Chapter 1 of 4

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暗号数字

海野十三

帆村探偵現る

ちかごろ例の青年探偵帆村荘六の活躍をあまり耳にしないので、先生一体どうしたのかと不審に思っていたところ、某方面からの依頼で、面倒な事件に忙しい身の上だったと知れた。最近にいたって、彼はずっと自分の事務所にいるようである。某方面の仕事も一段落ついたので、それで休養かたがた当分某方面の仕事を休ませてもらうことに話がついたといっていた。

僕は、実はきのう、久しぶりで或るところで帆村荘六に会った。

彼は例の長身を地味な背広に包んで、なんだか急に年齢がふけたように見えた。顔色もたいへん黒く焦げて、例の胃弱らしい青さがどこかへ行ってしまった。色眼鏡を捨てて縁の太い眼鏡にかえ、どこから見てもじじむさくなった。そのことを僕が揶揄うと、彼は例の大きな口をぎゅっと曲げてにやりと笑い、

「ふふふふ、ちかごろはこれでなくちゃいけないんだ。街へ出ても田舎へ行っても、どこにでも行きあうようなオッサンに見えなくちゃ、御用がつとまらないんだよ。そういう連中の中に交って、こっちの身分をさとられずに眼を光らせていなくちゃならないんだからね。昔のように自分の趣味から割りだしたおしゃれの服装をしていたんじゃ、魚がみな逃げてしまう」

と、俗っぽい服装の弁を一くさりやった。

そこで僕は、彼がちかごろ取扱った探偵事件のなかで、特に面白いやつを話して聞かせろとねだったのであるが、帆村はあっさり僕の要求を一蹴した。

「諜報事件に面白いのがあるがね、しかし僕がどんな風にしてそれを曝いたかなんてことを公表しようものなら、これから捕えようとしている大切な魚がみな逃げてしまうよ」

と、彼は同じことをくりかえし云った。

そのような事件におどる魚は、そんなにはしっこいものであるのか。そういう問にたいして帆村荘六は、

「そういう事件に登場する相手は非常に智的な人物ばかりなんだ。だから若しちょっとこっちが油断をしていれば、たちまち逆に利用されてしまう。全く油断も隙もならないとはこのことだ。そして相手はみんな生命がけなんだから、あぶないったらないよ。しかも相手の人数は多いし、組織はすばらしくりっぱで、あらゆる力を持っている。そういう相手に対し、われわれ少人数でぶつかって行くんだから、本当に骨が折れる」

「なんかその辺で、差支えない話でも出てきそうなものじゃないか」

と僕がすかさず水を向けると、彼は新しい莨に火をつけながら、

「うん、一つだけ話をきかせようかな。これは八、九年前に僕自身が自演した失敗談だ。例の手剛い相手どもが如何に物を考えてやっているかという一つの材料になると思うよ。しかも僕としては、いまだかつて、これほど頭をひねった事件はなかったのだ。脳細胞がばらばらに分解しやしないかと思ったほど、いやもう頭をつかった。――しかも後でふりかえってみると、実に腹が立って腹が立ってたまらないくらい、僕ひとりで独楽のようにくるくる廻っていたという莫迦莫迦しい精力浪費事件なのさ」

帆村はそういって、心外でたまらぬという風に大きな脣をぐっと曲げた。

ぜひ聞かせてもらいたいというと、彼は、

「うん、話をするが、この事件は結局いくら莫迦莫迦しくったって、さっきもいうとおり僕が取扱った事件の中で一番骨身をけずって苦しんだ事件なんだから、そこに深甚なる同情を持って君もゆっくり考えながら終りまで黙って聞いてくれなくちゃ困るよ」

と、いつになく彼は僕に聞き手としての熱意を強いるのであった。

もちろん僕は大いに謹聴すると誓ったが、これから思うと、その事件において帆村は、よほど、にがにがしい苦杯を嘗めたものらしい。

以下、帆村の物語となる。

秘密の人

恐らく、あの頃から後の数年が、一番多種多様の諜報機関が、国内で活動した時期だと思う。国際関係のものは勿論のこと、営利専門のものもあるし、情報通信のもの、経済関係のものなどと、ずいぶんいろいろの諜者が活躍をしていた。時には同士討もあって面白いこともあった。

