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あなたは確か、芝居の噂などは、あまりお嗜きでなかつた様に思ひます。併し、此だけは一つ、是非お耳に入れて置きたい、と思ふのです。そちらでも、東京の新聞は御覧になつて居ませう。坪内博士の「名残星月夜」が、五月狂言として、歌舞伎座に出たことは、もう御承知の事、と思ひます。あの脚本が、始めて中央公論に出た時、あなたも、坪内さんに宛てゝ、大分長いものを、お書きになりましたね。あれから、余程たちますので、その細目は、記憶に残つて居ません。が、大体は、事実と構想との関係と言ふ点だけを、中心にして言うて入らつしやつた様に思ひます。今、手もとに、あの頃の時事新報の切り抜きがありません。上野へ行けば、とつてあるだらう、と考へますが、又億劫がつて居る中に、印象を薄れさせて了ひ相ですから、ぶつゝけに書きます。若し、あなたも既に言はれたことを、自分の考へ見た様に、得意になつて書く様なことが出来はすまいか、とも思ひますが、そんなことがあつたら、あなたの考へが、わたしにも、具体せられて出て来た訣で、優越感をお持ち下さつて、さし支へはありません。
わたしにはどうも、吾妻鏡と言ふ書物の、史料としての価値に、疑ひが持たれてなりませぬ。其は、今の中はまだ、気持ちの上の問題で、と卑下せねばならぬ程度のもので、開き直つて其理由を糺されると、少しまごつきます。唯処々、あまり興味のあり過ぎる場処が、つひそんな気を起させるのでもありませうか。が、作り事と言ふ程でなくとも、民譚(伝説)臭い色あひが、さうした場処にはきつとあたまを出して居るのです。御存じの曾我の仇討ち前後殊に、虎御前に関した事などは、大分おもしろくもあり、反証もあがり相に思ふのです。其からも一つは、此鶴个岡拝賀の一条が、一番不審な気を唆る場処です。編者か、作者か、(其は、こんな場合の問題としては、大き過ぎます)ともかくも、吾妻鏡を纏めた人は固より、其頃の人々は、実朝が、あの日のあゝしたなり行きを、予め知つて居たのだ、と言ふ風に解して居たものらしく思はれます。尤、あの辺の書き方は、思はせぶりを、平気のおぶらあとに包んである様です。其にしても、あの本の書きてが予期した通りの印象を、素朴に受けたゞけでは、歴史を見るより、尠くとも、実朝を見ようといふ上には、浅すぎると思ひます。あれだけの事実から出て来る、書きての居た頃の、民譚風の解釈は、其儘にして置いて、別に、も少しほんたうのものが、掴まれさうに思ふのです。
恥しいことですが、あゝいふ種類の脚本・小説を読む場合、わたしには、まじりけのない鑑賞が出来ないで、作者の見解を見よう、と言ふ風の、別な衝動を交へて居ることが多い様です。けれども、(私の場合のよい・わるいは別として)作者の側では、其方面から十分鍛へあげたものを土台にして居ないでは、人物や、事件が、歴史を単純に意訳なり、直訳なりしたに過ぎないことになるのです。あなたの書かれた批評なども、坪内博士から見れば、芸道の批判ではないから、とすまして了はれたかも知れませんが、名残星月夜の土台へもぐり込んでの為事故、坪内博士が、此後とも、よく考へ直して下されゝば、非常に為になる事なのです。其功徳は、純芸術批判者の「ほめことば」や、「手うち」位の事ではないのです。其で、わたしも、あなたを見まねで、縁の下の力持ちをやる気になりました訣です。
一体、あなたはどうお考へになります。覚阿(広元)落涙の一件ですね。わたしは、あれだけを心にして、おもしろい物が出来る、と思ふ位です。あの処の吾妻鏡の書き方は、よかつたと思ひます。大きな背景を控へて、当時第一流の人物が不思議な暗示を悟る処、神秘だなどゝかたづけたくはありません。が、あの奇妙な予感を、もつと中心におし出して考へてもいゝ、と思ひます。私は、こゝを一番問題にして、「名残星月夜」を読みました。けれども、あなたも言はれたかと思ひますが、行き届いた作者なる坪内博士は、そんな処は、うまく逃げて、――と言ふやうな言ひ方は、私自身を卑劣にします――覚阿の本心を見せる様なせりふも、とがきもなく、吾妻鏡の記述通りに、ひた押しに推し進められました。此が芝居になれば、どう言ふ風に現れるだらう。作者が、其について何の考へもないとすれば、坪内博士自身、舞台監督になられるのすら、疑問だ、と思うて居ました。今度の芝居では、まづこんな不純な動機を以て、芸道に対しました。
