Chapter 1 of 10

一 二葉亭との初対面

私が初めて二葉亭と面会したのは明治二十二年の秋の末であった。この憶出を語る前に順序として私自身の事を少しくいわねばならない。

これより先き二葉亭の噂は巌本撫象から度々聞いていた。巌本は頻りに二葉亭の人物を讃歎して、「二葉亭は哲学者である、シカモ輪廓の大なる人物である、」と激称していた。『浮雲』は私の当時の愛読書の一つで、『あいびき』や『めぐりあい』をも感嘆して何度も反覆していたから是非一度は面会したいと思いながらも機会を得なかった。

その頃私が往来していた文壇の人はいくばくもなかった。紅葉美妙以下硯友社諸氏の文品才藻には深く推服していたが、元来私の志していたのは経済であって、文学の如きは閑余の遊戯としか思っていなかった。平たくいうと、当時は硯友社中は勿論、文学革新を呼号した『小説神髄』の著者といえども今日のように芸術を深く考えていなかった。ましてや私の如きただの応援隊、文壇のドウスル連というようなものは最高文学に対する理解があるはずがなかった。面白ずくに三馬や京伝や其磧や西鶴を偉人のように持上げても、内心ではこの輩が堂々たる国学または儒林の先賢と肩を列べる資格があるとは少しも思っていなかった。渠らの人物がどうのこうのというよりはドダイ小説や戯曲を尊重する気がしなかった。坪内逍遥や高田半峰の文学論を読んでも、議論としては感服するが小説その物を重く見る気にはなれなかった。

私が初めて甚深の感動を与えられ、小説に対して敬虔な信念を持つようになったのはドストエフスキーの『罪と罰』であった。この『罪と罰』を読んだのは明治二十二年の夏、富士の裾野の或る旅宿に逗留していた時、行李に携えたこの一冊を再三再四反覆して初めて露西亜小説の偉大なるを驚嘆した。

私は詞藻の才が乏しかったから、初めから文人になれようともまたなろうとも思わなかった。が、小説雑著は児供の時から好きでかなり広く渉猟していた。その頃は普通の貸本屋本は大抵読尽して聖堂図書館の八文字屋本を専ら漁っていた。西洋の物も少しは読んでいた。それ故、文章を作らしたらカラ駄目で、とても硯友社の読者の靴の紐を結ぶにも足りなかったが、其磧以後の小説を一と通り漁り尽した私は硯友社諸君の器用な文才には敬服しても造詣の底は見え透いた気がして円朝の人情噺以上に動かされなかった。古人の作や一知半解ながらも多少窺った外国小説(その頃ゾラやドウデも既に読んでいた)でも全幅を傾倒するほどの感に打たれるものには余り多く出会わなかったから、私の文学に対するその頃の直踏は余り高くはなかった。

然るに『罪と罰』を読んだ時、あたかも曠野に落雷に会うて眼眩めき耳聾いたる如き、今までにかつて覚えない甚深の感動を与えられた。こういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。その時の私の心持は『罪と罰』を措いて直ちにドストエフスキーの偉大なる霊と相抱擁するような感に充たされた。

それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった。それまでは文学を軽視し、内心「時間潰し」に過ぎない遊戯と思いながら面白半分の応援隊となっていたが、それ以来かくの如き態度は厳粛な文学に対する冒涜であると思い、同時に私のような貧しい思想と稀薄な信念のものが遊戯的に文学を語るを空恐ろしく思った。

同時に私は二葉亭を憶出した。巌本撫象が二葉亭は哲学者であるといったのを奇異な感じを以て聞いていたが、ドストエフスキーの如き偉大な作家を産んだ露国の文学に造詣する二葉亭は如何なる人であろうと揣摩せずにはいられなかった。

これより先き、私はステップニャツクの『アンダーグラウンド・ラシヤ』を読んで露国の民族性及び思想に興味を持ち、この富士の裾野に旅した時も行李の中へ携えて来たが、『罪与罰』に感激すると同時にステップニャツクを想い起し、かつ二葉亭をも憶い浮べた。

