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織田作之助
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Chapter 3 of 4

三

その元旦の夜、権右衛門夫婦はいつ迄も眼覚めていた。

権右衛門が便所に立つと、政江はその後に随き従い、権右衛門の手に手洗水を掛けた。月が凍っている様に白かった。

「こら、どうも。大きに、御苦労はん」

権右衛門は内心照れて言ったが、彼の言葉は照れてる様には聞えぬ。政江にとって頼もしい所以である。手洗水を掛けるために便所の外で待っているなぞ、ついぞした事がなかった。婦人雑誌で学んだことである。その応用が、この様に自然に運ぶことは、彼女の趣味に適っているのだ。意識的に示す媚態で赧くなったりするのは自他ともに嫌いである。また、助産婦見習時代から今日まで左様なことはなかった。権右衛門が又、彼女の媚態にはにかむ様な人でない。いわば堂々とそれを受ける、その態度も政江の心に適っている。例えば新婚初夜に於ける権右衛門の態度だ。床入りの盃が済んだ後、権右衛門は厳然として、言った。

「わしの様な者の所へ縁あってとはいいながら、よく来て呉れた。いま、わしは六百円しか財産がない。わしは、どうしても十万円の金を作ってみせる。その為には、どんな苦労もいとわぬし、また贅沢もせぬ積りだ。わしには四人の弟と二人の妹がある。一家の兄としてわしはこの目的を抱いた。お前もこのわしの目的をよくのみこんで、どうか、わしが目的を遂げられる様気張ってくれ」

その時彼女は両手をついて、

「よく言ってくれました。どうか、あなたはその目的を遂げて、立派に男として成功して下さい。私も児子家に来たからは、及ばずながら児子家の家長としてのあなたの目的をお助けいたします」

といったと、その後、屡々義妹たちに話した。無論、これはその時の二人の言葉通りではない。が、人々に話すにはこの様にいわば文章化さす方が少くとも政江には好ましい。

だから、今も、政江が、部屋に戻り権右衛門と並んで寝ながら、ふとその時のことを回想した時、頭に浮ぶのは、この文章化した言葉であって、決してごた/\した紀州訛のある方ではなかった。「十万円貯めてから後百万円出来るまでより、六百円の金から十万円こしらえる迄が苦労やった」とその後、屡々政江が人に語るその十万円貯める迄の苦心を彼女は回想した。ふと、権右衛門を見ると、彼も何か回想に耽っている様だった。想いは同じだと政江は何か愉しい気持で、炬燵の上に足を伸ばした。その為には、権右衛門の足に触れる必要があった。

権右衛門はしかし、往時を回想しているとはいえ、政江と同じ六百円から十万円貯めるまでの径路ではなく、無一文から六百円作るまでの、いってみれば、政江と結婚する迄のことを回想していたのだ。政江の足が触れた時、彼は、こともあろうに、若い日の恋人の事を考えていたのである。花子のことだ。

