Chapter 1 of 1

Chapter 1

フットボールは、あまり坊ちゃんや、お嬢さんたちが、乱暴に取り扱いなさるので、弱りきっていました。どうせ、踏んだり、蹴ったりされるものではありましたけれども、すこしは、自分の身になって考えてみてくれてもいいと思ったのであります。

しかし、ボールが思うようなことは、子供らに考えられるはずがありませんでした。彼らは、きゃっ、きゃっといって、思うぞんぶんにまりを踏んだり、蹴ったりして遊んでいました。まりは、石塊の上をころげたり、土の上を走ったりしました。そして、体じゅうに無数の傷ができていました。

どうかして、子供らの手から、のがれたいものだと思いましたけれども、それは、かなわない望みでありました。夜になると、体じゅうが痛んで、どうすることもできませんでした。まれに雨の降る日だけは、楽々とされたものの、そのかわり、すこし雨が晴れると、水たまりの中へ投げ込まれたり、また、体じゅうを泥で汚されてしまうのでした。雨の日が長くつづけば、つづくほど、その後では、いっそうみんなから、手ひどく取り扱われなければならないので、まりにとっては、雨の降る日さえが、その後のことを考えると、あまりうれしいものではなかったのです。

あるとき、フットボールは、みんなから、残酷なめにあわされるので、ほとんどいたたまらなくなりました。そして、いつも、いつも、こんなひどいめにあわされるなら、革が破れて、はやく、役にたたなくなってしまいたいとまで思いました。

こんなことを思っていましたとき、彼は、力まかせに蹴飛ばされました。そして、やぶの中へ飛び込んでしまいました。まりは、しげった木枝の蔭に隠れてしまったのです。

「まりが見つからないよ。」

「どこへいったろう?」

子供たちは、おおぜいでやぶの中へはいってきて、まりを探しました。しかし、だれも、ボールがちょっとした、木枝の蔭に隠れていようとは、気づかなかったのであります。

「ここんとこではない。ほかのところかもしれないよ。」

子供らは、ほかの方面へいって探しはじめました。そして、見つからないので、みんなはがっかりとしてしまって、いつしか、どこへかいってしまいました。

あとに、まりは、独り残されていました。しかし、また、子供たちがやってくるにちがいない。そして、見つかったら、いっそうさかんに投げたり、蹴られたりすることだろうと思うと、まりは、ため息をせずにはいられませんでした。

フットボールが、木枝の蔭で、小さくなっているのを、空の上で、雲が、じっと見ていました。なぜなら、雲は、まりが子供らから、いじめられるのを、かわいそうに思っていたからであります。

雲は、だれにも気づかれないように、そっと空から下へ降りてきました。

「フットボールさん、お気の毒です。私は、なんでもよく知っています。あなたほど、やさしい正直ないい方はありません。それだのに、毎日、ひどいめにおあいなれされています。幸い、だれも、いまは気づきませんから、この間に、私といっしょに空へおいでなさい。そうすれば、もう、みんなの手がとどかないから安心です。そうなさい。」と、雲はいいました。フットボールは、こういわれると、日ごろから、空にいて、じっと下を見ていた白い雲でありましたから、なつかしそうに、

「ごしんせつにいってくださって、ありがとうぞんじます。私みたいなものが、あの美しい空へいって、すんでいるところがありましょうか?」といって、たずねました。

雲は、にこやかに笑いました。

「それには、いい考えがあることです。はやくなさらないとだめですから……。」といって、雲は、まりを急きたてました。

フットボールは、雲の言葉に従いました。そして、雲に乗って、空へ、高く、高く、昇ってしまったのであります。

「まりさん、私は、夜になると、こういうように月を乗せて、大空を歩くのです。しかし月は、夜でなければ、やってきません。あなたは昼間は、月のかわりに、ここからじっと下界を見物していなされたがいいと思います。」と、雲はいいました。

フットボールは、白い月のように、円い顔を雲の間から出して、下をながめていました。だれも、自分をまりだと思うものはありませんでした。

「あすこに、昼のお月さまが出ているよ。」といって、子供たちは、仰ぎながらいっているのを、まりは聞いたのであります。

フットボールが、見えなくなってしまってから、子供たちは、ほんとうにさびしそうでした。広場へ集まってきても、いままでのように、きゃっ、きゃっといって、遊ぶこともなくなりました。

