一
小野村伯太郎には、まだ何一つ分ってはいなかった。前のママちゃんのことを覚えているには覚えていた。いつも優しい微笑を浮べていて、その癖に、どこか愁の籠った眼附をした前のママちゃんの顔が、今でもどうかすると、お居間の片隅だの天井だのからひょっと覗き込んでいるような気がするけれども、そのママちゃんが、ほんとうはどういう訳で急にいなくなってしまったのか、それからまた、そのママちゃんがいなくなってから一年経った時に、今度の若い美しいママちゃんが、どういう訳でやって来たのか、どうもハッキリと分らずにいた。
幼稚園へ行けるようになった伯太郎にさえ、こうして訳が分らずにいたのだから、その妹の小野村露子と、そのまた弟の、これはようやくあんよが出来るだけになった小野村伯二と、この二人にも無論訳の分る筈がなく、伯太郎と露子とは、いつか次のような会話をしたことがあった。
「ね、お兄ちゃん。お兄ちゃんは、先のママちゃんがどこへ行ってらっちゃるか知っている?」
「うん、知ってるよ」
「どこ?」
「ほら、あのママちゃんはね、ずっと先の雨の降る日に、寝たまんまで金ピカピカの自動車に乗って出て行ったろう。だからママちゃんは、遠くのお家へいらっしゃったのさア」
「遠くのお家ってどこでちょ」
「パパちゃんがお話して下すったよ。何でもね、そのお家は大変に綺麗なところなんだって。そうして、ママちゃんは、そっちのお家へ行ってから、今度のママちゃんを、僕達んところへ送って寄来して下すったんだって――」
「そうオ、そいじア、今のママちゃん、やっぱしあたち達のママちゃんね」
「そうだよそうだよ。僕、先のママちゃん大好きだったけれど、今度のママちゃんだって大好きさ」
その、新しいママちゃんのやって来たのが、そろそろと寒い秋の風が吹いて来て、庭には毎朝木の葉が散り、それがカラカラ、カラカラ、面白そうに舞い転がっていた頃である。邸へは、二三日の間多勢のお客さん達が出たり入ったりして、大変賑かであった。けれどその賑かさも一通り片附いてしまった時に、伯太郎達は、初めて、新しいママちゃんが来てくれたのだということを知った。
パパちゃんが、三人の頭を代る代る撫でながら、そのママちゃんを引合せてくれたのである。
一年間、邸にはママちゃんというものがいなかったので、その時伯太郎は、とても嬉しかったことを覚えている。最初に引合された時には、何といっていいか、へんにその人をママちゃんと呼ぶのが口慣れないような気持だったけれど、それから二日と過ぎ五日と過ぎて行く間に、それも、だんだん慣れて来た。そうして、露子にもいっている通り、新しいママちゃんが好きになった。
新しいママちゃんは、前のママちゃんと違って、弟の伯二にお乳を飲ませることなんか出来なかったけれど、それでも伯太郎達をよく可愛がってくれたからである。
慾をいえば、夜になって寝る時に、新しいママちゃんが、自分達と同じお部屋で寝てくれれば、もっとよかった。また朝になって伯太郎達が起きた時、ママちゃんが、前のママちゃんと同じように、女中やなんかより早く起きて、洗面所へ連れて行って下すったり、鸚鵡に餌をやったりしたあとで、お居間の時計が七時を打つと、伯太郎と露子との二人に、奥のパパちゃんのお部屋まで行って、ぐうぐう鼾をかいているパパちゃんを、揺すぶり起す役をさせてくれれば、それももっとよいことに違いなかった。
しかし、それはそれで我慢しなければならぬのであろう。婢やのときやに聞いて見ると、ママちゃんは、毎晩毎晩遅くまでパパちゃんのお部屋にいて、パパちゃんのお対手をしているということだったし、そのために、パパちゃんもママちゃんも、朝は、前よりもずっと寝坊になったということだった。朝、伯太郎はときやに連られて幼稚園へ行く、そうして、お昼頃にときやと一緒に帰って来る。その時に、ママちゃんは大抵、お湯殿から出て、大きな鏡台の前で、他の婢や達に手伝わせながら、真白なタオルで顔を蒸したり、チカチカ光る電気の器械でマッサージをしたり、それからいろんな形の容物の中にある水だの白粉だのを塗りつけて、一番お終いに赤いゴムの袋のついた細長い瓶から、シュッ、シュッといって音をさせて、香水を身体中に振りかけているのだった。
「ママ、唯今――」
と伯太郎がいえば、ママちゃんは、そのいい匂いのする袖をひろげて、一度はきっと伯太郎を抱きしめてくれる。露子の方は、ママちゃんから、一度もそんなことをして貰ったことはないというのだけれど、とにかくそれで、伯太郎は充分満足しなければならぬのであった。