道頓堀、太佐衛門橋の橋上であった。その日は、父の歿後、和歌山県湯浅村の故郷を後に、きょうだい散り/\に自活の道を求めて上阪してから丁度十日目だった。職を探すべく千日前の安宿に泊っている内に、所持金を費い果して、その日は朝から何もたべていない。道頓堀川の泥水に川添いの青楼の灯が漸く映る黄昏時のわびしさを頼りなく腹に感じて、ぼんやり橋に凭れかゝっていると、柔く肩をたゝいた者がある。振りかえって、アッ! 咄嗟に逃げようとした。逃げるんかのし、あんたは。紀州訛だが、いや、そのために一層妙になまめいて、忘れもせぬ、それは十日前故郷を出る時お互い別れを告げるのに随分手間の掛った居酒屋の花子だ。(現在その女の本当の名を忘れているのだが、想い出す都度簡単に花子だとしている)あの時、一緒に連れてくれいうたのに、のし、どない思て連れてくれなかっちゃんならと、彼女は並んで歩き出すと、言った。後を追うて大阪に来た、探すのに苦労した、今はこの辺りの料亭にいる。誘惑が多いが、あんたに実をつくして、身固くしている。収入りがかなりあるから、二人で暮せぬことはない。あんたが働かんでもよい、私が養ってあげる。――ふん/\と聞いていたが、急にパッと駆け出した。道頓堀の雑閙をおしのけ、戎橋を渡り、心斎橋筋の方を走った。今の自分に女は助け舟だが土左衛門みたいに助けてもらって男が立とうか。土左衛門なら浮びもするが、俺は一生浮び上れなくなるのだ。権さん/\とよぶ花子の声に未練を感じたが、俺は十万円作るのだと、スリの様に未練を切って、雑閙の中を逃げた。(これらの表現は、権右衛門が屡々人に話す時の表現による)その夜、無料宿泊所のない時代(大正元年)のこと故、天王寺公園のベンチで、太左衛門橋で会った花子のことを悲しく想い出しながら一夜を明し、夜が明けると、川口の沖仲仕に雇われた。紀州沖はどこかと海の彼方をじっと見つめては歯をくいしばり、黙々として骨身惜しまず働いている姿を変ってると思ったか、主人が訊ねて、もとは魚問屋の坊ぼんであると分ると、可哀想だと、帳場に使ってくれた。お前はんは帳面付けする様な人ではないという定評が与えられた。如何にも、自分はこんな事をする気はない。月々定まった安月給に甘んでいて出世の見込みがあろうか、商売をするんだと、暇をとった。

一月分の給料十円を資本に冷やしあめの露店商人となった。下寺町の坂の真中に台車を出し、エー冷やこうて甘い一杯五厘! と不気味な声でどなった。最初の一日は寄って来た客が百十三人、中で二杯三杯のんだ客もあって、正味一円二十銭の売上げで日が暮れ、一升ばかり品物が残って夏のこととて腐敗した。氷三貫目代の損であった。翌日から夜店にも出て、三十銭の儲がある様になった。十日程経った頃だったろうか、千日前のお午の夜店で、夜店外れの薄暗い場所に、しかもカーバイト代を節約した一層薄暗い店を張っていると、おっさん一杯くれと若い男が前に立った。聞き覚えのある疳高いかすれ声に、おやっと、暗がりにすかして見ると、果して、弟の伝三郎であった。赤ん坊の時鼻が高くなる様にと父親が暇さえあれば鼻梁をつまみあげていたので、目立って節が高くなっている伝三郎の鼻の辺りをなつかしげに見た。伝三郎も兄と知って、兄やんと二十二の年に似合わぬ心細い声をあげて、眼に泪を浮べた。聞いてみると大阪へ来ると直ぐ板屋橋の寿司屋の出前持ちになったが、耳が遠くて注文先からの電話がよく聞きとれぬから商売の邪魔だと、今朝暇を出され、一日中千日前、新世界界隈の口入屋を覗きまわって板場の口を探していたが見つからず、途方に暮れていたところだという。話している内に道頓堀の芝居小屋のハネになり、丁度そこは朝日座の楽屋裏の前だったもの故、七八人一時に客が寄って来たのを機会に、暫く客の絶間がなかった。伝三郎もぽかんともしていられず、おっさん一杯といわれると、低声でヘイと返事し、兄の手つきを見習って、コップにあめを盛った。

翌日から、二人で店を張る様になった。儲けが少いし、二人掛りでする程でもないと、冷やしあめの車、道具を売り払った金で、夏向きの扇子を松屋町筋の問屋から仕入れ、それを並べて店を張ることにした。品物がら、若い女の客が少からず、殊に溝ノ川、お午など色町近くの夜店では、十六歳から女を追いかけた見栄坊のこと故伝三郎は顔がさすとて、恥しがり、明らかに夜店出しを嫌う風であった、のをたしなめて、板場なんかに雇われて人に頭の上らぬことするより、よしんば夜店出しにせよ自分の腕一本で独立商をする方が何んぼうましか、人間人に使われる様な根性で出世出来るかと、いいきかせた。持論である。

