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ひとりすまう
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ひとりすまう
織田作之助
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번역 Pagera AI
원문 Public Domain
Chapter 2 of 4

2

「もうお身体は大丈夫ですか」と声をかけた。

「ええ、この間はどうも有難うございました」とぼくはほっとして言った。

ぼくらは暫く物も言わず向きあったまま突っ立っていたが、やがて滑稽なことだが、どちらからともなく坂を下り始めた。登らずに引きかえして下り出したということが何か可笑しくて、微笑すると、彼女もクスッと声を立てた。

坂を降りると、ぼくらは白浜の方へとゆっくり歩いて行った、彼女は、何か寂しい翳があるというよりも寧ろ冷い感じのする容貌をもっていた。鋭角的な輪廓、よく通った鼻筋、広い額、が、その冷たさに触れてかえって心が温まると思われる様な感じを起させるのだったが、唯一つ、少し上にむくれている上唇が、可憐に見えた。彼女は時々眉の付根を引き寄せる癖があるので、ぼくはそれを「眉をひそめる」という意味にとり、気になったが、それは彼女が近視であるためだった。その表情は彼女を非常に若々しく見せた。彼女はもう二十六歳だったが、ぼくには自分と五つも違う様には思えなかった。ぼくらは歩きながら殆んど病気の事ばかり話した。

「肺病のこと良く御存知ですね」と言うと彼女は、

「ええ、私の夫が医者でしたの。矢張り胸を患ってなくなりましたが」と言った。ぼくはこの機会だと思って、

「そうですか。なくなられたんですか。ぼくはあの方が旦那さんだと思っていました」とあの晩の男のことをほのめかしたが、彼女は赧くなった丈で返答はしなかった。

白浜温泉口のバスの乗場まで来ると、ぼくらはその前の藤棚の下のベンチに腰を下ろしたが、そこは絶えず発着するバスの音が喧しくて、彼女からあの晩の男のことを訊きだそうとするぼくの目的には適わしくない場所だった。ぼくは喫茶店にでも誘いたかったのだが、言い出せなかった。疲れたとか、咽喉が乾いたとか思わせ振りなことを言うと、彼女は察して、お茶でものもう、と言った。近くの「銀砂」という小っぽけな珈琲店にはいった。ボックスでは、一人のまるで女の様な綺麗な肌をした色の白い、ぼくと同年輩位の美少年が、セルの着物の袖から白い手をぬッと伸ばして房々とした髪の毛をかきあげながら、その店の、雀斑のあるかなり可愛いい顔をしたワンピースのドレスの少女とひそやかに語らいながら二人切りの時間を楽しんでいる様だった。美少年は、ぼくらの姿を見ると、「トシちゃん、又来る」といって、右肩を下げ、棒切れの様な貧弱なステッキをひきずりながら出て行った。ソーダ水を註文すると彼女は喀血した人にはソーダ性のものは毒だ、紅茶にしなさい、と言った。ぼくはその親切がありがたかった。紅茶を選ぶと、その店の少女はレコードをかけ、首をかしげて聴き惚れていた。百合の花の匂いが漂うていた。ドアのカーテンの隙間から一筋の明るい太陽の光線がはいっていた。その隙間から海が見えた。そんな雰囲気の中でぼくは、彼女から、あの晩の男と彼女との関係を訊き出すことに成功したのだ。彼女の話はその雰囲気に適わしいものとは言えなかったが。

彼女の語るところによると、轡川というその男は彼女――明日子という――の夫と同郷の者、当時大阪の私立大学の学生だったという。医科大学の助教授である彼女の夫が肺を患って寝こんでしまった時、他に男手のない二人暮しの家が物騒だというので、柔道部の選手をしていた轡川に言わば用心棒代りに寝泊りしてもらうことにした。明日子はその轡川に暴力で辱しめられた。柔道部の選手をしている位だから力は強かったとはいえ、防げば防げぬことも無かったが下の部屋で寝ている重病の夫を驚かして神経を興奮させることを怖れたので、声一つ立てられず、暴力に激しく抵抗することも出来ず、轡川に身を任せた。以後二人の関係は続けられた。夫は間も無く死んで、明日子は白浜の近くのT港にある実家に帰った。轡川はその後度々白浜温泉まで出掛け、彼女を呼び出した。轡川は彼女に結婚してくれと言うのだが、彼女はその意志は無い。轡川には愛情は感じ得ず、今度彼女が白浜へ来たのは、轡川と絶交する目的で来たのでその話がつけば直ぐ田辺に帰えるつもりである。この間の晩彼女が夜遅く海岸にいたのは、轡川と口論して何となく宿を抜け出していたのだった。轡川があの時彼女を撲ったのは、勿論その口論の続きの行動だが、彼は非常に嫉妬深く、あの時彼女と並んで歩いていたぼくを嫉妬した為だという。