およそ相手方の諜者にやらせてならぬことは、こっちの秘密を知られることと、これを相手方の本部へ通達されることの二つである。なかでも後者に属する通信であるが、これに対しては、水も洩らさぬ警戒をしなければならなかった。

あらゆる秘密通信機関を探しだして、これを諜報者の手から取上げることも、焦眉の急を要することだった。幸いわが国の通信事業は官庁の独占または監督下にあったため、比較的取締に都合がよかったし、また秘密通信機がコツコツとモールス符号を送りだしてもすぐそれを探しあてるほどの監督技術をもっていたから、これも都合がよかった。その当時、そういう秘密通信機関で摘発され、或いは発見されたものの数はすこぶる多い。

帆村荘六が事務所に備えつけていた最新式の短波通信機も当局の臨検にあい、もちろんのこと押収の議題にのぼったけれど、当時彼は既にもう某方面の仕事を命ぜられていたので、その方に必要なる道具であるとして幸いにも押収を免れた。そのとき帆村は、この短波通信機が此処へ来てそれほど貴重なものとなったとは認識していなかったけれど、後から聞いた話によると、民間機でその当時押収を喰わなかったものとては、帆村機の外に殆んどなかったとのことである。当時帆村はそういう事態を、それほどまで深刻に認識していなかったのだ。もちろん誰かからそういう説明を聞けばよく分って警戒もしたであろうが、事実説明はなかったとのことである。

さて或る日、帆村の事務所へ電話がかかってきた。大辻という助手が出て、相手の名前を訊ねたところ、貴方は帆村氏かという。大辻助手が、私は主人の帆村ではないと応えると、相手は帆村氏を電話口へ出してくれといって、なかなか身柄を明かさない。そこで大辻はその由を帆村に伝えたが、まあこんな風な電話のかかって来方は事件依頼主が身柄を秘したいときによくやる手で、それほど大したことではなかった。

入れかわって帆村が電話口に出てみると、相手はまた入念に帆村であることを確かめた上で、

「――実は、こっちは内務省なんですが、秘密に貴下の御力を借りたいのです」

と、始めて身柄を明かした。

そういう官庁とは、はじめての交渉であったけれど、官庁のことゆえ、帆村は助力をしてもいいが、と一応承諾の用意があることを明らかにし、その依頼事件の内容について訊ねた。

すると相手は、

「いや、もちろん電話ではお話できませんから、お会いしたい」

という。

「ではいつそちらへ伺いましょうか」

と帆村が訊ねると、

「なるべく早いことを希望します。しかしこっちへお出でになると、いろいろな人物も出入していることだしするから、目に立っていけません。だから外でお目に懸りましょう。それには、こうしてください」

といって、木村氏と名乗るその役人は、帆村に対し、今から三十分後、日比谷公園内のどこそこに立っていてくれ、すると自分はこれこれの番号のついた自動車に乗ってそこを通るから、そこで車に一緒にのってくれるように、あとはこっちは委せてくれということだった。帆村は承知の旨を応えて、電話を切った。

大辻助手には、すぐに出懸けるからと前提して、電話の内容を手短かに話をし、帆村がどこに連れてゆかれるかを確かめるため、適当に車をもって公園の中に隠れており、うまく尾行をするように、そして送りこまれたところが分れば、すぐに事務所に戻っているように、またそれから一時間経って、帆村からなんの電話も懸ってこないときは、すぐさま飛びこんでくるように申し渡して、事務所を出たのであった。というのも、官庁は別に怪しくなくても、いつ悪者どもが官庁の御用らしく見せかけて、こっちに油断をさせないでもないからのことだった。

帆村は十分の仕度をして、木村氏にいわれたとおり、三十分のちには日比谷公園の所定の場所に立っていた。

それから五分おくれて、形は大きいセダンではあるが、型は至極古めかしい自動車がとおりかかった。なるほど一目でそれと知れる官庁自動車だった。ラジエーターの上には官庁のマークの入った小旗がたてられていた。

