Chapter 1 of 5

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底冷えのする寒さで眼がさめた。夢からさめたあとの味気なさのせいでもあるが横の蒲団に枕をならべて眠っている妻と子供の顔が鈍い電灯の灯かげの中にたよりなくうきあがって見える。自分の力で支えきれないような不安がどっと胸にこみあげてきたのである。生活の重みに堪えられないというかんじではなくずるずるとすべり落ちた小市民的な感情の中で何時の間にかわれとわが運命の落ちつくさきを思いがけなくも見届けたという気もちなのである。すると、眼にうつる部屋の中の調度や、床の間をうずめている子供の玩具類までが、どっしりと根をおろした生活の中でまだ完全な父親としての覚悟を持ちきれないでいる自分の心に、もうどうにもぬきさしのならぬ人間生活の一断面を見せつけるような宿命感を呼びさますのである。ああこれが生活の実体であった、――と今更のように考えなおさずにはいられないような瞬間の佗びしさに胸をしめつけられるような思いで鷺野伍一はそっと起きあがるとすぐに雨戸をあけた。不意につめたいものが頬をかすめて吹きつける粉雪の白さが眼に沁みるようである。伍一は慌てて雨戸をしめると、

「おい、雪だよ」

と浮ついた声で、眠っている妻をよびおこし、そのまま蒲団の中へもぐりこんだ。妻の登代は「う、う」とうめくように呟きながらうす眼をひらいたと思うと添寝をしていた四つになるマユミ(女の子の名前)の、蒲団のそとへはみだした肩を片手でおさえながら自分の方へひきよせた。もうそろそろ三月だというのに季節はずれな気候の変化がだしぬけにひとすじの明るさを彼の胸にそそぎいれた。言って見れば残された青春のまぼろしを心のどこかにさぐりあてたというほどの気もちで彼は雪が二日も三日も降りつづいてくれればいいがと心に念じながら、そのままぐっすりと眠ってしまったらしい。まもなく、誰かが玄関口でさけんでいる疳高い声が聞え、やがてせきこんだ調子のするどさがうつらうつらとしている伍一の神経にチカチカと迫ってくると、彼は急に不穏な予感に襲われながらとび起きた。

玄関の障子の前に立っているのは二、三日前にわかれたばかりの従弟の小橋多吉であった。彼は半分すぼめたままの雪の降りつもった傘を格子戸の上に立てかけたまま伍一の顔を見ると飛びつくような声で、

「知ってますか、今朝のことを?」

雪の中を外套も着ないで歩いてきたのであろう、よれよれの紺絣の着物がびしょびしょにぬれているのも平気で、

「いよいよはじまったんです、――今朝」

こみあげてくる声が咽喉につまって、彼の眼が急に異様な輝きを帯びてきた。

「何がさ?」

と言いながら伍一はわざとらしくつめたい表情をしてみせた。その手に乗るものかという気もちである。しかし、そうは言っても、何時もの、途方もないことをしゃべりだしては伍一の感情を大きくぐらつかせておいてからその隙にうまい口実を見つけだして小遣をせびってゆくときのあの多吉とは少し様子がちがうようでもある。前の晩にやってきた代々木の叔母から、多吉がちかごろ近所の鰻屋の娘に夢中になってそのために方々の知合いに不義理をかさねて困っているという話をさんざん聞かされたあとだったので、多吉の思いつめた真剣な表情にぶつかると伍一はふふんと鼻であしらうような恰好をしないではいられなかった。

「えっ、――ほんとにどうしたんだい?」

「新政府が、――新政府が出来るんですよ、今朝いよいよ」

吐き出すような調子で多吉が声をはずませた。

「新政府?」

「じゃあ――」

と、彼はもどかしそうに、

「知らないんですね、今朝のことを、――総理大臣から要路の大官まで根こそぎにやられたんです。日本はこれからどうなるかわかりませんよ」

青くひきしまった彼の頬がぴくぴくと顫えた。

「いよいよ」

と多吉は半分あけ放したままになっている表の木戸口を振りかえりながら、「われわれの時代が来ましたよ。――黒幕には丈ちゃんがいるんです、みんな丈ちゃんの立てた計画どおりになって」

落ちつこうとあせればあせるほど声の調子はますますみだれてくる。あとからあとからとこみあげてくる昂奮のために心の平衡をうしなった彼の眼がどうにも収拾のつかないほど湧きかえる空想の焦点を定めかねて戦くように顫えているのを、伍一は半ば気圧されるような思いでしっかりとうけとめながら、

「とにかくあがったらどうかね。そんなところに立っていないで」

「そうしちゃあいられないんですよ、今日一日が勝敗の瀬戸際なんです、いざとなったら僕も一役買って出なくっちゃあ」

「買って出るって――?」

「何も彼も根こそぎに変ってしまうんですよ、ああ何も彼も、とにかくバタバタと事は決ってしまうんですからね」

「まア、それにしても」

と言いながら伍一は玄関の左手にある応接間の扉をあけた。多吉もあとからついてあがって来たが籐椅子によりかかると女中の持ってきた番茶をひと息に飲みほし、

「とにかく大へんなことをやりましたよ」

と、ケロリとしている伍一の顔を不満そうに眺めながら、その日の未明に蹶起した青年将校の一団が幾手かにわかれて要路の大官の屋敷を襲い、今、警視庁を占領してそこに立てこもっているというはなしをしたあとで、

