第四章
佐野の選挙本部にあてられた村山半の門先には「田中正造君万歳」と墨色をにじませた大旗が、竹竿を撓ませつつ鳴りはためいていた。正造はその下をくぐって、いずれも草鞋ばきに仕込杖という出立ちの近郷の有志たちと挨拶を交しつつ庭石づたいに奥座敷へ通った。その混雑の通りすがりに、井戸端の板葺屋根の下に洗い米の笊がいくつも積重ねてあるのが、目に痛いほど白かった。来る途中被害地で、折れ伏した枯稲が刈りとられもせず薄氷にとざされていた光景がよみがえって、ひそかに苛責にちかいものを覚えた。
これよりさき正造がまだ滞京して各所の政談演説会に臨んでいるとき、早くも栃木県第三区青年団体の名で「我三区衆議院議員候補者として民軍の驍将たる田中正造君を撰定す」という広告文が新聞に載りだした。正月早々、佐野町春日岡の総宗寺本堂に安蘇郡の有志が集合して衆議一決した結果である。当日、近郷の各町村から駆せ参じたのは、村山半、津久居彦七、蓼沼丈吉、湧井藤七、関口忠太郎、川俣久平、寺内清次、島田雄三郎、新井保太郎、藤沼友次郎、板橋六郎、川島治平、青木清蔵、吉岡耕作、天海浜吉、内田卯三郎、栗原喜蔵、岩下喜右衛門等の百余名いずれも正造の民権運動時代からの同志というべき人々で、嘗て彼の組織した中節社や改進政学党の社中だったものも多い。
矢の催促で帰郷をうながされていた正造がようやく姿を現したのである。奥座敷に集っていた十数名はざわめき立ってむかえた。床の間よりに席をあけると、彼等は正造に挨拶の暇もあたえずに郷党の情勢をきかせた。探りえた情報によると木村半兵衛の立候補はほぼ確実だというのである。
「新聞のあれは虚報ですか。民党同志の逐鹿をさけるために、改進党と自由党が前議員を再選するように申し合せをしたという……」
この家の主人村山半が中央における党の動静を詰る調子で質問した。
「うん旧蝋から島田君などがしきりにそれを奔走しているが、まだ折衝中だ。わしも極力島田君を鞭撻してきた。民党同志がいたずらに牆にせめいでいては、いつまでたっても藩閥を倒すことはできない。困るのは人民ばかりというわけで……」
沈痛な声を途中できって正造は顔を曇らせた。
「いやそれは木に縁りて魚を求むるたぐいだ」県会議員の川島治平が太い眉をうごかしていった。「とても党の統制など行われやしない。げんに一区など星亨が立って横堀三子と同志打ちをやるというし、すでにどの区でも混乱が予想されている」
「木村は自由党を標榜するということだが、大義名分をわきまえているやつなら、この三区から立てるわけのものじゃない」天海浜吉のこえだった。
「そうとも仮面自由党さ。こっちで吏党とみなして撲滅するだけのことだ」
正造を座に加えて人々の談論はいよいよ激色をおびてきた。
「事実、やつは純然たる吏党だよ」と隅の方から膝を乗りだす者がいた。「木村も以前どれほどの資産家だったか知らんが、今日では整理の後で知れたものだ。ところが例の山林払下げの安生順四郎から運動費が廻る。それで一昨年の失敗にも懲りずにまた立つのだというから……」
「いや、それのみでない」と村山が引きとった。「陸奥のさしがねで、妨害の運動費として古河からも出る。田中さんに暮の議会で鉱毒問題を手ひどく追求されたから、また議会でそれを繰り返されては困る。どうでも田中を落選させろと相談がまとまっているらしい。運動長は新井章吾、榊原経武、参謀長が佐野常民あたりだということだ。現に宇都宮警察では前回の選挙には誰に投票したかと戸別にきき糺させているというから、やがてわれわれの区にも魔手がのびてくるにちがいない」
座敷うちが急に暗くなって、人々の目の光が異様に険しくなった。
「なにしろ知事が公然と、政府の意を体してなるべく手心しろ、もしその辺の動きができなかった場合は免職だぞ、そういって訓辞したそうだ。われわれもよほど褌を締めてかからねばならん」