半月も経った頃だったろうか、確か上塩町の一六の夜店の時だった。人の出盛る頃に運悪い夕立が来て、売物の扇子を濡らしてはと慌てゝしまいこみ、大風呂敷を背負ったまゝあるしもたやの軒先に雨宿りした、が、何の因果かそこは妹のまつ枝が女中奉公している家だった。どうしてそうと知ったのか今は忘れた。がとにかく、何ヶ月振りかのまつ枝の顔をみた記憶はある。立ち話、という程でもないが、二言三言口もきいたであろうか。まつ枝の弟にあたる伝三郎が、「姉やん、えらい良えとこに居ちゃるんやのう」と言った言葉に記憶がある。かなり立派な構えのしもたやであったに違いない。そのとき、まつ枝の顔に困惑に似た表情が浮んだのを見逃さなかった。が、それよりも、こちらの方が困惑していた。夜店出しの兄弟をもってると知れば、まつ枝も我が主人に肩身も狭まかろう、夜店出しなどするものではない。――俄か雨に祟られたみじめな想いも手伝って、しんみりと考えた。

間もなく夜店出しを止めることにした。その時の想いが直接の原因だった。もう一つには、同業の者を観察して、つく/″\嫌気がさしていた。鯛焼饅頭屋は二十年、鯛焼を焼いている。一銭天婦羅屋は十五年、牛蒡、蓮根、コンニャクの天婦羅を揚げている。鯛焼が自分か、自分が鯛焼か、天婦羅が自分か自分が天婦羅か、火種や油の加減をみるのに魂が乗り移ってしまう程の根気のよさよりも、左様に一生うだつの上りそうにもない彼等の不甲斐無さが先ず眼につくのだった。八月の下旬だった。夏ものゝ扇子がもう売れる筈もなかった。売れ残りの扇子を問屋にかえしに行くと、季節も変ったし、日めくりをやってはとすゝめられたが、断った。「では、新案コンロは如何だす。弁さえ立てば良え儲けになる」断った。「人間、見切りがかんじんです。あかんと思うたらすっぱり足を洗うのがわしの……」持論にもとづいたのだ。

伝三郎と二人で借りていた玉造のうどん屋の二階をひき払って、一泊二十銭の千日前の安宿に移った。うどん屋の二階に居れば、階下の商売が商売故、たまには親子丼、ならいゝが酒もとる。借りの利くのを良いことにして量を過すのがいけないと思ったのだ。現にそこを引き払う時、払った金が所持金の大半で、残ったのは回漕店を止める時貰った十円にも足らぬ金だった。二人の口を糊して来たとはいえ、結局、冷やしあめ屋と扇子屋をやっただけ無駄となった訳だ。伝三郎はこれを機会に、生国魂前町の寿司屋へ住込みで雇われたので、料理衣と高下駄を買えと三円ばかり持たしてやった。それで所持金は五円なにがしとなった。

伝三郎を寿司屋へ送って行った帰り、寺町の無量寺の前を通ると、門の入口に二列に人が並んでいた。ひょいと中を覗くとその列がずっと本堂まで続いている。葬式らしい飾物もなし、説教だろうか、何にしても沢山の「仁を寄せた」ものだと、きいてみると、今日は灸の日だという。二、三、四、六、七、の日が灸の日で、その日は無量寺の書き入れ日だっせとのことだった。途端に想い出したものがある。同じ宿にごろ/\している婆さんのことだ。どこで嗅ぎつけて来るのか、今日はどこそこで何んな博奕があるかちゃんと知っているらしく、毎日出掛ける。一度誘われて断ったが、その時何かの拍子に、婆さんはもと灸婆であったときいた。それを想い出したのだ。宿に帰ると早速婆さんを掴まえて、物は相談だが、実は、おまはんを見込んで頼みがある。――

