Chapter 1 of 5

「おやおや、惜しいことしちまつたな」

思わず口から出たひとりごとだつたが、それを聞きとがめた井口警部が、ふりむいて、

「なんだい。何が惜しいことしたんだね」

というと平松刑事が、さすがに顔を赤らめひどく困つた眼つきになつて、

「いえ……その……金魚ですよ。こいつは三匹ともかなり上等のランチュウです。死んでしまつているから、どうも惜しいことしたと思いまして」

と答えたから、捜査の連中も鑑識の連中もあぶなくぷッと吹きだすところだつた。

眼の前に、人間の死体があつた。

庭先きの土の中に、大ぶりな瀬戸物の金魚鉢が、ふちのところまでいけこんであつて、その鉢のそばで、セルの和服を着、片足にだけ庭下駄をつつかけた人間の死体が、地べたに這いつくばつている。

のちにわかつたが、死の原因は青酸加里による毒殺だつた。死体の両手がつきのばされて、鉢のふちに掴みかかろうという恰好をしている。多分被害者は、苦しみもがき、金魚鉢のところまで這いよつてきて、口をゆすぐか、または、鉢の中の水を飲もうとしたのだろう。その時、まだ口に残つていた毒が水中へしたたりおちたために、金魚も死んだのだと思われる。しかし、問題はこの毒殺死体だつた。断じてまきぞえをくつた金魚ではない。だのに、人間の死体のことではなくて、死んだ金魚のことを先きにいつたから、いかにもそれは滑稽な感じがしたのであつた。

事件は五月六日の朝、発見された。

場所は、岡山市の郊外に近いM町で、被害者は、四年ほど前まで質屋をやつていて、かたわら高利貸しでもあつたそうだが、目下は表向き無職であつて、それもたつた一人きりで暮していた刈谷音吉という老人である。

発見者は、老人の家のすぐとなりに住んでいて、去年あたり開業した島本守という医学士だつたが、島本医師は、警察へ事件を通報すると同時に、大要次のごとく、その前後の事情を述べた。

「私は今朝急患があつて往診に出かけました。ところが往きにも帰りにも、老人の家の門が五寸ほど開きかかつていたから、へんなことだと思つたのです。近所でもよく知つていることですが、老人はかなりへんくつな人物です。ひどく用心ぶかくて、昼日中でも、門の内側に締りがしてあり、門柱の呼鈴を押さないと、門をあけてくれません。私は気になりました。となり同士だから、時々口をきき合う仲で、ことに一昨日は、私が丹精したぼたんの花が咲いたものですから、それを一鉢わけて持つて行つてやり、庭でちよつとのうち、立話をしたくらいです。私は老人には、その時に会つたきりですけど、どうも気になつてなりません。それで、帰宅後三十分ほどしてから、老人の家へ行つて見たのですが、……」

そこは医師だから、すぐにもう毒死らしいと気がついたのだという。

その時、すでに体温がなかつた。

島本医師の意見でも、またあとできた市警の医師の意見でも死んだのは前日の夕方からかけて九時頃までの間らしい。大輪の花をつけたぼたんの鉢が、金魚鉢にほど近い庭石の上にのせてあつた。その花は、のめずり倒れた老人の死体を、笑つて見おろしているという形で、いささか人をぞつとさせるような妖気を漂わしている。

家の中は、昼間なのに、電灯がついていたが、これはむろん、事件発生当時からつけつぱなしになつていたのだろう。庭へ向いた縁ばな――金魚鉢から六尺ほどのへだたりがあつたが、その縁ばなにウィスキイの角びんと、九谷らしい盃が二つおいてあつた。一つの盃からは、ハッキリした被害者の指紋が検出されたが、他の一つには、何かでふいたものと見えて、全然指紋がついていない。しかしこれで大体の推測はついた。

すなわち老人は、多分縁ばなに、庭下駄をはいて腰をかけ誰かとウィスキイを飲んでいたものであろう。

しらべると、びんに半分ほど残つたウィスキイに青酸加里が混入してあつた。だから老人は、それを一口か、せいぜい二口飲むと苦しくなり、金魚鉢のそばまで這つて行つて死んだのにちがいない。犯人はウィスキイの相手をしていたが、むろん、自分は飲まずに老人にだけ飲ませた。そして、老人の死んだのを見とどけてから、自分の盃のウィスキイをびんに戻し、かつ指紋をぬぐいとつておいて、悠々と……もしくはいそいで、この場を立去つたのである。

係官たちは、捜査に専念しだした。

屋内はべつに取乱されず、犯人が何かを物色したという形跡もないから、盗賊の所為ではないらしく、従つて殺人の動機は、怨恨痴情などだろうという推定がついたが、さて現場では、とくに目星しい発見は何もない。

この時、またおかしかつたのは例の平松刑事が、相変らず金魚のことを気にしていたことである。よほどの金魚好きにちがいない。彼は、死んだ金魚が三匹で一万円はしたろうということや、自分は月給が少なく、とてもあんなのは買えないということを、くりかえし同僚に話したし、また事件発見者島本医学士にまで、同じことをいつた。

「私は、女より金魚の方が美しいと思うんですよ。あなたは庭で老人と立話しをしたつていいましたね。その時金魚は、どんな恰好してました?」

「さア、とくに注意して見たわけじやありませんからね。しかし美しい金魚だとは思いましたよ。ひらひら游いでいましてね」

「そうでしような。私もそれは見たかつたですよ」

刑事は、真実残念そうに、ため息をしているのであつた。

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