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三等郵便局
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三等郵便局
尾崎士郎
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번역 Pagera AI
원문 Public Domain
Chapter 6 of 7

六

一ト月経った。わたしはある海岸に肺病を養っている友人を訪ね、二、三日泊って帰ってくると机の上に一通の電報が置いてあった。

アニキトクスクコイ 発信人のところには母の名前が書いてあり、受付の日附は前日の夜の九時になっていた。

わたしは電報をひろげたまま茫然として立っていた。最初頭の中を病みほほけた兄の顔が現われた。そして、わたしの方を向いてにやりと笑った。わたしは自分の心が烈しく打ちのめされたのを感じた。それは朝であって梅雨晴れの陽ざしが開け放した南向の窓から室中に流れこんでいたが、わたしは自分の身体が薄暗い影の中に立っているような気がした。すべての考えがわたしの心の中で位置を変えはじめた。どうしていいのかまるでわからなかった。一種名状しがたい――それは言わば何か神秘な妄想がわたしの頭を充しつつあるような――不安がわたしの上にのしかかってきた。しかし、未だそれだけで兄の死を信ずることが出来なかった。いや、ことによるとこの電報すらも、彼のたくらんだ一つの芝居に過ぎないのではないか。そういう気持が、きれぎれにわたしの心を支配した。その疑いは、翌日の午後、彼の死顔の前に坐るまで続いた。

兄は死んでいた。家の中は恐しいほどひっそりとしていた。兄の枕元には母が一人だけ坐っていたが、彼女はわたしの顔を見ると声をあげて泣きだした。

壁に沿うて敷かれてある蒲団の中に兄の死骸はわたしたちの方に背を向けて横わっていた。頭には白い繃帯がぐるぐるに巻かれてあったが、繃帯のところどころに血の色が黒い汚点を残していた。壁の方を向いて彼の顔は少しの苦悶の様を止めずに口をぽっかりとあけていた。

灰色になった首筋に鳥肌が立っているのを見るとわたしはどきっとしたが、しかし、直ぐにこの異常な情景はわたしの現実感を遠くへ追いやってしまった。わたしの心は冷かであった。何の感動もない数分間が過ぎた、そして、わたしは唯、母の歔欷く声を聞いただけであった。

「兄貴は自殺したんですね?」

わたしの声が妙にとげとげしく響いた。その声に応ずるように母は首をもたげたが、

「ああ、ピストルで――」

と言ってから急に調子を落して、

「どうしてこんな気になったものかの」

と呟くように附け加えながら、外光に反射する硝子戸の方を見詰めていた。

やっぱりそうだったのか、とわたしは思った。数年前に感じた凶兆をまざまざと眼の前に見せつけられたような気がしてきた。するとわたしの不安はおそろしい速度で廻転しはじめた。

「真逆、公金を費い込んだんじゃあるまいね?」

わたしは発作的に頭の中に閃いた一つの疑いを母の顔の上に投げつけた。

「莫迦な――そんなことが」

と言いながら母はわたしの視線を避けるもののようにうつむいてしまった。

「何か遺書のようなものはないんですか?」

「さあ、それが、――何が何だかわたしにも少しもわからないんだよ。一昨日の朝なぞ、とても機嫌がよくてはしゃぎ廻っていたんだがね。別に気にかけているようなこともなかったようだし、夜も此処で一人で本を読んでいたようだったがね。そいでも虫が知らせるというものか、あの晩にかぎってわたしはどうしても寝就かれんのじゃ。一時過ぎじゃったと思うが大きい声で春代を呼んでいたがそれも二、三度呼ぶと止めてしまった。それから暫く経って忍び足でわたしの室までやってきて蚊帳を覗くようにするので、わたしが声をかけると笑いながら、お前は未だ起きていたのか、おれは今夜は調べ物があるからもう少し起きているのじゃが急須が無いんで探していると言うから、急須はたしかお前の室にあった筈じゃがと言うと、ああそうか、それはうっかりしていたと言いながら行ってしまった。そのときは気にもとめなかったが今から考えるとあのときの様子が変じゃった。それから十分とたたない間におそろしいピストルの音が聞えたのじゃ。驚いて行ってみると机の前にぶっ倒れていた。血が額からどくどくと出ての、それでも呼吸だけは長い間続いていたが、もう物を言っても何にもわからんのじゃ。わたしは思いだすのもおそろしい――」