翌朝、二人で河内の狭山に出掛けた。お寺に掛け合って断わられたので、商人宿の一番広い部屋を二つ借りうけ、襖を外しぶっ通して会場に使うことにした。それから「仁寄せ」に掛った。村の到るところに、「日本一の名霊灸! 人助け、どんな病もなおして見せる。○○旅館にて奉仕する!」と張り出しをし、散髪屋、雑貨屋など人の集るところの家族にはあらかじめ無料で灸をすえてやり、仁の集まるのを待った。宣伝が利いたのか、面白いほど流行った。婆さんは便所に立つ暇もないとこぼしたので、儲けの分配が四分六の約束だったのを五分々々の山分けにしてやった。狭山で四日過し、こんな目のまわる様な仕事はかなわん、元手が出来たから博奕をしに大阪に帰りたいという婆さんを拝み倒して、紀州湯崎温泉に行った。温泉場のこと故病人も多く、流行りそうな気はいが見えたので、一回二十銭を三十銭に値上げしたが、それでも結構人が来た。前後一週間の間に、五円の資本が山分けして八倍になり、もうこの婆さんさえしっかり掴えて居れば一儲け出来ると、腰が抜けそうにだるいという婆さんの足腰を温泉で揉んでやったり、晩には酒の一本も振舞ってやったりして丁重に扱っていたが、湯崎へ来てから丁度五日目、ほんまに腰が抜けたと寝こんでしまった。按摩をやとったが、按摩の手では負えず、医者に見せると、神経痛だ。ゆっくり温泉に浸って養生するがよかろうとのことだった。まる三日婆さんの看病で日を費したが、実は到頭中風になった婆さんの腰が立ち直りそうにもなかった。宿や医者の支払いも嵩んで来て、下手すると無一文になるおそれがあると、遂に婆さんを置き逃げすることに決めた。人間見切りが肝腎。――

――が、今も、いやな事ながらその婆さんの顔が彷彿として浮んで来る。小柄で常に首をかしげている、それだけなら往々にして可憐に見える恰好なのだが、この女の場合、顎がしゃくって突き出ているから、いっそ小憎い。それだけに同情の念が薄らぐのだが、その代り、祟りというものがあるなら、こういう婆さんこそ一層恐ろしいのだ。何れにしても寝覚めの良いものではない。というのは、いってみれば、この婆さんを踏台にして、以後トン/\拍子に浮び上って行ったからだ。――

湯崎から田辺に渡り、そこから汽船で大阪へ舞い戻った。船の中で芸者三人連れて大尽振っている中年の男を見つけ、失礼ですが、あんさんは何御商売したはりますのですか、ときくと、男は哄笑一番、やがて、連れの芸者にはゞかるのか低声で、もと紙屑屋しとったが、今はこないに出世しましてん。大阪に戻ると、早速紙屑屋をはじめた。

所持金三十円の内、六円家賃、敷金三ツの平屋を日本橋五丁目に借りた。請印は、伝三郎が働いている寿司屋の主人に頼んだ。日本橋五丁目の附近には、五会という古物露天商人の集団があり、何かにつけて便利だった。新米の間は、古新聞、ボロ布の類を専門にしていたので、ぼろい儲けもなかったが、その代り、損もなかった。馴れて来るとつい掘出物をとの慾も出て、そんな時は五会の連中に嗤われた。はじめてから三月程経ち、切れた電球千個を一個一銭の十円で電灯会社から買取り、五会の古電球屋に持って行くと、児子はん、あんたは商い下手や。廃球は一個二厘が相場やというのである。古川という電球屋はしかし、暫く廃球を調べてから、おまはんの事やから、まあ一銭で買うたげる、といってくれた。二厘の相場のものを一銭とはと不審に思い、その後、用事のある無しにつけて、古川の店に出入りしている内に、分った。廃球の中に、「ヒッツキ」というのがある。線が全然切れてしまわず、片一方外れているだけで、加減すると、巧く、外れた場所にヒッツクのである。灯をいれると熱で密着し、少くとも四五日は保つ。それを新品として安く売るのだ。「白金つき」というのがある。電球の中には少量だが白金を使用しているのがある。つぶして、ガラスと口金の真鍮をとったあと、白金を分離するのだ。白金は一匁二十六円で、一万個から多くて二匁八分見当とれる。「市電もの」というのがある。市電のマークのある廃球のことで、需要家は多く市電から電球を借りているのだが、切れゝば無料で引き換えてくれるけれど、割れゝば一個五十銭弁償しなければならぬ。その時に、たとえば古川の店で「市電もの」の切れたのを一個十銭で買って、それを電灯会社で新品と引換えてもらうとすれば、差引き四十銭得をすることになる。買うたといわんといとくれやすやという言を守ればいゝ訳である。「ヒッツキ」「白金もの」「市電もの」の多くまじっている廃球ならば、だから一個一銭の割でも結構儲る訳だ。――

