Chapter 1 of 3

私はかつて記紀万葉などにある七世紀前の大和言葉が今なお琉球諸島に遺っているという事を例に引いて、九州の東南岸にいた海人部の一氏族が、紀元前に奄美大島を経て沖縄島に来たという事を言語学上から証明したことがある。また七世紀の頃、南島人が始めて大和の朝廷に来貢した時分訳語を設けて相互の意を通じたということが国史に見えているから、分離後六、七百年も経ったために、大和言葉と沖縄言葉との間にはよほどの差異が生じたのであろうと言ったこともある。その後、沖縄の古語や諸方言を研究するに及んで、その中に『東鑑』にあるような鎌倉以前の言葉の多く這入っているのに気が付き、もしや日本本土と沖縄との交通が鎌倉時代に至って一入頻繁になっていたのではなかろうかと思って首をひねって見たが、これぞという証拠が見つからなかった。ある日『おもろさうし』の十の巻「ありきゑとのおもろさうし」(旅行の歌の双紙の義)を繙いていると、ふと「ねいしまいしがふし」というオモロが目についた。

いしけした、よう、がほう

よせつける、とまり

かねし、かね、どのよ

いしへつは、こので

かなへつは、こので

いしけ、より、なおちへ

なだら、より、なおちへ

くすぬきは、こので

やまと、ふね、こので

やまと、たび、のぼて

やしろ、たび、のぼて

かはら、かいに、のぼて

てもち、かいに、のぼて

おもいぐわのためす

わりがねが、ためす 〔十―二八〕

その意味は「伊敷下は豊年を招く港ぞ、兼次の貴き君よ、君がいさほにて、石槌を造り、金槌を造りて、伊敷を修理し、ナタラを築港しぬ、かくて楠船を造り、大和船を造りて、大和の旅に上り、山城の旅に上りぬ、瓦を買はんとて、品物を買はんとて、愛児のためにこそ、わりがねがためにこそ」ということである。これで研究の端緒は開けたような気がした。島尻の真壁村の伊敷の城主が大和へ瓦その他の品物を買いにやったとあるから、古くは沖縄では瓦を買うために遥々日本本土まで出かけたということがわかった。もし何処かでこの瓦の遺物が見つかったら、恐らくあの疑問は解けることと早合点をして、それから時々古城址などを跋渉して内地風の瓦を探して見たが、無益であった。昨年の夏、東恩納〔寛惇〕君が帰省したので、二人で琉球語の金石文を読みに浦添の古城址を訪ずれたが、思いがけずも灰色の瓦の破片が其処此処にころがっているのを見た。取り上げて見ると、ちょっとした模様がついて、外に「癸酉年高麗瓦匠造」と書いてある。この時、私はあのオモロを思い出さずにはおれなかった。そこでその事を東恩納君に打明けて、品のよい瓦片を一つ二つ持って帰った。しかしその道の人でなければもとより鑑定が出来るはずはない。ただ東恩納君が上京したら、専門家に鑑定してもらうより外に道がないと思った。今年の夏、東恩納君が大学を卒業して帰った日、早速あの瓦の事を尋ねると、専門家の鑑定によれば、疑もなく鎌倉時代のものであるとのこと。私は飛立つように喜んだ。アア浦添城址の瓦は口なくして能く七百年前の歴史を語った。私の想像はいよいよ事実となった。あのオモロの文句は生き出した。(その後の『考古学雑誌』に出ている高橋健自先生の古瓦の研究〔『考古学雑誌』五巻十二号「古瓦に現れたる文字」〕を見ると、この瓦は銘文式型押の瓦で、鎌倉時代より一時代古く王朝時代の瓦になってしまう。その後、同じ瓦が首里城でも発見され、つい近頃、勝連城址でも発見された。)これで見ると、王朝時代から鎌倉時代にかけて、日琉貿易がかなり盛んであったことがわかったと同時に、琉球語に鎌倉時代の言葉の混じている理由もわかった。オモロに鄙も都もということを京鎌倉といったり、勝連城を日本の鎌倉に譬えたりした所などを見ると、当時京都と鎌倉との関係が琉球の都鄙に知れ渡っていたことが知れる。その他、琉球語で病気のことを咳気といい、変な物を異風な物といい、保存するということを格護するというのは、正しく鎌倉時代の言葉の遺物である。島津氏に征服された後、琉球人が日本本土へいくことをノボル(上国)といったのを当然な事とばかり思っていたが、鎌倉時代以前にもやはりそういっていたという事がわかって驚かずにはおれなかった。鎌倉時代が終りを告げると日本本土では吉野時代の戦乱が始まり、琉球でも三山の分争が起ったので、日本本土と琉球との交通は一、二百年も断絶して、この辺の消息は全く暗くなっていたが、この土塊のお蔭でこれが漸く明るくなったような気がする。これはた琉球経済史の好資料ではあるまいか。(昭和十七年三月発行『書斎』掲載拙稿「母の言葉と父の言葉」参照。)

「かはら」が「がはら」で、曲玉のことであることには、間もなく気が付いたが、久しく訂正する機会がなかった。これに就いては、今度「あまみや考」中にくわしく述べておいたから参照して頂きたい。それは「がはら」即ち曲玉を求めて、大和旅に上ったいきさつを歌ったのが、山原の神詛に数首出ているのと照し合わせて、いわゆる「やまと旅」の目的の、ただに物質的要求のみならず、宗教的要求あるいは余り物質的でない要求の顕著であったことを述べ、しかも最初の一動機の呪法的あるいは宗教的威力をもつと考えられた「がはら」を得ることによって、「がはらいのち」を得るにあったことを推測したものである。序に、例の神歌と発掘された古瓦との間には、何の関係もないことになったが、でもこれによって古く日本の瓦を輸入した事実は否定出来ないということを、一言断っておく。

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