母はまたおろおろ声になった。

壁一重によって劃られた事務室の方からは慌しくスタンプを捺す音が聞えてきた。その音がわたしの頭の中に沁み透るようにひろがってきた。長い間聞馴れた音であった。だが今はその音が空虚な家の中に、嚇すような響きをもって伝わってきた。

「お前は一眠りしたらどうかな」

と、母が心配そうに言った。

「ああ、そうしようか」

わたしは長い旅の疲れを始めて後頭部のあたりに感じた。じっとして坐っていると無数の人声がもつれるように遠くから呼びかけてくるような気がした。わたしは逃れられない一つの危険に当面している自分の心をありありと感じないでは居られなくなった。わたしは不意に立ちあがった。そして、廊下へ出ると、事務室との境になっている扉を勢いよくあけた。何かしら一つの力がわたしの身体を其処へ追いやってしまったような気持であった。

背の高い男が、往来に面した事務机に倚りかかって、一束のハガキにスタンプを押しているのであった。その男はわたしの入っていったことにまるで気をとめていないようであった。まだ十五、六と思われる木綿の棒縞の単衣に裾短かく袴を穿いた小さい事務員が区分棚の前に立っていた。彼はちらっとわたしを見たがその儘視線を横へ外らせた。突きあたりの格子戸に隔てられた交換室から若い女の忍び笑うような声が聞えた。机にも椅子にも見覚えがあった。だがすべてが見馴れた光景でありながら、この室の中の空気が自分にとって急に冷たくなってしまったような気がした。

左側の壁とすれすれに置いてある兄の机の上には五、六冊の出納簿が重ねてあり、その上に黒い革の巻煙草入が口をあけたままで載せてあった。そこには今まで誰かがいたことを思わせる煙草の吸殻が、かすかな煙を立てて灰皿の中にころがっていた。

古さびた出納簿の赤茶けた表紙の色がわたしを惹きつけた。それは、父と兄とが数年前に一冊の開かれた出納簿をまん中にして向い合っていた一夜の情景を、太い綱をもって手繰り寄せるように、次第に鮮かな形を示してわたしの頭の中に映じだした。忘れがたい瞬間であった。そのとき、わたしの正面にあたる柱の上に大きな八角時計があった。表面の硝子は埃りのために黄色くなってくすんで見えた。それが子供の頃から今と少しも変らない同じ場所に懸っているということが何とも知れず不思議なことのように思われる。その前で、毎日のように叔父が爪立ちをしながら饒舌りつづけていたのだ。時計は無気味な音を立てて、時を刻んでいる。その音はわたしの心の底に眠っている十年前の不安の一つ一つを呼び醒ましてゆくような気がした。

そのとき、表の開き戸があいて、洋服を着た一人の男が入ってきたのだ。一瞬間、彼の身体は夕陽の中に硬直したようになって動かなかった。

その男は背の高い事務員の方に近づいていった。そして、机の上に首を屈めるようにして話していたが、わたしはときどき彼の陽にやけた顔から流れてくる睨むような視線を感じた。彼とわたしとの距離は一間ほどしかなかったのにもかかわらず、彼の眼は非常に遠いところにあるような気がした。しかし彼はすぐにわたしの方を向いて軽い会釈をした。

「弟さんですね?」

低い声であったが、わたしはほとんど直覚的に彼が名古屋の管理局から派遣された視察員にちがいないことを感じた。

「とんだことになりましたな。わたしも兄さんとは一面識だけあるんですがね、今度はまたへんな役廻りを命ぜられたわけです」

その男の言葉は、わざとらしい穏かさを含んでいたためにその一つ一つがわたしの胸を突き刺すように響いてきた。それから、彼は、もう一時間ほど経つともう一人ほかの視察員が来ること、二人で徹夜して調べ上げようと思っていること、そして、彼等の使命がわたしたちの生活を脅すような何ものをも含んでいないということを話した。

その男は兄の机に近づいて、無雑作に、其処に置いてあった黒い革の巻煙草入をとりあげた。

Chapter 6 of 7
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