Chapter 1 of 1

Chapter 1

こい紫の、ちょうどなす色をした海の上を、赤い帯をたらし、髪の毛をふりみだしながら、気のくるった女が駈けていくような、夏の雲を、こちらへきてからは、見られなくなったけれど、そのかわり、もっとやさしい女神が、もも色の長いたもとをうちふり、うちふり、子どもたちといっしょに鬼ごっこをしているような、なごやかな夕雲の姿を、このごろ毎日のごとく、街の上の空に、ながめるのであります。

こんど、煉炭屋へやとわれてきた少年の秀吉は、仕事がすむと、工場裏の空き地で、近所の子どもたちといっしょにすごす時分、こうして、ひとり空をながめながら、いろいろ空想にふけるのでした。

「小僧さん、さか立ちしてごらんよ。」と、子どもの一人が、彼のそばへよると、ふいにいいました。なぜなら、彼が、ここへきてから、さか立ちのうまいということが、じき子どもたちの間で評判になったからです。それというのも、秀吉が、故郷にいる時分から、さか立ちだけは、だれにも負けまいとけいこをしたからでした。で、いつでも、きげんのいいときには、こういわれれば、

「よし、きた。」と、かけ声をして、うしろへ二、三歩さがり、前へのめるかと思うと、たくみにさか立ちをして、さながら、足で立つように平気で、あちらこちらと、歩きまわりながら、見ているものに、話しかけるのでした。

「ああ、きれいだな。あの高いえんとつの煙が、雲の中へ流れこんでいる。それが、おししの毛のように金色に光って見える。君たちにはそう見えない?」と、さか立ちしながら、秀吉は、いいました。

「金色になんか、見えないよ。」

「正ちゃんも健ちゃんも、さか立ちしてごらんよ。」

こんなに長い間、さか立ちをしていたら、さぞ頭が重くなって、目がまわるだろうと、かえって、はたで見ているものが、心配するのでした。

「もう小僧さん、いいからおやめよ。そんなに長くさか立ちしていて、なんともないの。」と、さっき、さか立ちをすすめた子どもが、やっきになっていいました。

やっと、秀吉は立ちなおると、両手についた土をはらいおとして、

「ああ、なんともないさ。」と、笑いながら、答えました。

「おどろいたな、ぼくたちには、できっこない。それに、こんなことをすれば、血が下がって体に大どくだろう。」と、正ちゃんがいいました。

「は、は、は、なんでも、ひとのできないことを、するのでなくちゃ、だめなのさ。」と、秀吉は、自信ありげに、いいました。

「それじゃ、小僧さんは、子どものときから、ひとのできない、さか立ちをしようと勉強したんだね。」と、武ちゃんが、ききました。

「おれは、貧乏の家に生まれたのだ。とうちゃんは、おれが生まれると、じき死んだので、お顔をおぼえていない。おれは、まったく、おふくろの手一つでそだてられた。母親は、手内職をしたり、よそへやとわれていったりして親子は暮らしていた。おれは、小学校をおえると、町の乾物屋へ奉公に出された。そして、たまに家へ帰ると、母は、いつも、おれに向かって、主人のいうことを守り、精を出して働けといった。もし、このうえ、私どもが貧乏しなければならぬようなら、おまえを角兵衛獅子にでもくれなければならぬと、半分は本気で、半分はおどかしのつもりだろうが、いったものだ。」

秀吉は、そのときのことを思い出すように、いつしかしずんで、だまってしまいました。

「小僧さん、角兵衛獅子って、なになの?」と、武ちゃんがききました。

「まだ、知らないの。角兵衛獅子って、私のくにでは、冬になると、よく村から村へわたってきて、おししの面をかぶったかわいそうな子どもが、さか立ちしたり、でんぐりがえしをしたりして見せるのだ。その間、おそろしい顔つきの親分が笛を吹いたり太鼓をたたいたりしてはやすのだ。そして、もし、しそこないをすると、子どもをしかるのだ。それらの子どもは、なんでも親のない子どもや、貧乏の家から子どもを買い取って、こんなふうに芸をしこみ、銭をもらって歩くのだが、子どものもらいが少ないと、子どもをいじめたり、また、めしをろくろく食べさせないと聞いていた。それで、もし、おれがおししに売られたら、しかられなくてもすむように、人の見ていないところで、ひまがあればさか立ちのけいこをしたのさ。それでこんなにうまくなったんだ。はじめのうちは、からだの血が頭へ下がって、いくどめまいがして、たおれたかしれないが、がまんをして、しまいにはなんでもなくなったのさ。いまとなれば、だれが、おししなんかになるものか。もう、自分の力で、生きられる自信がついたからな。