彼女の話は、聴いていて余り気持の良いものではなかった。殊に美しい彼女が野蛮な轡川のために辱められたなどという話は、それが当人の口から直接語られるとすると随分あさましい気持がする。義憤を感じて熱が出るほどだった。だが、正直に言えば、その時ぼくはかなり朗かな気持だった。年少のぼくに彼女がそんな身の上話をきかせてくれた、と言うよりむしろ、ぼくが巧くそうさせたと言うことの満足と、そういう話をしたということがお互いの親密の度を増したという喜びのためなのだ。殊に轡川がぼくを嫉妬したということは、之まで何の関係も無かった二人が少くとも轡川の想像の中では、たとえ仮定的にしろある種の関係をもっていることになるので、無意識の裡にぼくらの親密の度を増して行くことに役立ったのだろう。ぼくは嫉妬されている者の快感に些か酔うていたので、明日子がたとえ辱しめられたという事実があるにしろ、何故その後もその様な男と関係を続けて来たのか、などという疑問を抱く余裕もなく、その珈琲店を出る時は、頬に微笑を浮べている位だった。丁度その店を出ようとすると、入れ違いに先程の美少年がはいって来た。彼はぼくの顔と明日子の顔を見比べて、ロイド眼鏡の奥でちらりと笑った。ぼくもにやっと笑った。そして表へ出ると、明日子は突然あっと声を立てた。藤棚の下で真蒼な顔をしてじっとこちらをにらみながら轡川が突っ立っているのだ。ぼくの眼が轡川の眼にぶつかった途端、ぼくは之は撲られるぞ、と思った。それ程のすさまじい表情を彼はしていたのだ。瞬間彼の頬の筋肉がゆるんだかと思うと、もう彼は笑顔を作りながらぼくらの方に近づいて来て、

「やあ、この間の晩の方ですね。お身体はどうですか」と媚びを含んだとさえ思われる程ひどく親しみのある調子で話しかけた。ぼくは周章てて、

「ああ有難う」と言ったが、無愛想な調子だった。そういう無愛想な調子が出たのは、恐らく彼女を辱めたという彼への反感からであっただろうが、しかし、もしその時彼が親しみのある態度でなく、反抗的な調子でやって来たのなら、ぼくはきっともっと愛想のよい寧ろ媚びた態度を見せたに違いない。ぼくが無愛想な態度を見せても、轡川はその為にますますぼくの機嫌をとっているかと思えるほど、いそいそと親しみのある調子でぼくにいろいろ話しかけて来た。ぼくら三人は湯崎の方へ話しながら歩いて行ったが、ぼくが、今いる宿の待遇が悪いので宿を変えようと思っているというと彼は是非自分等のいる宿に来い、隣の部屋が空いているからとすすめたので、ぼくは、幾分不可解な気持もしないではなかった。ぼくに嫉妬している彼が、ぼくを彼等の宿へ来させてわざと彼女の傍に近づけようとする筈はないと思ったからなのだ。ぼくはあるいは彼はぼくがそれに応ずるかどうかに依ってぼくの彼女への関心の如何を探ろうとして、ぼくを試しているのではないかと思ったので、自分は病人であるから迷惑をかけては、と断った。すると、今度は明日子も一緒になってしきりにすすめた。ぼくはもはや礼儀上断り切れない破目になって、というよりも、そういう破目になったという顔をして、それに応じた。すると轡川は今から直ぐ移ることにしよう、と言い出し、ぼくの宿に行くと、甲斐々々しくぼくの荷物を纒めて、彼の宿まで運んでくれた。彼が大きな図体に汗をビッショリかきながらまるで番頭の様に立働いている容子をみると、ぼくは、そんなにまでぼくが彼の宿に移ることをよろこんで、親切にしてくれるのに、ぼくを試しているなどと疑ったことが何か済まないことをしたように思った。それにしても、彼がそんなにぼくに親切にしてくれるのは何故であるかぼくには分らなかったが、ぼくは唯、彼がぼくの機嫌をとる態度をみて、嫉妬される者の優越感を味い、少し己惚れ気味に良い気持になっていた。

宿に移り、彼らの隣の部屋に落ちつくと、明日子はぼくの持っていたレコードのアルバムを見て、聴かせてくれといい、フランクのピアノ五重奏とヴェトーヴェンの第八シンフォニイを掛けながら、三人で音楽の話などをした。轡川はぼくの多少ペダンチック臭のある話に喰いついて行こうとするらしく見えたが、教養が無いので喋ることが頓珍漢で、明日子は時々轡川を嘲笑しているかの様な眼付をぼくに見せた。それを見るとぼくは益良い気になり、自分でも嫌気がさす位ペダンチックになるので、轡川は煙にまかれた形でみじめに見えた。