川島がそういいつつ障子を押しあけ「やア、霰が降りだしたぞ」と呟きをのこして便所へ立った。俄かにたかまった霰の音に、一座は心のたかぶりをおさえかねる顔付で霰にたたかれる庭先に目を注いだ。正造はまた眉根をつりあげて簷先の黒雲に眼を放っていたが、「なんの必要で警察がそんな調査をするのか。そんな怪しからんことを横堀君はなぜ黙っているのだ」
正造の憤慨は例によって手桶の水をぶちまけるような勢だった。
そのとき庭からどやどやと四五名の若い者が勢込んで入ってきた。筒袖に袴のもも立ちとったもの、股引に草鞋がけのもの、いずれも長い刀を腰にぶちこみ、赤い顔を霰にうたせて昂奮の目差しである。先頭の男が縁ちかく寄って直立不動の姿勢をとり、
「会場にもう聴衆がどんどん詰めかけています。開会にするから弁士の方に来ていただきたいということです」
「まだ開会の時間には早いだろう」村山がきき返すと、
「でも聴衆が早くしろと騒いでいます」
「よろしい、早くてもでかけよう」と正造がまっさきに袴の裾をふんで立ったが、立ち去ろうとする若者たちのうしろから、「君等は、なぜそんな物騒な支度をしているのか」
「はア……」
傍から村山がとりなすように「いつ敵が妨害にくるかもしれんというので、若いものが用心のために持ちたがるから黙認してるんですよ」
「うん」とうなずいて正造は庭の方へ大声で「防衛のためなら致しかたないが、万が一の場合にも必ず兇器の使用は避けなければならん。選挙の運動にそういう手段が入るのは憲政の精神に反することだから」
正造たちが門前に立ちでると、先刻の若者たちが軒先にはためく大旗をとって担いだ。霰はやんだが暗い空に黒々と雲が動いて、吹きつける風が膚を刺すように痛い。それぞれに顔をしかめた人々の姿はなにか悲壮な闘争を行く手に暗示されつつ敢えて出発してゆく一群のように見えた。総宗寺の山門をくぐると、本堂にあふれて高縁を埋めていた人々がまず拍手してむかえた。ただちに開会となり、六七名の有志が起って時事を論じ政治を談じて気勢をあげた。最後に正造が起ったときには、すでに夕闇が迫り、寒気も一段ときびしくなっていたが、聴衆はかたずを呑んで正造の語りだす声にきき入った。
「諸君、私はさきほども栃鎮々々とよぶ声をききました。これはこの正造に対する親しみの愛称だと心得ております。私もまたこの本堂に起って話をするのを決して他人のところで話をするようには思っておりません。諸君の家へいって、諸君の家の座敷か囲炉裏端で話すような気がするのでございます。私とこの総宗寺とは実に因縁が深い。諸君のうちには嘗てこの場所で私と語り合った方が相当おありのはずです。又そうでなくても諸君の祖父とか、父とか、或は兄とかいう方々とここで顔を合せているにちがいない。私は今から十数年前に、西郷南洲が兵に斃れること、また大久保甲東が暴殺にあうことを予言したところが、それが間もなく、いずれも的中した。そこでその的中にうぬぼれた結果、政治の改革に一身を犠牲にしようと決心したのでした。しかしこの正造は予言者でもなんでもない。天から才能を与えられた男でもない。学問、あるいは徳行のある者でもない。ただ真心ひとつを以て世の成行を見たからして偶然に的中した。それ故にうぬぼれて政治改革に志したというものの分を忘れはしない。自分の力の及ぶことと及ばないこととは心得ている。ですから、この前の第一回総選挙のときも、私はもう私などのでる幕でないと思った。私はなが年、自由と民権のために東奔西走してきたが、いよいよ私たち人民の希望した国会が開かれるとなれば、それで私の務は終ったのだという気持でした。もうこんな無学無能の田舎おやじに用はない。議会は新しい識見をもった若い人々の運用に俟たねばならない。それで私はわが栃木県第三区からは島田三郎君のような人物に出て貰いたい、そう思って意中にあの人を描いたくらいです。島田という人は政治上の働にすこしも暗い影がない、ちゃんと胸に道念があって、それによって身を処している人だからでございます」