こんど、乾物屋を出るときだって、ちっともおれが悪かったと思っていない。すこしばかりのいわしのにぼしを犬にやったとて、そんなに悪いことでないだろう。なぜって、おれの給金をこれといって、きめてくれないのだから、それぐらいのことをしたって、なんでもないはずなのだ。」と、秀吉の話はだんだん、熱をおびてきました。

空き地にいた、多くの子どもたちにも、その話がわかるので、みんな目を輝かしながら、秀吉の顔を見つめて、聞いていました。

「おれはずいぶん遠い村まで、ご用を聞きにやらされたものだ。ちょうど、二里ばかりはなれた居酒屋に黒という犬がいて、おれが帰るときに、追っても、追っても、ついてくるのだ。とちゅう、ほかの犬がたかってきて、ほえたり、追いかけたりしても、やはりついてくる。黒はだまって、けっしてあいてにならないが、たまに大きい強そうな犬が出てきて、いじめられそうになると、どこをどうまわって逃げるものか、ちゃんと、先へいって、おれを待っている。ほんとうに、りこうなかわいい犬だったよ。おれたちが、店へつく時分には、もうとっくに日が暮れていて、外は真っ暗だった。そして、おれが、戸をあけて、店へ足を入れると、さびしそうに、それまで立ちどまって見ていた黒は、呼びとめても、後もふり向かずとっとと、もとの道をもどっていくのだ。おれは、かわいそうで、どうしようもなかった。床へ入っても、黒のことばかり考えて、その姿が目にうかんで眠られなかった。いまごろ黒は、まだあのさびしい松並木のあるあたりを歩いているだろう。もう、どのへんへいったろうかと。ある晩のこと、また黒がついてきたので、なにもやるものがないから、店さきのおけにはいっていた、にぼしをすこしばかりつまんで、投げてやった。それが運わるく主人に見つかって、ひどくしかられた。おまえはきょうばかりでない、へいぜい店の品物をそまつにするのだろう、そんなものは、この家におけないと主人はいうのだ。おれは、悲しかったよ。おふくろが、どんなに泣くだろうと思うと、おれは、身を切られるような思いがして、主人にわびたのだ。しかし、がんこな主人は、どうしても、出ていけというのだ。さいわい、近所で、日ごろから顔見知りの人で、そんなら、東京にいい口があるが、いってみないかと、せわしてくれたので、おふくろとわかれるのは、つらかったけれど、ここへきたのさ。

こんどの主人は、いくらいいかしれない。しんぼうして、早く大きくなって、ひとりだちをして、かわいそうなおふくろを安心さしてやらなけりゃ……。」と、秀吉はいって、なみだぐむのでありました。

このときから、武ちゃんも、正ちゃんも、この遠くからきている小僧さんに、なにかにつけて、同情したのであります。

ある日の、午後のことでした。

武ちゃんと健ちゃんがペスをつれて、草いきれのする細道を、川の方からきかかると、からのリヤカーを走らせて、通り過ぎようとする、秀吉に出あいました。

「おや、どこへいったの?」と、秀吉は、車をとめて、聞きました。

「ぼくたち、川の方まで、散歩したんだよ。」と、二人が答えました。

「もう、帰るのかい。そんなら、これに乗せてあげるよ。」と、秀吉は、すすめました。

「ペスも乗せていい。」と、健ちゃんが、いいました。

「みんなお乗りよ。」

「ペスもおいで、いっしょに乗ろうよ。」と、武ちゃんが、うずくまりました。

このとき、秀吉は、ふり向いて、いつも見ているペスだけれど、はじめて気がついたように、

「いい犬だね。」と、ほめました。

「ああ、これでもテリヤなんだ、純粋じゃないけど。」と、武ちゃんは、ペスの頭をなでていいました。

「おとなしくて、りこうな犬だよ。」と、健ちゃんは、小僧さんに説明して、さらに、武ちゃんに向かい、

「こうして見ると、小さくないね。ぼく、いつ見ても、小犬のような気がしたが、なかなかりっぱじゃないか。」といいました。

「小僧さんが、いなかにいたとき、かわいがった黒という犬は、どんな犬なの?」と、武ちゃんが聞きました。

秀吉は、リヤカーを走らせながら、

「黒かね、りこうな犬だった。そんな、なになに種って、名のつく犬でなかったけれど、おれは、どの犬よりも、黒が好きなんだよ。」と、彼は、髪の毛を、風に吹かせながら、さもなつかしそうに答えました。そして、なにを思ったか、急に速力をゆるめ、ふり向いて、ペスを見ながら、

