第五章
ダンディの意味について。
信吉が女にとって魅力があるというくだらない説明。
冴子は帽子をかぶって来たこと。
須賀信吉という男は、女たちのいわゆる神経質な表情と、放心したようなキョトンとした虚ろな眼や笑った時の眼尻の皺から感じられる子供っぽい表情と、二つの表情の交錯する顔を持っていた。
それに、都会人らしく、はにかみ屋で、人なつこく、気が弱そうで、ふと冷酷なところもあり、そしてまた、軽薄に見えるくらい陽気で明るいかと思うと、急に深い憂愁に閉ざされていたり、純情かと思うと、凄い女たらしに見えたり、……時と場合でぐるぐると表情が変り、印象が違うので普通の平凡な男に飽いている女にとっては、ちょっとした魅力のある男であった。
すらりと背も高く、女に対する言葉づかいも、ぶっ切ら棒な調子の中に、嘗めるような丁寧さがあった。いわば女好きのする男なのだ。美男子ではないが、渋いよさがあった。
だから、けっしてダンディ(伊達者)ではなかった。
「……僕はもっさりしてるからね」
半分本気で言っていた。服装もお洒落ではなかった。身のまわりに気を使うには余りに不精者であった。
しかし、信吉は、
「おれは精神的にはダンディだ」
と思っていた。
つまり、ダンディという言葉の意味の違いなのだ。
信吉にとって、ダンディとはボードレエルの言う――
「人を驚かすが、自分は驚かないというのが、ダンディの守るべきおきてだ」
これだった。だから、信吉はつねに、いかなる場合にも、物事に驚くまいと思っていた。
ところが、蜂谷重吉という奇妙な男にだけは、さすがの信吉もいささか驚かざるを得なかった。
「元衆議院議員蜂谷重吉七月卅一日永眠仕候」
という死亡広告の広告主が自分自身だと昂然として言う男!
明治時代のある作家で、自分の死亡広告を自分の名で出した男がいるが、しかし、その広告が出た時は、無論その作家は死んでいた。
ところが、この蜂谷重吉という男は、現在信吉の眼の前に生きている。
しかも、元衆議院議員という肩書を、本当かときけば、出鱈目ですよと、澄ましている。
変な男だ。
もっとも、信吉はその蜂谷という男の口からきく前に、こっちから、
「広告主はあなたでしょう……?」
と、たずねたくらいだから、
「そうです」
と、答えられても、べつに驚かなかった――と言ってもいい。
しかし、そう言い切ってしまえば、嘘になるだろう。
驚きは素早く通過しただけのことで、とにかく瞬間驚いたことはたしかだ。――すくなくとも信吉はそれを認めた。ダンディにとっては、これは、かなり辛いことだった。
しかし、信吉はその男には参ってしまった。頭を下げざるを得なかった。
信吉は一切の月並み平凡なことを毛嫌いしていた。石橋を敲いて渡る主義、処世術常識、プチブルの自己保存の本能、貯蓄、無駄を怖れる精神、――すべて軽蔑していた。信吉の意に適っているのは、野放図、破天荒、横紙破り、常規を逸したもの、破目を外したもの、尻尾を出すこと――いわゆる反俗精神の裏づけあるものに限られていた。
だから、信吉の願いとは、つねに世間的な出世にはなく、異色ある人物になり切ることであった。そして、そのように振舞って来たつもりだが、信吉自身の異色ぶりなぞ、もはや蜂谷重吉の前では、けちくさい存在でしかなかった。
信吉は素直にきいた。
「どうして、こんな広告を出されるんですか」
すると、蜂谷はぶっ切ら棒に、
「どうして……? あなたはどうしてそんな質問をするんですか。そんな質問をする人に、その理由を説明してみても判りませんよ」
と言うと、いきなり起ち上って、
「午後八時、三三三号室ですよ」
だめを押すと、すっと玄関の方へ出て行ってしまった。
「よし、午後八時、三三三号室だな。今日こそはあの男に出しぬかれないぞ」
そう呟いた時、スーツケースを持った伊都子がエレヴェーターから降りて来た。伯父や許嫁が一緒だった。
伊都子は半泣きの顔で、微笑むと、ちょっと頭を下げて、つれの二人と一緒に雨の中へ出て行った。
信吉もだまって頭を下げただけだった。
回転ドアを押す時、伊都子はちらと振り向いた。
信吉はもう一度頭を下げようとしたが、丁度その時、伊都子の許嫁がキッと信吉の方を睨みつけた。信吉はふと眼をそらした。
そして再び見ると、もう伊都子の姿は見えなかった。
許嫁の視線は信吉の胸をチクリと刺して新たな悔恨があった。が、ふと、あの男がやがてあの伊都子の亭主となって、伊都子のなやましい腋臭のある体を抱くのかと思うと、伊都子が四五三号室のベッドの上で見せた数々の肢態や、燃えるような愛撫や「須賀さん! 須賀さん!」と呼びつづけていた絶え入りそうな声が、なまなましく想い出されて、
「もうあの娘には二度と会うこともあるまい……」
という取りかえしのつかぬ想いが、かえって悔恨をすくって、何か甘い気持だけが残り、信吉はふと右の手を鼻の先へ持って行った。
そして、伊都子の匂い……というよりもむしろ、人間の浅ましい交渉の匂いのかすかな残り香を嗅いでいると、女のあわれさが、はや信吉を憂愁の感覚でとらえてしまった。