正造を推すために熱弁をふるった人々はもとより、運動の関係者はいずれも、正造が変なことをいいだして、火に水を差す結果になりはせぬかと怪しんだ。だが、演壇の声は滔々と流れた。
「ところが残念なことに、島田君は縁故のふかい神奈川県第一区から立候補することになった。それで私は次に意中に描いていた野村本之助君に交渉した。この人については御存じの方も多いでしょう。やはり島田君と同じく、嚶鳴社といって沼間守一という人の社中の一人、明治十五年に私がこの人ならと島田君と同じく惚れこんで、栃木新聞の社長兼主筆として無理やりにきてもらった人です。その時が僅か二十三の弱冠でしたが、まことに謹直でゆかしいところのある人柄でした。当時野村君は一年ばかり私と辛酸をともにされたのですが、新聞社でも私の前では皆があぐらをかいて話をしていたものが、野村君が出社するとキチンと襟を正すという工合で、野村君と私とではこうも品位の高低があるのかと深く感心したものです」
聴衆のうちからクスクスと失笑の声がもれた。正造はしかしいよいよ本題に入ったという気勢で、
「野村君はそういう人となりだから、これまた固辞して受けず。そのうちに期日も迫って結局私が立つほかはなくなった次第でした。ところが今度の選挙に於ては、私の心境はまったくこの時とはちがっております。当時はひたすら憲政擁護のためという建前から新しい識見のある有能な士にでてもらわねばならぬと思ったのでした。その憲政擁護をおもう念に変りはないが、今回はまたここに差し迫った問題ができましたために、ぜひ私自身が議会に出て輿論に訴えねばならぬ必要が生じたのであります。それはなにか、諸君も御承知の、この渡良瀬川沿岸の千二百町歩の田畑が二年も三年も穀物が実のらず、鉱毒のために荒廃し、この土地の人民が流亡に立ち到ろうという実に容易ならぬ事態のためでございます。これは勿論渡良瀬川沿岸という一地方の問題ではない。国家的の問題でございます。それ故直接に害を蒙っているこの地方の人民は、自分たち兄弟親類縁者のためにもこれを世に訴えねばならぬし、国家のためにもこれが解決の義務があるのでござります。然るにこの地方の人々自身今日どんな考えでいるか」
正造は言葉を切って、暗い聴衆の頭上をにらみ渡し、それからまた縷々として鉱毒被害の恐るべき徴候と、人民に与えられている請願の権利について説きつづけた。
かくてこの演説会を第一声として連日連夜の活動が開始された。第三区三郡中の安蘇郡は従来から正造の根拠地であった。その地固めもひと通りの巡回でまずととのった。次いで選挙の天目山は梁田郡であるというので衆議の結果、正造は旬日ののち梁田の事務所へ移った。するとその日、近在の村長たちが集ってきて、次のようなことを正造に訴えた。
旧蝋おしつまってからのこと、梁田郡役所からの呼びだしで村長たちが揃って出向くと、郡長の樺山喜平次から懇談があるという。何事かと怪しみながら待っていると、やがて郡長が現れて尊大ぶった態度で、被害民と鉱山側との仲裁を取り計ってやるとの口上、しかも九カ条からなる契約書をつきつけ、指図されたものだと威圧的だった。
古河市兵衛は粉鉱の流出を防ぐために明治二十六年六月を期して粉鉱採聚器を設置する。二十四年から二十六年までは被害の多少にかかわらず徳義上示談金をだす。そのかわり契約人はその間に何等の苦情を唱えることはできない。――村長たちはそうした箇条書きを黙読したが、真意が那辺にあるものか解しかねた。そこで篤と相談の上で返事すると答えて引きとった。正月二日に各村の有志二百余名が会合して評議した。いろいろと異論がでて紛糾したが、結局強硬意見が座を制した。除害の方法をもっと明らかに取り定めたうえ、対等の契約を結ぶなら仲裁に応じよう。さもなくばたとえ郡長の仲裁といえども承服しかねる。そう返事することに一決した。
