Chapter 1 of 3

一 根本的用意とは何か

一概に文章といっても、その目的を異にするところから、幾多の種類を数えることが出来る。実用のための文書、書簡、報道記事等も文章であれば、自己の満足を主とする紀行文、抒情叙景文、論文等も文章である。

こゝには主として後者即ち文学的味いを生命とする文章を目標とし、特にその作法の根本的用意を述べたいと思う。

われ/\が、何か思うところ、感ずるところを書きたいと望むことがある。そこで、先ずわれ/\は、最初に自分の感じを抽き出す文字を、あれこれと選択しつゝ紙に書いてみる。それが自分の感じとぴったり合しつゝ書き進むるようならば、もう文章のある域まで達したのであるが、これと反対に思うところ感ずるところが、一字一行にも骨が折れてどうにも書き進められない場合がある。徒らに苦んだ果は、自分には所謂文章が書けないのではないかと絶望したような心持にさえなる。

もし諸君の内に、こういう場合にぶつかった人があれば、余はこう注意したい。

まず筆をおいて、単に文章を書こうとしたのか、それとも本当に書きたい思いや心持があって書こうとしたのか、そのいずれかを静かに考え返してみるがいい。そしてもし心の内に、美しい文字や流行の文句を使ってみたいから書こうとしたのだと心づいたら、それは一行の文章を成さなかったのが至当なのである。その人はそういう文章を作ろうとしたことに対して、まず愧じることを悟らねばならない。

もしまた已むに已まれない思いや心持があって、しかもそれが書けないのだとわかったら、それはむしろ一行の文章すら出来なかったのが不思議なのである。その人はその場合文字に拘泥した為めに書けなかったのか、それともまだ/\自分の思うところや感ずるところをはっきりと掴んでいなかったのか、そのいずれかの結果であると思わねばならない。

そこで、われ/\はこういうことが云えると思う。即ち文章とは、己が思想感情をそのまゝに披瀝することによって、初めて成立するものであると。

そこから、更にこういうことも云える。古来日本の文章には、何々して何々侍るというような雅文体や、何々し何々すべけんやというような漢文体なぞが行われてはいるが、それはある時代のある人々の心から、必然に生れ出た文章であって、決してわれ/\新時代の人の新しい心の表現の範とすべきものでない、われ/\は鉋迄もわれ/\の新しい思想や感情に即することによって、新しい文章を作らねばならぬと。

これだけのことは、諸君はよく自覚して欲しい。

以上は、文章上の極めて初期に属する場合であるが、更に稍々進んで、ある程度まで自分の思想感情を文章となすことが出来る域に達した人は、往々一つの危険に出合うのである。それは自分の思想感情を、多少自由に表白することが出来るようになったところから、思想感情のありのまゝを伝える素直な純真な文章ではもの足らなくなって、強いて文字の面を修飾し誇張しようとする弊である。

修飾や誇張は、その人の思想感情が真に潤沢になり豊富になり、熱情を帯びるに至った際に初めて借りるべき一手法である。何等内部的の努力なしに、文章上の彫琢をことゝするのは悪戯であるといってよい。

そこで、余はそういう人々に向って、次のように問おうと思う。

「何のために書くか」

「何故に書くか」と。

何のために書くかの問いに対しては、自己のために、もしくは人々の為めにと答えることが出来る。何故に書くかの問いに対しては、享楽の為めに、已むに已まれぬ内心の呼びの為めに、もしくは人々を教え、人々に告げたい為めにと答えることも出来る。

これらの答の当否は、今こゝでは別問題として、「何のために書くか」「何故に書くか」を自分自らに問うことは、文章を書く上に必らず判然しなければならない根本問題であることを注意したい。

漠然と文章を作るのは、無意味である。文章を書く際には、少くとも常に如上の自覚に立つことを忽にしてはならない。

文章上の根本用意として、以上のことを述べて置く。

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