二
浦添の名は文治三年、為朝の子といわれる、尊敦が浦添から起って琉球の王位に登った時に著しくなった。この尊敦(舜天と尊敦とは音の似た所がある)は十五歳にして浦添按司に推された位であったから、当時浦添に於てよほど人望があったものと思われる。而して三代七十三年の間その朝廷で勢力のあったものは浦添の人であった。中に就いて名高いのは、
ゑぞのいくさもい
月のかずあすびたち
ともゝとわかてだはやせ
いぢへきいくさもい
夏はしげちもる
冬は御酒もる 〔十五―一八〕
と歌われた(このオモロの新解釈については『沖縄考』五三頁―五四頁を見よ)英祖のイクサモイであった。彼れはヱゾの城主の嫡子で七年の間、舜天の孫義本王の摂政をつとめて、遂にその譲を受けたというように伝えられている。彼れがいたという城は伊祖城といって、今もなお残っているが、浦添城を距ること十町ばかりの山脈つづきで、而も彼と此とがその両端をなしている。規模は狭隘ではあるが、要害の点に於ては浦添城に勝っていたのであろう。「うらおそいのおもろ双紙」にいわゆるヱゾの石城ヱゾの金城とはこの城のことである。
ゑぞゑぞのいしぐすく
あまみきよがたくだるぐすく
ゑぞゑぞのかなぐすく 〔十五―一五〕
伊祖の石城はアマミキヨが築いた城ぞ、伊祖の金城は、という意である。六百五十年前に於てさえ古い城と思われていたのである。また、
ゑぞのいしぐすく
のぼてみちやるまさり
ゑぞのかなぐすく 〔十五―一七〕
伊祖の石城は登って見たら、勝れている、伊祖の金城は、という意である。とにかく要害であったということがわかる。
ゑぞゑぞのいしぐすく
いよやにおそてちよわれ
ゑぞゑぞのかなぐすく 〔十五―一六〕
伊祖の石城よ、いよいよますます支配してよ、伊祖の金城よ、と。いかに近隣を威圧しつつあったかを想像させる。以上のオモロによって判断してみると、英祖はおとなしく義本の譲を受けたのではなくして、武力を以て舜天の統を威圧したのではなかろうかと疑われる。英祖の時(弘長元年)に、何処からか禅鑑という僧が漂流して来て、浦添に極楽寺を建てたのは注意すべき事と思う。仏教はこの時始めて沖縄に入ったのである。袋中の『琉球神道記』によれば、いわゆる琉球固有の文字の発明された所も浦添である。また「琉球文にて記せる最後の金石文」の立っているようどれも此処にある。英祖の統は五伝して西威に至って衰えた。殆んど百年の間である。これに代って琉球の中山に君臨したのもやはり浦添の人で、時の浦添按司察度(ヂヤナモイ)である。ここで誰れでも気のつく事は、浦添の人が一たび首里おやぐに(首里の都)に入ると百年経たずで腐敗して、新しい浦添の人がこれに代ることである。とにかく沖縄史の幕が開けてから尚巴志が三山を統一するまで、およそ三百年の間首里おやぐにで繁昌したのは浦添の人であった。実に「きこゑうらおそいや(名高き浦添は)あぢの(按司の)すでおやぐに(産地)」であった。思うに浦添は首里の出来ない以前に於ては沖縄島の中心であったろう。以上の歴史的事実で浦添に国を治むる所という意味のあることはわかりかけたが、次に浦添の歴史地理を調べて結論を急ごう。