「この犬も、いい犬らしいな。」と、じっと、目の中を、のぞくようにしました。そこには、黒と共通のものがありました。なんと、その目は、すみきって、おとなしそうで、すばしっこそうで、なんでも人間のいうことが、わかるような、かしこそうにみえるではないか。

「犬って、みんなりこうなんだな。だから黒もペスも、同じくらいかもしれない。」と、秀吉は、いいました。

「犬って、みんなりこうなんだね。」

「どの犬も、人間なんかよりは、りこうだと思うよ。」

「人間よりも……。」

「そう、人間のように欲深でもないし、いちど信じれば、気変わりなんかしないからね。」と、秀吉は答えたのです。

二人は、そう聞くと、深くうなずかずにはいられませんでした。

「こんど、いつ国へ帰るか知らないが、どうか、それまで、黒がたっしゃでいてくれればいいが。」

秀吉は、ひとりごとをいって、また、いっしょうけんめいに、リヤカーを、自分たちの町の方へ走らせたのです。その後ろ姿が、二人の少年の目には、なんとなく悲しくうつりました。

あちらに、親しみのある、湯屋の高い煙突が見えたころです。

「晩に、ぼくたち、双眼鏡で、空の星を見るから、秀吉くんも遊びにきたまえね。」と、武ちゃんがいいました。

「ほんとうに、おいでよ。」と、健ちゃんも、いいました。

「大ぐま座、小ぐま座、北斗星などを見るのだよ。それに、もっと遠い海王星が、雲がなくて見えるといいね。」と、健ちゃんが、さも楽しそうに、いいました。

「ご飯を食べてからですね。そうすれば、おれも用事が終わるから、いかれますよ。」と、秀吉は、答えました。やがて、リヤカーは、坂を下ると、道をまがって、二人の少年と犬を乗せながら、自分たちの家のある町の中へ入ったのでした。

その夜、空き地では、かたすみの方に、わずかばかりしげる草むらの中から、いろいろの虫の声が聞かれました。しかし、秀吉には故郷の、あのかぎりもなく広い田んぼから、さながら雨の降る音のように流れてくる、ひびきの高い虫の声とは、おのずから感じがちがって、もう秋の近づいたという、心のひきしまる、さびしさは味わわれませんでした。

空き地へ集まった、子どもの群れには、昼間道づれとなった武ちゃんや健ちゃんのほかに、きみ子さん、みっちゃんなどの、同じ年ごろの学友たちが加わっていました。

「よく星が見えるかい。こんど、ぼくにかしてね。」

「そのつぎは、わたしにね。」

みんなが、先を争って、双眼鏡をのぞこうとしているのでした。

「こんどは、小僧さんの番だよ。」と、健ちゃんが、大きな声で秀吉を呼びました。

秀吉は、双眼鏡というものを、はじめて、のぞいたのでした。しかし月の世界の秘密は肉眼で見る以上に、わからなかったのでした。いくらか、はっきりするぐらいなものです。

「どう、よく見えるだろう。」と、武ちゃんはさも、精巧なレンズをほこらしげに、いうのでした。秀吉はこれに対して、なんともいわず、見れば見るほど宇宙が広いので、ただため息をもらしながら、双眼鏡を武ちゃんにかえして、

「故郷では、いまごろ空をあおぐと、手がとどきそうに、空が近く、星が大きく、きらきら光って見えるのだから。」といいました。

「まあ、そんなによく見えるの。」と、みつ子さんが、おどろきました。すると、そばに立っていた健ちゃんまでが、

「そうかなあ、空気が澄んでいるんだね。」と、まだ知らない北国をふしぎなところのように思うのでした。

秀吉は、自分の故郷について、みんながめずらしがると、とくいになって、

「ちょうど、大雨のあと、小石がたくさん、頭を地面へ出すだろう。あれと同じように、夜がふけると、青、赤、緑と、一つ一つ空に星の光が、とぎ出されるのさ。」と、秀吉はいって、さながら、わが家の前に立って、まのあたり空を見ているように、なつかしそうでありました。