「あのフットボールは、どこへいったろうね。」と、一人がいいますと、

「いいまりだったね。」と、ほかの一人が、なくなったまりをほめました。

「あんまり、ひどく蹴ったから、いけないんだね。」と、なかには、後悔したものもありました。

子供たちのいうことを、空で聞いていたまりは、かつて、自分のことなど、口にも出さなかったのに、いまはこんなに自分のことを子供たちが思っているかと思うと、うれしいような、悲しいような気持ちがしたのであります。そして、それほどまでに、自分を愛してくれるなら、たとえ自分は、どんなにつらいめをみても、子供たちを、喜ばしてやりたいというような考えになりました。

まったく、まりは、いまは雲の上にいて安全でありましたけれど、毎日、毎日、仕事もなく、運動もせず、単調に倦いていました。そして、だんだん地の上が恋しくなりはじめたのでありました。

まりは、地上に帰ろうかと考えました。そのとき、風は、彼にささやいたのであります。

「そんな気を起こすものではない。もしおまえさんが帰ったら、もう二度とここにはこられないだろう。そして、いままでよりか、もっといじめられるだろう……。」と、風はいったのであります。

雲は、また、まりに向かって、

「もう、あなたは苦しいことを忘れたのですか。ここに、こうしていたら、どんなに安心であるかしれない。あの子供たちも、じきにあなたのことなどは忘れてしまいます。」といいました。

まりは、子供たちといっしょになっていた時分が、やはり恋しかったのです。そして、独りぼっちとなり、やがて、みんなから忘れられてしまうと考えると、もうじっとしているわけにはいきませんでした。

「雲さん、長い間、どうもお世話になりまして、お礼の申しあげようもありません。私は、下界へゆきます。そして、坊ちゃんや、お嬢さんたちのお仲間入りをいたします。私は、もう、さびしくて、さびしくてかないません……。」と、まりはいいました。

雲は、このことを聞くと、また、まりの心持ちに同情をしました。

「それほど、あなたが帰りたいなら、つれていってあげましょう。」と、雲はいいました。

ある夜、雲は、まりを乗せて下界へ降りてきました。そして、いつかまりの隠れていたやぶの中へ、そっと降ろしてくれました。

「まりさん、お達者にお暮らしなさい。さようなら……。」と、雲は、名残惜しげに別れを告げました。

「ありがとうございました。」と、まりは、お礼をいいました。

やがて、夜が明け放れると、やぶの中へ朝日がさし込みました。小鳥は木の頂で鳴きました。そして、ぼけの花が、真紅な唇でまりを接吻してくれました。

「まりさん、どこへいままでいっていなさいました? みんなが、毎日、あなたを探していましたよ。」と、ぼけは、なつかしげにまりをながめていいました。

まりは、この地上のものを美しく、うれしく思いました。なぜ、自分は、この下界を捨てて、空の上などへ、すこしの間なりとゆく気になったろう。もう、これからは、不平をいわずに、みんなといっしょに暮らすことにしようと思いました。

子供たちは、どうしてもフットボールのことを思いきれませんでした。そして、またやぶの中へ探しにきました。彼らは、思いがけなくまりを見つけたのであります。

「あった! あった! まりが見つかったよ。」

「おうい、フットボールが見つかった!」

「みんな、早くおいでよ。」

その日から、広場で、前のようにフットボールがはじまりました。子供たちは、その当座は気をつけてまりを大事にしました。

しかし、いつのまにか、また乱暴にまりを取り扱ったのであります。なんとされてもまりは、だまっていました。

こうしているうちに、まりは、もう年をとってしまいました。はね返る元気もなくなれば、不平をいったり、逃れようとする勇気もなくなってしまいました。子供たちのするままになって、終日外へほうり出されているようなこともありました。

空の雲は、まりが疲れて、広野にころがっているのを見ました。雲は、あわれなまりを、気の毒に思ったのであります。もし、二度と空へくるような気があるなら、つれてきてやろうと思って、雲は、だれも、人のいないときを見はからって、空から降りてきました。

「もし、もし、まりさん。」と、雲は呼びかけました。しかし、耳も遠くなって、目のかすんだまりは、せっかくの雲の呼び声にも気づきませんでした。雲は、哀しそうに去ってゆきました。

――一九二五・四作――

●図書カード

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