と、知って、翌日から、廃球専門の屑屋となった。大八車を挽いて、「廃球たまってまへんか」と電灯会社や工場を廻った。一個三厘で買い「ヒッツキ」と「市電もの」は古川に一個五銭で売り、「白金もの」は自宅で分解することにした。分解の方法を古川が容易に教えぬので、一夜芝居裏の遊廓で転び芸者を抱かせてやる必要があった。その時、附合いに放蕩したが、想えば女の肌に触れるのは一年半振りのことだ。どんな芸者だったか、たしかに印象浅からぬものがあったが忘れてしまった。それより、古川の抱いた芸者の顔に記憶がある。花子に似ていたからだ。酔っぱらった古川が、尻をまくりふんどしを外して、乱舞しながらその妓に悪戯するのを、見るに忍びぬと辛い気持だった。商談が大切だと、辛抱して調子を合わせていたものの。

その後、古川が故買の嫌疑で拘引されたときいて、その時の溜飲が下がった。が、旬日を出でずして、自分にも呼び出しがあった。古川の「市電もの」売買に関係してゞはなかろうかと蒼くなった。溜飲が下るどころではない、こっちも危いのだと、女のことに拘泥っていゝ気になっていた自分の甘さを固くいましめた。警察の呼び出しは、しかし、自転車の鑑札並に税金のことだった。ほっとし、以後、税金は収めることにした。自転車はその頃雇った春松の使うものであった。屑屋をはじめてから一年足らずで、もう雇人を使う身分になった。現金と、品物を合わせて五百円近くの金があった。煙草一本吸わなかったのだ。十六の春松がませて、こっそり女郎買いに行くのを見ると、心そゝられぬこともなかったが、女の肌ざわりよりも紙幣の肌ざわりの方がよかった。一枚々々皺をのばして、胴巻きにしまっているものを、見す/\あっという間の快楽のために失ってなるものか。春松は遊びが好きで困り者だったが、その代り、白金分離の仕事はまことに鮮かだった。先ずガラス棒を火で焼き、それを挽臼で挽き砕いて、粉にする。それを木製のゴマいりにいれ、たらいの水の中で静かに揺り動かすと、白金まじりの金属が残って砂粉だけが水の中に逃げる。その手加減がむずかしいのだ。少し手元が狂えば大切な白金が逃げる。春松のゴマいりを揺り動かす手付きは、見ていて惚々するほどで、しかも逃げた砂粉を再び何度も/\ゴマいりにいれて、いってみれば、女が蚤を探す時の熱心さがあった。尚、春松は炊事も上手であった。鰯の煮物を作るにも、しそと土しょうがをいれ、酢と醤油以外に水を使わず、些も生臭味の出ない様に煮るこつを心得ているといった風で、やもめ暮しに重宝であった。が、ある日、春松は雨の土砂降りの中を廃球買いに出歩いたのが原因で、感冒を引き、肺炎になった。三十九度五分の熱が三日も下らず、派出看護婦を雇った。二十二三の色黒い器量のよくない女であった。が、何となく頼もしく、同じ家に寝泊りしているので自然情も移るのだ。何かの拍子に、裾が乱れて浅黒い脛がちらと見えた、それが切っ掛けで、口説いて、というより殆んど行動に訴えたら、脆かった。政江であった。間もなく結婚した。大正三年の二月、たしか節分の夜で、雪だった。――