やがて、みんなと別れて、彼は工場の二階の一室へもどりました。しかし、床についてからも、すぐに眠れませんでした。まくらに頭をつけながら、居酒屋の前に立つ、高いかしの木を目に浮かべていました。その木の下には、黒がすわっています。そして、黒は、毎日のように、ゆき来の旅人を見送っています。黒は、おれが、どうして、やってこないのだろうと思っている。秀吉は、いつのまにか泣いているのでした。目から落ちる涙が、まくらをぬらすのでした。

だんだん、日が短くなりました。いつしかひぐらしの声もきこえなくなりました。しかし、子どもたちも、あまり、それを気にとめるものがなかったほど、自然のうつり変わりは自然でした。

「このごろ、小僧さんは、病気でないのかな。」

「どうして?」

「歌もうたわないし、遊んでいるときも、だまって、さか立ちもしないだろう。」

学校へのとちゅう、健ちゃんと、武ちゃんは話しました。

「そういえば、元気がないね。いつもほがらかなんだがな。遠くからきているので、かわいそうだね。」と、武ちゃんが、いうと、

「帰ったら、どうしたんだか、きいてみようか。」と、健ちゃんが答えました。こうして、二人は秀吉の身の上に同情したのでした。

あちらの庭に咲いた、さるすべりの花も、一時は、紅くきれいだったが、その盛りをすぎてしまいました。夕日が、西空にしずむと、北風の冷たさを感じるようになりました。

秀吉は、両手を頭の上で組んで、ぼんやりと、遠方をながめながら、物思いにしずんでいました。

この姿を見た子どもたちは、

「きっと、自分の家を思い出したのだろう。」と、そばへいって声をかけるのをひかえたけれど、なにか知らず、胸を細い針でさされたように、悲しみを感じたのでした。

その日は、日曜で、しかも空はよく晴れていました。もう太陽の光が、慕わしくなる季節だったので、赤とんぼが、羽をかがやかして飛びかうばかりでなしに、子どもたちが、空き地へきて、うれしそうに、遊んでいました。ボールを投げるもの、まりをつくもの、おにごっこをするもの、たがいに楽しく遊んでいました。工場の裏では、秀吉が、目の前にせまった冬のしたくのため、精を出して、たどんをならべて乾かしていました。

このとき、あちらから、きみ子さんが、一枚のはがきを手に持って、表の方から、かけてきました。

「小僧さん、おはがきよ。」

そういいながら、きみ子さんは秀吉の前までくると、それを彼に渡したのです。

「ありがとう。」と、秀吉は、なにげなく受け取って、ながめると、

「あっ! おかあさんからだ!」と、さけびをあげました。よほど、うれしかったのでしょう。暗い元気のなかった顔がたちまち、ぱっと燈火のついたように、あかるくなりました。

これを見たきみ子さんは、

「おかあさんからなの?」といって、彼の胸の中の喜びを察するごとく、自分までうれしそうにはしゃぎました。

「おれから、たびたび手紙を出しても、ちっとも、たよりがないので、おふくろが病気でないかと心配していたんだ。いそがしくて書けなかったが、たっしゃでいると、ごらん、ここに書いてある。ああ、よかったなあ。」と、秀吉は、はがきをにぎって、こおどりしました。

「よかったわね。」と、きみ子さんが、心から思いやりのこもった調子で、いいました。

「こんなうれしいことはないよ。」と、秀吉は泣いたのでした。

この日から、彼はまた、さか立ちもすれば、歌もうたう、いつもの、ほがらかな小僧さんになったのであります。

武ちゃんと、健ちゃんは、この話をきみ子さんからきいたとき、ちょうど、ボール投げをしていたが、すぐやめて、きみ子さんのところへきて、耳をかたむけたのでした。

「小僧さんは、おかあさんからの、はがきを見ると、すっかり元気になったのよ。」と、きみ子さんは、いいました。

二人の少年は、顔を見合って、

「ああ、おかあさんのことか……。」

「おかあさんのことだったのか……。」と、たがいに、ため息をもらしました。

健ちゃんは、手ににぎっていた、ボールを地上に落とし、武ちゃんは、しばらくだまって、うなずいていました。

●図書カード

Chapter 1 of 1