今考えると、ステップニャツクと二葉亭とを結び付けるというは奇妙であるが、その時は同型でなくとも何処かに遠い親類ぐらいの共通点があるように思っていた。ステップニャツクの肖像や伝記はその時分まだ知らなかったが、精悍剛愎の気象が満身に張切ってる人物らしく推断して、二葉亭をもまた巌本からしばしば「哲学者である」と聞いていた故、哲学者風の重厚沈毅に加えて革命党風の精悍剛愎が眉宇に溢れている状貌らしく考えていた。左に右く多くの二葉亭を知る人が会わない先きに風采閑雅な才子風の小説家型であると想像していたと反して、私は初めから爾うは思っていなかった。

秋の末に帰京すると、留守中の来訪者の名刺の中に意外にも長谷川辰之助の名を発見してあたかも酸を懐うて梅実を見る如くに歓喜し、その翌々日の夕方初めて二葉亭を猿楽町に訪問した。

丁度日が暮れて間もなくであった。座敷の縁側を通り過ぎて陰気な重苦しい土蔵の中に案内されると、あたかも方頷無髯の巨漢が高い卓子の上から薄暗いランプを移して、今まで腰を掛けていたらしい黒塗の箱の上の蒲団を跳退けて代りに置く処だった。

一応初対面の挨拶を済まして部屋の四周を見廻した。薄暗いランプの蔭に隠れて判然解らなかったが、ランプを置いた小汚ない本箱の外には装飾らしい装飾は一つもなく、粗末な卓子に附属する椅子さえなくして、本箱らしい黒塗の剥げた頃合の高さの箱が腰掛ともなりランプ台ともなるらしかった。美妙斎や紅葉の書斎のゴタクサ書籍を積重ねた中に変梃な画や翫弄物を列べたと反して、余りに簡単過ぎていた。

風采は私の想像と余りに違わなかった。沈毅な容貌に釣合う錆のある声で、極めて重々しく一語々々を腹の底から搾り出すように話した。口の先きで喋べる我々はその底力のある音声を聞くと、自分の饒舌が如何にも薄ッぺらで目方がないのを恥かしく思った。

何を咄したか忘れてしまったが、今でも頭脳に固く印しているのは、その時卓子の上に読半しの書籍が開いたまま置かれてあったのを何であると訊くと、二葉亭は極めて面羞げな顔をして、「誠にお恥かしい事で、今時分漸と『種原論』を読んでるような始末で、あなた方英書をお読みになる方はこういう名著を早くから御覧になる事が出来るが、露西亜には文学書の外何にもないので三歳子も知ってる名著に今時分漸とこさと噛り付いているような次第で、」とさも恥入るという容子だった。それから三十年経った今でさえ尚だダアウィンを覗かない私は今でも憶出すと面目ないが、なお更その時は消え入りたいような気持がした。

その時私より三、四十分も遅れて大学の古典漢文科の出身だというYが来問した。この人の口から日本将来の文章という問題が提起された。その時の二葉亭の答が、今では発揮と覚えていないが、何でもこういう意味であった。「一体文章の目的は何である乎。真理を発揮するのが文章の目的乎、人生を説明するのが文章の目的乎、この問題が決しない中は将来の文章を論ずる事は出来ない。この問題が定まれば乃ちその目的を達するに最も近い最も適する文章が自ずから将来の文体となるのである――」という趣旨であった。

この答には私は意外の感に打たれた。当時私はスペンサーの文体論を初め二、三の著名な文章説を読んでいたが、こういう意味の文章論をいわゆる小説家の口から聴こうとは夢にも思っていなかった。問題の提出者たる古典科出身のYは不可解な顔をして何ともいわなかった。

ドストエフスキーを読んで落雷に出会ったような心地のした私は更に二葉亭に接して千丈の飛瀑に打たれたような感があった。それまで実は小説その他のいわゆる軟文学をただの一時の遊戯に過ぎないとばかり思っていたのだが、朧ろ気ながらも人生と交渉する厳粛な森厳な意味を文学に認めるようになったのはこの初対面に由て得た二葉亭の賜物であって、誰に会った時よりも二葉亭との初対面が最も深い印象を残した。

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