権右衛門のその夜の回想は、以上に止まらぬ。が、前述の通り既にこの結婚の時は六百円の金を貯めていたのであるから、一先ず、こゝで打ち切ってもよいだろう。以後は、政江の回想に待つ可きが順序だ。結婚式の夜の権右衛門夫妻の意義ある会話に就ては前に述べた。この夜の前後のことで、述ぶ可きことは多い。が、それは二人の果てしなき回想に任して置く方が賢明だ。こゝでは、結婚の費用に、権右衛門が七百円の金を費ったことを一言して置く。つまりその時彼は千三百円もっていたが、七百円結婚に費って六百円(これは在庫品も勘定にいれて)残ったことになる訳で、これは、一般の常識からいってもなか/\思い切ったことである。彼にとっては暴挙にひとしいと一応考えられる。が、この七百円は前から所持していた金ではない。彼が、結婚に際し、いわば結婚記念にばた/\と一儲けした金である。その必要があったのだ。伝三郎の言を借りると、「結婚まえに、もうお祭りが済んでいた」訳だが、児子家の家長が多少の金を節約したさに然るべき式典を経ずして結婚するなど、権右衛門の潔よしとせぬところだったのだ。冠婚葬祭を軽んずる様で人間出世は出来ぬという信念をもっている。と、同時に、虎の子の貯金全部投げ出して立派な結婚式をあげたが、その時は無一文だったという様なことも、彼のとらざるところだ。だから、その際、結婚費用を一儲けせずんば止まなかったのだ。

それには、危い橋を渡る覚悟があった。その頃、小っぽけな電球の町工場をもっている松田という男に、口金代百円許り貸していて、抵当に電球三千個とっていた。百円の金が払えぬ丈あって、松田は如何にも意久地ない男だった。彼は、自分の姓が松田というところから、自分の製品にマツダ電球というマークをつけていたが、本物のマツダランプは一流品で、町工場の製品が一個十銭とすれば、少くとも一個三十銭の価値がある。だから、当然、マツダランプから松田に抗議があった。それを、松田は突っ放せぬ、どころか、商標偽造で訴えられる心配までしているのだ。マツダとマークするからは最初から腹を繰っていた筈だのに、所詮は、金儲け出来ぬ男だと、権右衛門は松田をおどしたり、そゝのかしたりした揚句、有金全部はたいて、松田の製品を殆んど買い占めてしまった。名目は抵当物品ということにした。松田が訴訟を起されて負け、マツダランプから製品を押えに来たが、権右衛門の抵当物品故手を触れる訳に行かなかった。困り抜いたマツダ側と交渉した時の権右衛門の押しの強さには、松田もあきれてしまった。結局、マツダ側は、マツダランプ並の値で買取らされてしまった。放って置けば「マツダ電球」なる粗悪品が流布し、マツダの信用にかゝわるという弱味だ。その時の儲けの幾何かを口銭として松田に与えたその残り、即ち権右衛門の純利益が七百円だったのだ。――

この話をきかされた時、政江が如何に権右衛門を頼もしく思ったかは、想像に難くないであろう。彼女は権右衛門に希望をかけた。婚礼の翌日、彼等が食べた昼食は、麦飯に塩鰯一匹であった。大阪では節分の日に麦飯に塩鰯を食べるのが行事の一つと成っている。婚礼の日は節分だったから、つまり一日延ばして売れ残りの安鰯で行事をすませた訳だ。が、この行事はその日のみに止らず、その後日課となった。六百円から十万円貯めるまでの苦心中、彼女が誇って良いのはこの一事である。最近伝三郎がこの行事を見習っている。が、彼は鰯が好きだから、むしろ贅沢になる。季節外れや走りの鰯をたべたがるからだ。政江の苦心とは少々違うのである。もう一つ彼女が誇って良いのは、その後、権右衛門の弟たちが兄のお蔭で商売が出来る様になった時、彼等に資本を貸すと、必ず目立たぬ程度に利子をとる様に権右衛門を強制したことである。目立たぬというのは、その利子の取り方が貸金の何分というのでなく、その貸金を資本に儲けた額の何分というのである。儲かる見込の無い時は無論貸さない。確実で、普通の利子より多くとれるのだ。三亀雄はいざ知らず、伝三郎など、見栄をはって儲けを誇張する癖があるから、随分損な勘定だと、時々伝三郎の妻はこぼしたものだ。誰でも人に好かれたいものだから、こういう政江のやり方は、容易に実行出来るものではない。夫の義弟達の上前をはねて憎まれるのも皆夫の為を想うからだ、と堅く腹をくゝっていたなればこそではないか。

こういう政江を権右衛門は多としていた。権右衛門の偉さの一つは、「差出がましゅうございますが――」という政江の意見に抗わなかったことである。政江としても、やり易かった訳だ。

