、この小屋で見た写真で記憶に残つているのを拾つてみると「碁盤忠信」、「滝の白糸」、「祐天吉松」などというのが思い出される。

俳優などはまつたくわからない。

たしかにアメリカの写真だと考えられるものもこの小屋ではじめて見た。

白人とアメリカ・インディアンとの間に争闘が行われ、騎馬の追つかけがあり、鉄砲の撃ち合いがあり、まつたく躍りあがるほどおもしろかつた。これが活劇というものを見た最初かもしれない。

この小屋の近所に御堂という変つた苗字の靴屋があつた。私たちは夕方になるとその家へ遊びに行つて八時すぎまで待機の姿勢をとる。八時すぎになるとみなでぞろぞろと小屋の前へやつて行つて下足番のおやじにむかつて運動を開始する。もちろん臨時無料入場認定促進運動である。

ところが妙なことにこの運動はいつも効を奏したので、私はこの小屋だけは金をはらつてはいる必要がなかつた。

いつたいに寂しい小屋でときどき思い出したように蓋を開けるが、一年のうちの大部分は戸が締まつていた。

興行の種類は人形芝居、壮士芝居、活動写真などで、そのほかにしろうと浄瑠璃大会、学術参考的見せ物などをやつているのを見たことがある。

あるとき人形芝居がかかると私の知つている近所の子供が舞台を手伝いに行き始めた。

聞いてみるとその子の父親が実は人形使いなので、ふだんは職人か何か堅気の職業に従事しているのであつた。それにしても、その子供がいつたい何を手伝いに行くのかと思つたら、赤垣源蔵の人形が徳利を置くと、その徳利をじつと持つている役目だという。

なるほど人形芝居は塀のようなものの上で芝居をするのだから、徳利などはいちいちだれかが支えていなければ塀の下に落ちてこわれてしまう勘定である。

私たちはこの話を聞くとたちまち例の運動を起して華々しく徳利の総見をおこなつた。

赤垣源蔵が徳利を置くと黒い布をかぶつた小さいやつが出てきて、徳利を両手に支えた。

顔がわからないのが残念であるが、この黒ん坊があの子供に相違ないのである。

こちらからは見えないがむこうからはよく見えるらしく、注意していると黒ん坊はどうやら布の中で我々を見て笑つているらしいのである。そのためか徳利がしきりに動くので私はたいへん気になつた。

大勢の客が徳利の動くのを見て笑い出したら一大事だと思つたが、だれももはや徳利のことなどは忘れてしまつているとみえて一人も笑うものはなかつた。

二流どころの寿座という小屋では「ジゴマ」の写真を見た。小学校の五年か六年のときである。

駒田好洋という人がこの写真を持つてきて、自分で説明をした。「すこぶる非常に」という言葉をいやになるほどたくさん使用したのを覚えているが、子供心にもこれはわるい趣味だと思つた。

それからのちに「ジゴマ」の本を読み、ポーリン探偵は我らの英雄になつた。

ポーリン探偵はその四角なひたいの上半を覆いかくすような髪のわけ方をしており、得意なときにも困つた時にも人さし指をとがつたあごに持つて行つて、いかにも思慮ぶかそうに上眼を使つて考えた。

ポーリン探偵の助手はニック・カーターである。この人はポーリン探偵より背が高く、やや柔和そうにみえた。我々はポーリン探偵の笑い顔を想像することは困難であつたが、ニック・カーターはすぐに笑つたりじようだんをいつたりしそうであつた。

新馬鹿大将というのと薄馬鹿大将というのと二様の名まえもこの小屋で覚えたが、この両名が別人であつたか、それとも同じ人であつたかいまだに疑問である。

のちに中学校へはいつたとき、運動会の楽隊の稽古をしていた上級生から新馬鹿マーチという名まえを教わつた。なるほど耳になじみのあるその曲を聞くと、私の頭の中で条件反射が行われ、新馬鹿大将の行動があざやかに見えるような気がした。

そのころの弁士の口調を思い出して見ると、ただ新馬鹿大将とはいわないで、新馬鹿大将アンドリューとつづけて呼んでいたようである。

やはり小屋で見た写真で、非常に美しい天然色映画を一本思い出す。

深い深い海の底へ主人公が泳いで行つて、竜宮のような別世界へ到達するのであるが、到達してからのちのできごとについては一つも覚えていない。

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