一 はしがき
このたび本書の新版を出すにあたって、書肆からなるべく多く追加原稿をそろえてつけるようにとの要求を受けたが、前版以後におりおり雑誌上にかかげた文は別に「煩悶と自由」と題して、最近に出版したゆえ、本書に追加すべきものはほとんど一つも残っていない。ただしせっかく新版を出すにあたって、全く旧版のままにしておくことは、なんとなく思想発表の好機を逸するような心持ちを禁じえぬゆえ「煩悶と自由」の終りに特に一篇を書きそえた例になろうて本書にも新たに一文を書きつづって巻末に追加することとした。
ここに「われらの哲学」という題目を選んだが、これは決して今日新たに思いついたものではない。実は今より三十六年も前から夢みていたことで、いつか一度は自身の考えの全部を一つの哲学系統として整理してみたいとの希望は、すでにそのころからわれらの胸中にあった。また、ある時は「(独孤遺書)想邪乃話」という表題で、世人が理由をたずねず、ただ言い聞かされるままに信じている事柄を、根柢から掘り返して論じてみようかなどと考察をめぐらしたこともあった。これらはいずれも若い時の空想に過ぎず、今日となってはもはやそのようなものができぬは明らかであるが、われらの思想の基礎観念は今日といえども少しも変わらず、かつこれまでに読んだ少数の哲学書には、それと全く同じような考え方はどこにも見当たらなかったゆえ、次にひととおりその要点だけを述べ、それを基礎とした物の見方をいくつか掲げておこう。
われらは今日までに何冊かの哲学書を読んでみた。中にはおもしろいと思うて数回読み返したものもある。しかるに一冊としてそのまま取って自分の哲学とすることのできたものはない。これはおそらく読む前から自分自身の哲学を持っていたからであろう。徳利でも空のものには水を注ぎ入れることができるが、水がいっぱいにはいっている徳利にはもはや水がはいらぬごとく、自身にすでに一人分の哲学を貯蔵している者は他人の哲学を読んでみても、ただ面白いとかつまらぬとか感ずるだけで、決してそれによって、自分の思想界を占領せらるるごときことはない。われらの哲学の骨子は次の三節に述べるとおりであるが、かようなことを考え始めてからのちは、何物を見ても何事を聞いても、いつも必ずその見地から判断を下し、今日にいたるまで、物の考え方ははなはだしく変わらなかった。われらがいかなる書物をも鵜呑みにすることができず、いかなる学者をも崇拝するにいたらなかったのは全く自分の哲学を尺度として、他人の説の寸法を測ったからである。また実際に照らしてみても、われらの哲学から見て誤っていると思われる説は、たとえ一時世間から持てはやされることはあっても、時の経るにしたがいその誤りなることが暴露したものがすこぶる多い。それに反しわれらの哲学に基づいて立てた論は、その当時はげしく駁撃せられたにかかわらず、後にいたって着々事実によって証明せられた。さればわれら自身からみれば、われらの哲学がむろん一番正しいもののように思われるが、さらに翻って身を第三者の位地において側面から観察すると、自分の哲学だけが正しくて他の哲学はことごとく誤っていると堅く信じている人間が何千人も何万人もいる中に、自分もその一人として加わっているに過ぎぬゆえ、正しい籤を引き当てるプロバビリテは実に薄弱であることを充分に承知せざるをえない。