「ああこれだな」

と思った折しも、車が帆村の前にぴたりと停り、中にいた四十がらみの鼻下に髭のある紳士が帆村の方へ顔をちかづけて、

「木村です。さあどうぞ」

と、柔味のある声音で呼びかけた。

帆村はそのまま車内の人となった。

そして彼は、木村氏の案内によって築地の某料亭の門をくぐったのであった。時刻は丁度午後三時十七分であった。

暗号の鍵

「やあ、どうもたいへん失礼なところへ御案内いたしまして――。でもこうでもしないと、私どもの官庁の重大事件を貴下にお願いしたことがどこへもすぐ知れ亙ってしまいますので」

と、情報部事務官木村清次郎氏は、初対面の挨拶のあとで、すぐと用談にとりかかった。

「――これは、政府の一大事に関する緊急な調査事件なんですが、もちろん絶対秘密を守っていただかねばなりません。御存知かもしれませんが、実は今有力なる反政府団体があって、大活躍を始めています。この秘密団体の本部は上海あたりにあると見え、その本部から毎日のごとく情報や指令が来ますが、その通信は秘密方式の無線電信であって、もちろん暗号を使っています。ですから普通の、受信機で受けようとしても、秘密方式だから、普通の受信機では入らない。その上、符号は暗号だから、たとえコピーが見つかってもその内容が解けない。こういう風に二重の秘密防禦を試みています。お解りですかな」

帆村は黙って肯いた。そんなことは先刻承知している。

木村事務官は語をついで、

「これは秘密ですから、どうかお間違いのないように。ところで問題は、その暗号解読の鍵なんです。それがどうも分らない」首をひねり、「送ってくる暗号文は六桁の数字式です。つまり、123456 といったような六桁の数字が、AとかBとかいう文字を示しているのです。ところがその六桁の数字は、そのままではいくら解いてみても分らない。つまりその暗号法では鍵となる別の六桁の数字があって、それを加えあわせてある。たとえばその鍵の数字が 330022 だったとすると、暗号文のどの数字にもこれが加えてある。だからAが 123456 であらわされるにしても、123456 として送っては来ないで、鍵の数字 330022 を加えた結果、すなわち 453478 として送ってくる。だからこの 453478 のままでは、途中で誰かが読んでもまるで本当の暗号 123456 を想起することができない。このように暗号には、鍵の数字というやつが大切なのですが――いや、お釈迦さまに説法のようで恐縮ですが――これがまた厄介なことに、一ヶ月ごとにひょいひょいと変る。今月 330022 だったとすると、来月の一日からは 787878 という風にがらりと変ってしまう。こうなると解読係はまったく泣かされてしまいます」

といって木村氏は、茶をのんだ。

料亭の人は二人の前に茶菓をおいたまま行ってしまった。こっちで呼ぶまで決して来ない、いいつけであった。

「解読係も腕達者を揃えてありますが、六桁の暗号数字から、鍵の数字を見つけるのになかなか骨が折れます。苦心の末やっと見つけたと思うと、もう月末になっていて、すぐ次の月が来る。そうなると、また新しい鍵の数字が入ってくるから、さあ一日以後は、向うの暗号が全く解けない。改めて鍵の数字の勉強をやりなおすというわけです。私としても、解読係員の苦労は常に心臓の上の重荷です」

と、木村事務官は深い溜息をついた。

帆村は、ただ黙々として肯く。木村氏の暗号に対する話の内容は、彼の持っている知識と完全に一致していたのである。

「そこで問題の鍵の数字ですが、もし月が変る前に、うまく発見ができるものなら、われわれにとってこれくらい有難いことはないわけです」

「なるほど」

「ねえ、そうでしょう。この暗号の鍵数字は、いつどんな風にして送ってくるのであろうかということにつきまして、もう長い間調べていましたが、極く最近になって、それがやっと分りかけたのです」

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