(八) 神秘の語義
自説に入るに先立つて、神秘といふ語の意義を定めて置かなければならない。木村鷹太郎氏の如きは、『最も明瞭なる思想は、最も高等なる頭腦にして、始めて之に達し得るなり』と、頭からかう云ふ語の存在をも否定しようとするし、高安月郊氏も亦、『メーテルリンクの劇詩論を讀む』に於て、『感情は既に神秘の殿に跪くも、意識は更にその帳に入るの時あるべし』と云つて、寧ろ白耳義(ベルギー)の劇詩家が數歩を智識的方面に轉ずることを望んで居るらしい。この二友の見解は、その思想の傾向の然らしむるところとして、僕はまた僕の立ち塲から云ふ。英語のミステリなる言葉は、希臘語のミオー(Μυω)、目を冥(おほ)ふといふことから出て居るので、希臘の古代に神秘、乃ちミステーリオン(Μυστηριον)と云へば、宗教の儀式で――たとへば、エレウシスに祭つてあつた※物の母神、デーメーテールの祭りの樣なもので、その知り難い秘密を教へて貰らうことを意味して居た。それから、段々、奧義のあるものは何でもこの語を以つて呼ぶことになつたので、エメルソンの説の通り、廣い意味から云ふと、冥想を生命とする詩人、哲學者、宗教家などはすべて神秘家であるのだ。然し、今までに論じて來た人物などは、特に理知を超絶して、一種不可思議な、人間の言語を以つて説き難い情趣に觸れたり、また觸れようとしたところがあるので、普通の思索家から別けて見なければならない理由がある。『代表的人物』中のスヰデンボルグ論には、ソークラテース、プロチノス、ベーメ、バンヤン、フオツクス、パスカルなども、一たび神秘的恍惚の境を經たことがあつて、その一轉機には必らず病的現象が伴ふものだと云つてあるが、そういふ病態は――たとへ、學説の上だけから云つても――僕等の恐れるところではない。生命さへ握つて居れば、強盜に會つても恐れるに及ばないではないか。近世になつてからは、神秘といふ語は、どうせ智識の平凡化に反對して居る意味だから、抱月氏の所謂『智識を絶し、若しくは智識を消したる形』に、生命さへ這入つて居れば善いのである。乃ち、知力の集中情化である。
メーテルリンクは『正義の不可思議』( これは未だ僕は見ないので上田敏氏の譯による。)といふ論文に於ても、本能の威力と心中の正義衝動とを同一であるか、どうか、疑問にしてある。然し、神秘なるものがいづれ分つて來るものだとすれば、別にかれこれ云ふべき程のものではなからう。自然主義が眞直ぐに進んで行く間に、いつも神秘なるものが感じられるのであつて、これは何も不可解を一時面白がるのではない、自然と本能との奧には、とこしなへに知力の及ばない神秘性が潜んで居るのである。僕が先きにメーテルリンクとは思想上の兄弟分だと云つたが、それは僕等の出て來たところが一つだといふ意で、飽くまでも同じ事を云つて居るといふわけではない。それは、これから説くことで分るだらうと思ふ。
僕がこれから云はうとするのも、議論としては、どうしても知力の働きを借らなければならないが、科學と知力とばかりを手頼りとして居る人々の『明瞭』だと思ふ範圍では、まだ/\滿足が出來ないのである。これは、何も思想力が弱いとか、頭腦が不良だとか云はれるべきではない、寧ろ渠等よりも奮發して、自我の覺醒に入らうとするのである。