こもごも語る村長たちの訴えをきくうちに、正造の身内に憤りがみなぎってきた。――すでに古河がそんな魔手をのばしだしたか。鉱毒の声に恐れをなして、除害の方法も採ろうとしないばかりでなく、事実を覆って闇に葬ろうとの策動だ。しかもその手段といえば、私のために妄に官権を動かしているのである。知事や郡吏たちが、これまた古河の前に唯々諾々、古河の奴隷たるにあまんじている…。正造には村長たちの思案顔がもどかしくてならなかった。なぜこの侮辱的な文句に憤りを発しなかったのか、なぜ即座に決然と拒絶しなかったのか、それが歯がゆかった。いや不審だった。しかし正造は顔色をやわらげて、
「対等の契約ならと返事したのは大出来だった。こっちの田畑を不毛にしておいて、徳義上かねをやるとは何ごとだ。徳義とはそんな身勝手なものじゃない。……今後もまた手を換え品を換えて籠絡にかかってくるにちがいない。目前の小利に目がくらまぬように、そんな者がでないように、どこまでも諸君が一致して奸策陰謀の撃破に当らねばならん」
村長たちを或は教え訓し或は激励して、正造は選挙のことなど忘れたふうだった。村長たちの帰った後も、この話は選挙の間じゅう正造の胸のしこりとなった。しかしまた敵は木村半兵衛と思うよりも、わが敵は古河市兵衛と意識することで、かえって幾層倍かの勇気が湧いた。北空が晴れて、丸岩、熊鷹、氷室の連山が額に近々と迫って見える日など、あの山奥が敵の巣窟だと睨みつつ枯田の吹きさらしの中に佇むこともあった。
日を経るにつれて、日ごとに県下の混戦が報ぜられた。したがって県会議員たちもそれぞれ去就について苦境に墜らねばならなかった。どこの選挙事務所でも、県会議員の動静が知れわたるたびに論難が行われた。星派と目された持田若佐、塚田峰三郎が横堀を援けるべくその陣へ馳せたのは、私情をかえりみず大義に拠ったものであると讃えられた。広瀬孝作、川島長十郎、早川忠吾が木村の幕僚となるために県会議員を辞したのは、私のために公を棄てたものであると非難された。去年の十一月末、政府と議会との衝突の機がようやく切迫したときのこと「万一の場合に立至り候も吾々同志は誓て貴下のために努力し飽くまで念望を貫かんことを期す。希くは之を諒せよ」と県会議員一同の連名で、県下選出の諸代議士を鞭撻したことがあった。この信任状が彼等を自繩自縛に陥れつつ向背の混乱となったのである。しかしそれが当時全国選挙区の範として語り伝えられたことだけに、正造には今日この結果がいかにも残念だった。わが郷党の道義感の衰退を天下に曝けたように思われてならなかった。
その頃のある日、北部の山村を受持つ北郷の事務所から栗原喜蔵の息子の彦三郎が使いにきて、三里の道を走り通してきた様子で、肩あげのついた肩に息切れを打たせながら父の手紙をさしだした。正造が封を切ると、木村派が選挙人へ配布したという印刷物が入っていた。一月二十五日の日付で、
「拝啓陳者総選挙の期日も最早切迫致候。彼の厳冬酷暑を冒し郡内を奔走せし位の事実を以て揚々とし或は殊更に民力休養を唱え政府の提出案とし云えば利害損失をも調査せず、一も二もなく否決に雷同するが如き代議士は国家の不為と奉存候間今回は是非共実業に慧敏なる沈着家を御撰出相成様尽力被下度為国家奉企望候頓首。足利郡有志者」
暗に正造を貶したものである。木村派がいよいよ官党の本性をあらわしてきた感が深かった。少年が瞳をかがやかして傍からまた報告した。
「敵のやつらは、旧のお正月へかけて伊勢参宮をしないか、旅費は持ってやる。そういって村の者を勧誘しているそうです」
正造は指折り数えて、
「なるほど投票日は旧の正月十七日にあたる。有権者を他郷へつれ出して棄権させようという腹だね。うまく企んだものだ」
と左右を顧みて笑った。
一月も末ちかくなると、選挙戦は全国的に白熱化してきた。それを証拠だてる殺伐な消息が、この地方にもとりどりに入ってきた。中に就いて自由党の発祥地である高知県下の動静はものすごく、県の長浜村では戸ごとに貼札して「遍路乞食及び吏権党遊説員は門内に入るべからず」の文句をかかげたという些事さえ、小気味よいでき事として喧伝され、同じく高知県佐川村で、吏党派と自由党派が抜刀し発砲をして乱闘を演じ、数名の即死者をだしたという血腥い事件が、各地の興奮をいやがうえにも駆りたてた。一方こうした物情騒然の結果として、二十八日には予戒令が公布された。するとその運用が地方官の手ごころに委ねられているところから、人々はまた疑惑の念をもってそれをむかえた。浮浪人となして壮士の跳梁をとりしまるというが、その実は民党を制圧する苦肉の策であると取沙汰された。