「僕も、――」

と言ってから、しばらくもじもじしていたが、

「いよいよ、立つときがきましたよ、時が来たんです、時が」

ひとりでに胸の底からのぼってくる言葉をどうにもおさえきることができないというかんじだった。そこへ、台所口で近所の薬屋の御用聞きと話をしている登代が扉のそとから呼びかけた。

「大へんよ、――今ね、あそこで電話をかけているひとのはなしをきいたんだけど、今朝、総理大臣も教育総監もそれから大蔵大臣もみんな殺されてしまったんですって」

「ほんとうかい?」

と言いながら伍一はやっと意識の上にうかびあがってくる現実の情景を頭の中にハッキリ描きだした。多吉の話をきいているときには何か空虚な空々しいものがかんじられて、半信半疑でいたものが急に防ぎきれない力となって身近に迫ってきたのである。

「とにかくおれは舟形の家まで行って来よう――ことによったらその足で東京まで行くことになるかも知れないからね」

もう押しかくすことのできない心の狼狽を多吉に見透かされないために、「まあ酒でも一ぱいひっかけて落ちついた方がいいよ、おれはすぐかえってくるからな」

と、わざと落ちついた声でにやりと笑ってみせてから急いで洋服に着替えると廊下の柱を両側からおさえて二、三度ぶっつかってみた上に、こんどは畳の上で四股を踏む真似をして左右の足の弾力をためし、さあ来いという身構えをつくりあげてから玄関へ出た。「大丈夫?」と不安そうによびかける妻の声をうしろに聞きながして格子戸をあけると、伍一は急に自分の肉体に思いがけない変質作用が起ったような緊張を覚えた。降りつもる雪のためにかたちを変えてしまった市街の輪廓や、遠い森や丘までが彼の眼にはまったくあたらしいもののように映ってきて、その朝、眼をさましたときのもやもやとした不安の性質が自然現象の変化をとおして彼の心の中にぬきさしのならぬかたちを現わすのであった。それは当然起るべきことが起ったというかんじではなく、もはや自分の力で推しはかることのできない運命に身をまかせているような気もちである。雪の中を歩いていると個人の力で防ぎきれない悲惨な情景がすでに遠くすぎ去った歴史のうすくぼやけた回想の中にうかびあがる一つ一つの場面のように彼の頭をかすめるのであった。するとあたらしい空想に胸をときめかせている多吉の顔も何時の間にかこの運動の外廓的な雰囲気の中に陥ちこんでいったらしい多吉の兄の丈吉の顔も、すべて歴史の断面をよぎる無数の幻影の中の一つのように思われてくる。そう言えば多吉のような男はこういう変乱のどさくさの中には昔から数かぎりなくあった民衆煽動者の一人にちがいないであろう。自分がどんなにすぐれた男であるかということを自分に言いきかせないでは一日たりとも生きられないような不安が、彼にしてみればこの偶然のきっかけの中で「時が来た!」とよびかけるのも当然であるが、しかし、それも彼が民衆の代表者となろうと考えているわけではなく、何かこの混乱の動きに調子を合せないではいられない気もちなのである。伍一はこの二、三年間、彼の家にずるずるべったりの居候生活をつづけてきた多吉が、現実の惨苦を身にしみじみと味えば味うほど、貧困の中に喘いでいる彼の一家を何とかして救い出そうとあせりぬく気もちを道化じみた彼の姿勢の中からかんじないではいられなかった。まかりちがったらおれだって文芸院総裁ぐらいにはなれるぞ、――と本気で自分にささやきかけながら精一ぱいの幻覚をもちこたえている彼の顔が急に伍一の頭の中で言われようのないいじらしさをもってはればれと輝いてくるのである。それと比べると多吉の兄の丈吉の顔は切実な現実の中からうかんでくるだけに悲劇的な印象によってぬりつぶされてしまっている。自分の身にふりかかる危険の予想はむしろ丈吉のひた向きな感情の中に芽をふいているとも言えよう、――伍一はひやりと胸に来るものをかんじて足早にあるきだした。

舟形の家は彼の家から十町足らずのところにある。郊外の屋敷町はしいんとしずまりかえってときどきトタン屋根からすべり落ちる雪のかたまりがずしんずしんと大きな音を立てた。舟形は戸をしめきった二階の書斎の中でぼんやり机にもたれていたが勢いこんで入っていった彼の顔を見ると、

