Chapter 1 of 1

Chapter 1

八※岳登山を試みたのは、昨年の八月末のことで、メンバーは僕んとこ夫妻、遠藤周作夫妻、遠藤君の教え子のグラマー嬢たちが数人、それに斎藤さんと言う人で、この斎藤さんは土地の人で、案内役をして呉れることになった。

初めは八※岳に登る予定じゃなかったのである。八※岳麓の白駒※池という池に行く予定であった。足弱の遠藤君が脚に自信がないからと言ってそれに決め、皆もそのつもりで渋温泉に行き、そこで一泊した。

その晩、グラマーたちがクーデターを起こし、八※岳連峰の一つテング岳登頂を主張したのである。

斎藤さんは初めから僕らをテング岳に連れて行きたかったのだから、もちろん大賛成で、つづいてグラマーたちの熱意に遠藤夫人が同調、次にうちの夫人が同調というわけで、残るのは男性二人になってしまった。

遠藤君はしきりに、

「イヤだなあ。おれ、テングなんかイヤだなあ。やはり予定どおり白駒※池にしようよ」

と哀れっぽい声を出していたが、僕は少し酔っぱらっていたので、

「いいじゃあないか。遠藤君。民主主義の世の中だから、多数決と行こうよ」

などと言ったものだから、それが鶴の一声で、いっぺんにテングということに決定してしまった。

遠藤君は絶望して、半病人みたいな顔になり、

「ひでえなあ。そりゃ約束が違うよ。ムチャだよ」

とぼやきながら、早々に自分の部屋に引き上げ、蒲団をかぶって寝てしまった。寝るには寝たが、ノミがいて、あまり眠れなかったそうである。

僕はぐっすりと眠れたが、これは酒のおかげで、翌朝は宿酔気味で頭がすこし痛かった。

外を見ると、天気はあまり良好じゃあない。どんより曇っていて、今にも雨が落ちて来そうだ。

朝食時に、斎藤さんは不機嫌に、窓の方ばかりを眺めていた。折角皆をここまで連れて来たのに、天気が悪いから機嫌を損じたのである。でも天気が悪いのは、斎藤さんの責任じゃない。

これに反して、にこにこ顔が遠藤君で、

「斎藤さん。この天気じゃダメですよ。次のバスで帰りましょうよ」

などと、しきりに言っているうちに、次第に天気が持ち直してきた。だんだん遠藤君の声が小さくなった。

午前八時。とにかく登ってみようということになり、宿屋に弁当をつくって貰った。その期に及んでも遠藤君は、自分だけ宿屋で待ってたいとか、お腹の具合が悪いとか、未練がましいことを言っていたが、奥さんに叱られて、やっと先頭に立って登り始めた。遠藤君を先頭に立てたのは、足弱だからであり、また油断をすると楢山節考の又やんのように、逃げ帰るおそれがあったからだ。僕はしんがりを勤めた。

実を言うと、私もあんまり登山は好きでない。くたびれるからだ。

初めの一時間位は、坂は坂だが、一応道らしいのがついており、それほどつらくなかった。皆して遠藤君をいたわりいたわり、十分ごと位に休憩してゆっくり登った。

たくさん木が生えているので、視野が全然開けない。空を仰いでも、見えるのは梢だけである。だからただ歩くだけで眺望をたのしむことができない。

それから道の様相が急変して、沢みたいな感じになってきた。

大石や中石がごろごろ重なり合い、雨期にはきっと、ここを水が流れるのだろう。その石から石へ飛び移りながら、登って行くことになった。

濡れている石なんか、つるつるすべるので用心しなけりゃならぬ。

前半の坂道で、八※岳組しやすしと考えた一行も、ここらあたりから少々音を上げ始めた。

順列もめちゃくちゃになって、遠藤君もトップからずり落ちて、しんがりになってしまった。しかし、もうここまで来れば、しんがりになったって、逃げ帰られるおそれはない。逃げ帰ろうとしても彼は方向感覚がゼロだから、道に迷ってしまうにきまっている。彼もそれを知っているから、逃亡を試みることなく、ふうふうとあえぎながら健気に一行について来た。

渋を出発してから二時間、黒百合平という草原に出た。やっと木がなくなって空が見えた。

黒百合ヒュッテに入り、汗を拭いたり、水を飲んだりした。

ところが天候が実に思わしくないのである。風がごうごう吹くし、雲がチ切れて飛んで来るし、時には小雨がぱらついて来たりする。

ヒュッテの前に、かなり険しい小さな岩山がある。遠藤君はそれをテング岳とかん違いして、もう直ぐだと大いに張り切ったが、ヒュッテの番人から、あれはスリバチ山だと教えられ、がっかりしていた。

テングの方角から、ぼちぼちと登山客が降りて来る。斎藤さんがその一人一人をつかまえて、山頂の様子を聞いていたが、どうもこれから登るのはムリらしい。

ついに登頂は断念ということになった。

「残念だ。残念だ」

と、大いに残念がったのが斎藤さんで、喜んだのは、遠藤君だけだった。

人間は喜ぶと身体にも張りが出て来ると見て、にわかに、元気になって、カメラ片手にスリバチ山に這い登り、頂上の岩場で、グラマーたちに、盛んに自分の写真を撮らせていた。(後日その写真を来る人ごとに見せびらかして、テング登頂を吹聴したのである)

スリバチ山なんぞに登って大喜びするのは男が廃れるから、僕は黒百合平で高山植物を鑑賞したり、ヒュッテで弁当を食べたりした。朝七時にメシを食って、十時半だというのに二食分の弁当をぺろりと平げた。

山登りというものは、腹がへるものである。

やがて遠藤君たちは降りて来た。

「僕の方がスリバチ山の分だけ、梅崎さんより高く登った」

と、遠藤君はしきりにいばったが、スリバチ山なんか山の部類には入らない。這い登ったって、頂上まで二分ぐらいしかかからないのである。

十二時、降りの道についた。

登るのは約二時間かかったが、降りるのは早い。

一時間足らずで渋温泉についた。

そして、その日の夕方、バスで蓼科についた。

それから一週間ばかり、遠藤君はビッコを引いて歩いていたが、やはりあんな蒲柳の質の人は、スリバチ山程度でもムリだったのであろう。気の毒なことをした。

●図書カード

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