たまたま二月二日に田中派の県会議員川島治平、山口信治、玉生嘉寿平の三名が突然家宅捜索をうけ、山口はなんのためかその場から拘引された。郡吏や警察官が隠然木村派を援ける証左であると、人々は火に油をそそがれたように激昂した。二月六日、田中派はすでに梁田郡西部を手中に収めえたので、余勢をもってすすんで敵の本拠を衝くことになった。しかも木村半兵衛の居住である小俣村へ乗りこんで政談演説会を開き、敵の心臓を震えあがらせてやろうというのである。この日は暗雲が頭上に凍りついて、渡良瀬川原の川風は肌を刺すばかりであったが、「田中君万歳」の大旗をまっ先に吹きなびかせ、田中正造をはじめ県会議員横尾輝吉、川島治平、天海浜吉をなかに挟んで、八十余名がいずれも草鞋ばきの出立ちで隊伍を組み、二日前の残雪を踏みならしつつ進んだ。
演説会はここも村寺で開かれて、聴衆は広庭にあふれてひしめいていた。横尾、川島ほか数名がこもごも立って木村派を完膚ないまでに攻撃すると、さすがに敵の本拠である。「ノオ、ノオ」の声がしきりに起り、足を踏みならし、板戸をたたき、怒号するなど、妨害は次第に激しく、殺気立ってきた。それと見て臨監の警部がついに解散を叫んだ。しかし、田中派は目的の過半を果したので、罵倒のこえを尻目に勢揃いして意気揚々と引きあげた。その帰途、山前村へさしかかる三ツ叉へきたときである。木村派の三百余人が肩を怒らした壮士たちを先頭にして道を塞ぎ、罵詈をあびせ、石を投げ、さては傍の木の上から小銃を空射ちして威嚇した。味方もさすがに色めきたって応戦の気配が動きすわ乱闘とみえたが、正造などが声をからして制止するうちに、十数名の警官が馳けつけてようやく無事に物別れとなった。木村派は足尾銅山の坑夫や上都賀郡の博徒等区外の者五六百名を金銭で雇って動員しているということだった。
然し、その夜しんしんと雪の降りつもる深更、ついに両派の間に暴力沙汰の端をひらくに到った。田中派の山田外十名が足利郡を運動して佐野への帰途、吹雪に難渋しながら、おぼつかない薄明りに積雪をふんでいると、どこから後をつけて来たのか、不意にうしろから「改進党の壮士まて」と声がかかった。こちらも咄嗟に敵とかんじたので「無礼者め」と叫んで踏みとどまった。霏々とふる雪にすかして見るとうち重った黒影が四五十、たちまち雪つぶてが飛んできた。石が飛んできた。田中派は一斉に仕込杖を抜きつれ、無言の疾走に殺気をはらんで突進した。その勢にさすがの敵方もピストルをうち放ち、みずからの木霊に怯えながら逃げ失せた。
越えて八日には、川島治平、増田代三郎が小俣村の演説を終えての帰り途、阪西村を過ぎたあたりで二百余名の暴漢にとり囲まれた。多勢に無勢、木剣や棍棒でさんざんに殴られたあげく、増田は両足をひきずって川の中へ投げこまれた。この日、一方では木村派が安蘇郡へ侵入してきて、田沼の亀鶴座で演説会をひらいた。田中派は七百余名で押しかけて、半兵衛の演説を「ノオ、ノオ」の声で弥次り倒した。そのうえ川俣久平たちは、木村が正造を慢罵したといって控室へ押しかけた。この始末はまた木村派の深くふくむところとなり、川島、増田の遭難も要するにその余波であった。