「どうだい?」

とせせら笑うような微笑をうかべた。「何かはじまったそうじゃないか、――」

「だからさ」

伍一は長火鉢の前へぐったりと腰をおろした。「今日の結婚式はどうなるのかと思ってね?」

「別にどうというわけでもないだろう、おれたちにとっちゃあ」

舟形は高をくくったような落ちつきを見せながら言った。「正午すぎになってから出かけてみようと思うんだがね――」

その日彼等の先輩である老作家、秋山無弦の長女が新進作家の高垣と結婚することになって舟形はその媒酌人になっているのである。しかし、此処で舟形とはなしているともう事件は疾っくに通り去ってしまったような気もちになり、考えようによっては朝飯も喰べずに家をとびだしてきた自分が多吉と同じ幻影におびやかされているようにも思われてきたが、「とにかく雪見酒で景気をつけてから出かけようよ、どうジタバタしたところで今から仕方がないんだから」と言いながらニタリと笑う舟形の顔を見ると、急に一刻もじっとしていられないような焦躁に襲われるのであった。もう一本もう一本と何時の間にか腰を落ちつけて飲み出そうとする舟形を無理にせきたてるようにして外へ出たのは正午少し前で、雪はもうすっかりやんではいたが灰色の空は前よりも一層重苦しい色に掩われ雪の道は歩くごとにつるつるとすべるほど氷りついていた。市場の前から出るバスで国道へ出て通りかかった円タクに乗換えると、「やりましたね」――と若い運転手がはずみのついた声でうしろを振りかえった。何時何分に誰が殺されて誰が助かったというはなしを彼は得意そうにまくしたてたあとで、「どうなりますかね、これからの日本は?」

伍一がだまっていると彼はあの大蔵大臣だけは生かしておきたかったとか、こんなにバタバタやられたんじゃあ今に大臣になり手がなくなるんじゃないかと、ひとりごとのように呟いていたが、自動車が東京へちかづくにつれて窓にうつる街の空気はしいんと鳴りをひそめながらも何処かに無気味なものを孕んでいることが眼に見えるようであった。森川町へゆく舟形と日比谷の交叉点でわかれると伍一はざわざわとうごく人波を押しわけてその日の朝、暴徒に襲われたというA新聞社の方まで歩いていったが、町角や電柱の前にかたまっている群集の眼はやっとひと幕終ったあとの次の舞台を待ち望んでいるような好奇の感情にみちみちていた。襲撃された筈のA新聞社の前には自動車が二、三台置いてあるきりで格別変った様子もなかったがひっそりとしているだけに不穏なかんじがまだ何処かに翳をひそめている。何処へ行くというあてもないので伍一は急に新聞社をたずねる気もちになり訪問用紙に名前を書いて三階の応接室へ通されるとまもなく学芸部員の後藤が何時ものような落ちついた顔をしてはいってきた。彼は咳きこんだ態度で軍隊の動静をたずねる伍一の顔につめたい微笑をなげながら無感動な調子で殺された大官の名前をあげてから、「此処へも特務曹長の肩章をつけた男が五、六人の兵士をつれてやってきたそうですがね、工場へ入って活字のケースをひっくりかえしていったくらいで、――」と言いながら急に言葉を外らすのであった。何れにしても若い将校たちの蹶起が民衆の感情と何処か微妙なところで喰いちがっていることを伍一は昂奮に声を顫わせてまくしたてたが、しかし、相手が一向乗って来そうにもないので拍子ぬけのしたかたちで、「じゃあ」といって立ちあがった。その足ですぐちかくにある「日本新聞聯盟」を訪ねると顔見知りの社員が四、五人ストーブをかこんで何かしきりに話しこんでいた。何処にもまだ正確な情報は入っていないらしく、陸軍大臣が射殺されたというような情報が入ってきたと思うとすぐそのあとから流言だということがたしかめられるというような程度で、次から次へと伝えられる噂を耳にしているうちに、不穏な空気の中で少しずつ民衆の感情からはなれてゆく将校たちの存在が、伍一の頭の中で次第に悲劇的な色彩をふかめて描きだされてくるのである。雪の夜に死を決して立った若い将校たちの顔が、殺された大官よりも一層悲劇的な印象を彼の心によび起すのも不思議であったが、しかし結局残るものは正義が何処にあるかということではなくてチラチラとひらめくようにとおりすぎる劇的な場面への追想だけであった。間一髪のところで民衆とのあいだに大きな溝の出来あがってしまったことが今となると急に惜しいことのようにも思われ、変化の行末を見届けたという気もちが、もう一度あたらしい幕のひらくのを待っている民衆のざわめきの中に何時のまにかまぎれこんでいる自分の姿をかんじさせるのであった。謄写版刷になった報道が入ってくるごとに伍一は一つ一つ丹念に眼をとおしていったが数時間のあいだにじりじりと攻勢から守勢にしりぞいた青年将校の動き方には一つのことをやり終せたという落ちつきがあらわれ、それが知らぬ間に彼の心の中で空虚な、白けた敗北的なかんじに変りかけていた。全国から若い同志が民間の情熱をすぐって立つという最初の予想さえも次第次第に影のようにうすれかけているのである。夕方そこを出た伍一が、その夜の結婚披露の宴席である東京ビルデングの地下室にあるレストランの扉をあけたときにはもう控室は半数以上の来会者で埋っていたが、彼が入ってゆくと、

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