そのくせ、信吉は昨夜約束した江口冴子の来るのを待っていたのだ。
これは一体何であろう。
女にはこういう男の気持は判らない。いや、判ろうとしない。たとえば、そのようなことを平気でする芸者や娼婦すら、こういう男の気持を、単なる移り気だと見て、責めるのだ。
「男ってみなそんなものだ」と。
たしかにそんなものであろう。移り気で軽薄で、――つまり誠実でない。
しかし、信吉の場合、これはもう明らかにデカダンスだった。が、まるっきりデカダンスでない証拠には、そんな自分をふと情けなく思っているのだ。そして、情けなく思っている自分を、一層情けなく思っている。
「悪いひとではないが……」
と断って、非難される男! つまり現代の青年の中にざらに見つかる男、女には惚れるが、自分を見失ってしまうほどの情熱で、もはや恋愛の出来ない男――というわけだが、しかしそれらの大勢の青年にくらべて、信吉が女にとって危険なのは、彼には魅力があるという一点だ。
しかし、女は「男の魅力」という言葉を好かないし、そんなものを認めたがらないから、
「あの人はいい人だ」
という風に自分に言いきかせる。
例えば、江口冴子のような女でも……、いや、冴子はまだホテルの玄関に現われていない。読者は信吉と共に、彼女を待たねばならない。
われわれの一応喜ぶべきことには、冴子は約束の時間より四十分おくれて来た。
つまり、冴子は、みじめでなかったわけだ。おくれて来るという女の特権を、充分発揮したというべきだろう。
しかし、冴子がおくれて来たことは、ある意味で信吉にとっても喜ぶべきことであった。
なぜなら、待たされたことで、信吉は冴子を誘惑する口実が再び見つかったと、思ったからだ。自尊心を傷つけられたのだ。
冴子はおくれて来たけれど、のそっとはいって来た。まるで、信吉が怒って、いなくなっていても構わないという歩き方だった。
しかし眼はさすがに信吉を探していた。少し近眼なのか、ロビイの隅にいる信吉の姿がすぐには見当らなかったのか、困ったわ、という風に、ふと眉をくもらせた。
その表情が、散々待たされていた信吉を救った。駄々っ子のように、もっと隠れていてやればおもしろいと思うくらいだった。いや、いっそ、ロビイから姿を消してしまった方が痛快だったかも知れない。
しかし、信吉は、
「やア――」
と、すぐ起ち上って、寄って行った。
「大分待った……?」
それには答えず、
「マッチは……?」
マッチだけを待っていた顔をした。
冴子はほのぼの笑って、
「あとで……」
地下室のグリルへはいって、向い合って坐ると、
「――二箱持って来たわ。おふくろに叱られたわ。そんなに沢山マッチ持って出て、どうするんだって……。作者にあげるんだといったら、じゃ、三つ持って行けだって……」
「あはは……」
笑いながら、そのマッチをすって、煙草につけた。うまかった。
「あたし、お食事に誘われるのは、あんまり好きじゃないわ」
信吉はむっとしたが、つづいて冴子の言った言葉で機嫌はなおった。
「――今まで何度も誘われたけど、たいてい断ったわ」
「じゃ、今日は例外だね」
「まア、そうね」
「なぜ、断らなかったの……?」
何気なく言って、ちらっと素早い視線を冴子の顔に投げた。
「なぜって……?」
「うん」
返答に困るだろうと、思った。が、冴子は、
「だって、マッチを持って来てあげたんじゃないの」
すかさず言った。
「あ、そうか」
と、ひょうきんに言いながら、この女優大分頭がいいと思った。
すると、信吉はもう食事が済んでから冴子を自分の部屋へ連れ込もうという計画が実行しにくくなった。
それに、冴子は銀座の何とか帽子店の宣伝係みたいに、ツバの広い帽子を大胆にかぶっていた。雨だというのに……。大阪ではこんな大きな帽子をかぶるような思い切った娘はいない。そのことも、ちょっと信吉を、気おくれさせた。もっとも、辟易させた――と言った方がいいかも知れない。何れにしても、冴子は昨夜の、ふとうらがれた大部屋女優の感じはなかった。今日の冴子はまごうかたなく銀座の娘だ。
九州の女を相手にするようなわけにはいかない――と、ちょっと冴子の「銀座スタイル」に信吉は柄にもなく圧されていた。大阪者の悲しさだろうか、もっとも、
「女はみんな同じだ」
とは、これまでの経験による信吉の、やぶれかぶれの持論だった。
ただ、エティケットが違うだけだ。だから、慎重を要する。しかし、心にもない技巧は使えまい。心にもない――とは、つまり不自然なという意味だ。
食事が終った。
「これからどうする……? 楽屋入りまでまだ大分時間があるだろう……? 銀座を歩く……?」
これは自然だ。
「雨の中を……?」
この返答も計算にはいっていた。
「じゃ、ロビイで話でもするかな」
「ホテルのロビイなんかで、男の方とお話をするなんて、いやだわ。噂が立つし……」
女優らしい言い方だった。
「じゃ、どうする……?」
「お部屋へ行きましょうよ」
信吉は、がっかりした。伊都子と同じ科白!
あまりのあっけなさに興冷めしたが、しかし信吉は冴子と一緒にエレヴェーターに乗った。予定の行動といった顔で……。