夕飯の時、ぼくらは部屋を仕切っている襖をあけて、お互いの部屋から話しながら食事をしたが、その時、轡川は突然ぼくに、石油をのめと言い出した。何の事かと思っていると、彼は、石油が肺病に効くという話をいろいろな例をひっぱり出してくどくどと喋り出した。すると、明日子は石油が結核に効くなどとは医学的に説明されていない以上、迷信に過ぎないと轡川に反撥したので、ぼくは明日子が医者の妻であったことを思い出して、仲々面白いと見ていると、轡川は女中に婦人雑誌を持って来さし、「石油で結核を癒した実話」の載っている頁をぼくらに見せた。しかし、ぼくは石油はのむ気がしない、と言うと、轡川は残念そうに、じゃあなたもこの人と同じ意見ですね、のめばなおるのに、と明日子を指さした。そういう彼を見ていると、まるでぼくと明日子が協同して彼をみじめな立場に陥入れている様な気がし、明日子の明らかに彼を嫌っていると見える態度や、絶交の話のために彼女が白浜へ来ているといったことなどを思い合わせて、何か轡川が気の毒な気がしたけれど、結局轡川が明日子を辱しめたという事実から来るぼくの反感がそういう気持を殺してしまうので、ぼくが明らかに明日子に好意を示しているように彼にとられやしないかという心配も忘れてしまって、その日一日中明日子がぼくの前で轡川をやっつける御手伝いをしていた。

その夜、寝床にはいって、電燈を消してから、ぼくは今夜もまた不眠に苦しめられるのかと閉じた眼の前に覆いかぶさって来る無気味な闇とたたかっていると、隣の部屋から、ひそひそと話声が聞えて来た。轡川のくどくどと何かかき口説く様な調子を帯びた声と、明日子のそれに答えるキンキンとした疳高い冷淡な調子の声をきいていると、いよいよ別れ話だなと思った。やがて轡川の声は涙を含んで来て、しまいには啜り泣きになった。ぼくは、明日子の様な美しい女であってみれば、轡川が別れ話に涙を流すのも無理もないと思って同情すら覚えたが、しかし、むしろ轡川に涙を流させた明日子に拍手を送りたい気持で一杯だった。

やがて話声が聞えなくなった。ぼくは睡眠にはいる前の快よい瞼の疲労を愉しんでうとうととしていた。と、ぼくは突然、耳を塞ぎたくなる様な隣室の物音をきいて、まるで外科手術をうけているかの様に血の気を失ってしまった。それは彼らに就て想像もしなかったことだった。勿論若い男女がそうして二人で温泉宿で泊って居るとすれば極めて普通なことには違いないけれど、明日子と轡川の場合、ぼくには意外だった。明日子は轡川を嫌っている筈だし、別れ話をする為に来ているのでは無いか。ぼくは何故そういうことを明日子が轡川に許すのか、不思議でならなかった。ぼくは轡川が暴力で明日子を辱しめたという話を想い出して、隣室で行われていることから拷問に似たものを感じた。ぼくは自分も又拷問されているような苦しさすら覚えたのだ。ぼくはその瞬間ほど明日子、否女性というものを頼りなく又いとしく思ったことは無かった。その時のぼくの愛情は恐らく、馬鹿! とどなりつけるか、彼らを撲りとばすより外には表現のしようの無いものだった。しかし、如何なる愛情といえども、その様な彼女を傷つける様な表現の仕方を妥当とはしないから、その時ぼくが出来得ることは、その様な行為の醜さや重大性から眼をそむけて、ただ、彼等がとるに足らぬ日常茶飯事を行っているに過ぎないと思いこんでしまうことより外にはなかった。だがその様なことはその時のぼくには、困難なことだった。ぼくは息苦しくなり、痰が咽喉にひっかかって咳が出そうになった。だがもしぼくが咳をすれば、轡川はぼくが今みじめな気持のまま眼覚めていることを知って、何か勝ち誇った様な快感を覚えるかも知れないと思うと、あるいは轡川は、ぼくにそんな気持を起させるためにわざとぼくに宿を変わらせたのではなかろうか、とすら考えられて、必死になって咳を堪え、ぼくが眼覚めていることを知らすまいと努力した。だが、ぼくの様に肺を患っている男にとっては咳をこらえることは、窒息しそうになる位苦しいものだった。

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