九日には、田中派はまたも敵の本拠というべき山下村で懇親会をひらいた。全村の有志五十余名を集めて、応援の横尾輝吉、左部彦次郎等が席上演説をするうちに、門前に木村派の者が押し寄せてきた。夕刻ごろにはその数は七八百名に達し、塀のそとをぐるりと包囲してしきりに罵声を放ちだした。障子をあけて見おろすと数カ所で酒樽の鏡をぬいて気勢をそえている様子だったが、やがて会場めがけてパラパラと石が投げこまれた。果ては薪を投げこむ音さえした。門内の田中派も演説どころではなくなった。もはやこれまでと観念し、血路をひらくつもりでサッと門扉を押しひらいて躍りでた。木村派もスワとばかり多勢をたのんで取り囲んだ。木剣の渡り合い、格闘、それをめがけて大小の石が無数に降りそそぐという騒ぎで、夕闇の道路はたちまち無残な修羅場と変った。
また同じ時刻に、葛生にひらかれた木村派の演説会に田中派の二千名が押し寄せて、ここでも両派入り乱れて刃傷沙汰に及んでいた。
こうして投票日が切迫するにつれ、両派の争闘は日ごとに殺気立ってきた。北部山間の閑馬村の栗原喜蔵が、自身にも再三負傷し、その部下に多くの負傷者を出したのもまたこの頃であった。さらに山奥の飛駒村はこの閑馬と投票所が同じで山越しで投票にくることになっていたが、木村派はしきりに流言を放って、木村に投票しないと途中の山中に待ち伏せた壮士たちのために半殺しの目にあわせるとか、田中派の家へ押しこむとか、脅迫がましい牽制を試みていた。栗原は飛駒の影山謙斎などが対策を練って、それに対抗するために投票の前日飛駒の有権者たちを閑馬村へ連れて来て、それぞれ親戚その他へ泊りこませることにした。それでもなお尻ごみしている者に対しては閑馬の有志が、馬を駆って二里三里の山道を一々かりだしに行った。
こうした大人たちの熱狂は子供にもいつか感染した。栗原の一子彦三郎なども小学校の作文に、「田中正造君を推薦する辞」を書いて、校長の叱責を喰うたりしたが、いよいよ投票日の二月十五日の朝にはまた、彼は未明のうちに五寸口の花火の筒を作男に担がせて裏山へ登った。それを松の大木に縛りつけ、倍量の火薬を仕掛け襤褸をつめこんで打ちあげた。地響きとともに凄じい爆音が暁闇をつんざいて轟いた。さすがに未だ子供である。彦三郎はその大砲のような豪壮さが愉快でたまらない。つづけて三発打ちあげて、それでもなお名残惜しそうに家へ戻った。村の気勢を示すつもりでやったことだが、祖父や影山などの老人連から危いことをするといってきつく叱られた。そこで彼は、今後は村の少年仲間を集めて蔵から小銃を持ちだし、道傍に標的をつくって射撃の練習をはじめた。朝のことで、炭俵や薪を積んで田沼へくだる荷馬車挽きが通りかかった。「おーい、おじさん」と、彦三郎はその馬車挽きたちを呼びとめた。
「閑馬ではさかんに鉄砲の稽古をしている。田沼へ行ったら、そういっていいふらしてくれよ。子供まで鉄砲を持って待ち構えているといってね」
そのときは、人々もただ子供の悪戯としか思わなかったが、はからずもこの喧伝が、意外な効果をもたらしたことが後にわかった。木村派としめし合せて村へ威嚇に来る手筈だった新井章吾の壮士たちが、その風説におそれてついに姿を見せなかったのである。
こうして閑馬村の投票はともかくも無事に終ったが、他の村々の投票所では今日を最後と暴漢が跳梁をきわめ目にあまる妨害が行われた。御厨村の村長田沼民二郎は、投票立会にでかける途中を襲われて顔面に打撲傷をうけた。久野村の高木清蔵もまた不意に切りつけられて額に負傷したまま一里の道を投票所へ馳けつけ、投票を終ってその場に昏倒した。しかし、高知県第二区のように投票凾を奪い去られるという醜態のなかったのを、まだしもとしなければならない。
なおこの選挙運動を通じて栃木県第三区の災禍は、以上のほか、須永某の獄死、越智脩吉、清水政吉の負傷、原田方の家屋破壊、佐野堀米両町久野村の放火事件等、枚挙に暇のないありさまであった。開票の結果は田中正造が七三三票、木村半兵衛は六四三票で、両派の接戦の跡はその数字のうえにも窺われた。
やがて全国の当選者が明かになったが、自由党九十四名、改進党三十八名、これに対し吏党はようやく九十三名を数えるにすぎなかった。しかもこの頭数を得るための選挙干渉が人心を刺激した結果は、全国を通じて死者二十五名、負傷者三百八十八名という言語道断な記録を残した。