が、政江の回想では、この事がいちばん辛かった事として泛んで来る。夫と義弟達の間に立って随分泣く想いをしたというのである。所詮男は我儘故、女の苦心が分らぬ、蔭で泣いたことがどれ位あるかというのだ。少くとも、彼女はそう思っていた。だから、六百円から十万円作るまでの苦心の中、彼女が強調するのは常にこの一事だ。が、それだけで、如何にしても十万円は無理である。故に、彼女も無論、権右衛門の腕は認めている。「見切りが肝腎」の鮮かさはこゝでも問題になる。

何時の間にか、彼は廃球屋を止めていた。「ヒッツキ」や「市電もの」は危険だし、「白金もの」もそろ/\白金使用分量が少くなるだろうと逸早くにらんだからだ。案の条、間もなく、電球には白金に代るべき金属が使用されることになった。先見の明ともいう可きだ。もう一つの先見の明は、欧洲大戦が起って、銅、鉄、真鍮などの金属類の相場が鰻上りするのを予想して、廃球買いのため出入していた電灯会社に頼んで古銅鉄線、不用レールや不用発電所機械類などを払下げてもらったことだ。最初会社側では相場が分らぬまゝに、二束三文で売り渡した。相場が分り出して来ると、用度課長に賄賂を使った。同業見積者が増えて来れば「談合」の手を使った。市治郎、伝三郎、三亀雄などは、はじめ、この「談合とり」で金を作っていたのだ。権右衛門の様に銅鉄売買をする甲斐性はなし、たゞ兄のおかげで入札名儀だけを貰って体裁だけの空入札をし、談合の口銭を貰っていたのだ。彼等がそれでたとえ一万円の金を作るにしても、権右衛門や政江が苦心してこしらえた百円の金の値打もないと、政江は思うのだった。

が、政江は、春松の苦心を忘れている。例えば春松の醜く押しつぶされている右の手の親指のことは、彼女の回想には泛んで来ない。――春松は、権右衛門が落札した銅鉄品の引取に出張する時には、常に同行した。落札品の看貫の際、会社側の人の眼をかすめて、看貫台の鉄盤の下に鉄製の小さな玉を押しこむのが彼の役目である。その装置をすれば、百貫目のものが六十貫にしか掛からぬのだ。ある時、監視人があやしんで、看貫台の上に乗ってみようとした。自分の体重なら、ごまかしは利かぬ筈だ。春松は慌てゝ、玉を抜こうとした。その途端に監視人が台の上にのったので、彼の手は挟まれてしまった。おまけに、続いて、三、四十貫の銅線が看貫台に積み上げられた。春松の顔はみる/\真蒼になった。権右衛門はさり気ない顔で煙草を吸うていた。――このことを、春松は、いつか千恵造の前でいい出して、それが酒をのんでいる時だったので、泣上戸の彼は泣き出したことがある。泣いたのは、嫁のことを想い出したからだ。嫁は児子家の女中をしていたのを、無理に押しつけられたのだ。その嫁が政江の威光を笠にきることが、春松にとっては癪で仕方がないのだ。だから、ついぞ云い出したことの無い看貫のことを持ち出して、千恵造に訴えるのだ。「わいはこないに権右衛門の為に泥棒の真似までして来たのや、それやなのに、あの主婦は(政江のこと)……」「それをいいな、それを」と千恵造はなだめたが、女のためにお人善しの春松がいうべからざる事迄いいたくなる、その心事には同感出来るものがあった。

大正五年、権右衛門は一万円出来た。口髭を生やしたのはこの年である。大正十年に十万円になった。以後、百万円に達するまでは容易であった、と政江はいう。十万円貯めてからは、たとえば、昼食にはもう鰯だけというようなことはなかったのだ。その頃漸く雇った女中の手前もあった。政江の兄はそれまで豆腐屋をしていたが、廃業して、気楽な煙草屋を始めることになった。妹は産婆をしていたが、これも廃業して、歯医者と結婚した。その時の祝いに、彼女は千円もするダイヤの指輪を贈った。その他、以後楽しい事ばかりである。……

……その夜、権右衛門夫婦は明け方まで眠らなかった。話すべきことも多かったし回想が次から次へと果てしなかったからである。

Chapter 3 of 4
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