処が今度のには、私の目あてにした鎌倉御所寝殿の場が、序幕の由比个浜と共に、略してありましたので、失望しました。同時に、覚阿になる役者の、肝腎の見せ場のなくなつたのに、同情しました。さすれば、大詰めの「鎌倉御所中門廊」の中程から、幕切れに出て来るだけになります。併し、此ちよつと出て来る間に、却て、多く効果を収めることが出来るかも知れぬ、と楽しんで居ました。覚阿になつたのは、所謂大向うの人々が、松島屋、と呼ぶ役者でした。史料編纂所から出る、武将連の肖像によくある、尻太・尻跳ねの眉が、しやれかうべの様に、作つた顔に、つけてありました。此顔は、此迄の時代・活歴など言ふ種類の芝居には、あまり見ないつくりだ、といふことでした。(尤、眉だけは、松島屋と言ふ人の好みと見えまして、私の持つた絵葉書帳に、同じ型のをつけた同じ人の姿が、沢山あります。)実朝の這入つて了ふ迄、無言で居た間の含蓄は、えらいものでした。立ちはだかつて居るのも、技巧から抜け出た真実さでした。もう今では、伝説の領分に入つて、益、ねうちの上つて行かう、として居る団十郎の腹芸とか言ふものと、明らかに反踵的な位置を固執して居る人とか、聞いて居ましたが、なる程、団十郎門流並びに、其感化を受けた役者たちの、無内容を充実らしく見せかける、此頃の腹芸といふものとは、大分違うたはちきれ相な含蓄でした。併し、実朝役者が、花道と言ふ通路の十分の七の距離を這入つて行く間と、其後、揚げ幕の中に、影を没して了うてからは、すつかり崩れて了ひました。目をあまりに瞬きました。あれがをこつくと言ふのですか。からだをむづ/\さしました。
此は併し、坪内博士の責任が、大分あり相です。脚本には、渾沌として居た覚阿落涙の解釈が、舞台監督としての博士の指導には、具体せられて出て来たのでせう。此でこそ、芝居を見に来たかひがあつたと言ふものです。併し、其と共に、ひどく落胆せないでは居られませんでした。博士は、はつきりと、覚阿は、未然に悟つて居たものとして居られるのでした。覚阿ばかりではありません。結城朝光も、段々直覚して来て、結末などには、十分、軒端の梅の歌を貰うた理由を、悟つて了うた様でした。覚阿などは、後向きの立ち身で、掌のつけ根を目にあてゝ泣く、と言ふよく芝居絵にある形をして、舞台を廻させました。
一度は、あまり其浅手な解釈に驚いて、かうせなければ、一般の見物に訣るまい、又、今日の程度の役者には、持ちきれまい、と言ふ博士にはあり過ぎる例の心切からせられたことか、とも考へて見ましたが、あのしさうで居て、一切の妥協を却けて来られた博士が、自身の芸術を棒にふつて迄、低級な見物や、役者の犠牲になられる筈はない。やはりほんたうにさう考へて居られたのだ、と考へついて、実際がつかりしました。
小壺の沖中の、身投げが、実朝が、公暁の手を借りて自滅の本意を達する、といふ周到な作者の伏線になつて居よう、とは思ひもかけませんでした。けれどもやつぱり、用心深い博士は、そこに、漸層の第何段かを、ちやんと構へて置かれたのに違ひありません。此は、あなたも予期せられなかつたことでせう。さうすると、月の光りにそゝのかされて死なう、としたのだと言ふ語は、全く実阿弥の為に、一時の気休めを言うたことになるのです。死ぬるにも死なれぬ、と歎いた人が、やつと決行しようとすれば、唯一人の心の友に阻まれる。一時は思ひ止つても見たが、やはり根強い死の執著が棄てられないで、最後の手段は、人をして自分を殺さしめるに都合のよい、と言ふ位置に身を措いた、と言ふ風にまだしも見たい、と思ひます。でなくては、あまりに実朝が、ひよい/\と気の変り易い上調子の人間になるではありませんか。かう見れば、尠くとも実朝の側だけは、あまり浅までなく、迫つて来る死を知つて居たと言ふことに対しての弁解はつきます。
覚阿の方は、依然として賛成することは出来ません。どうもありふれた芝居の伝襲的な筋立てを、其儘守つてあるに過ぎない、と言ふ気がしてなりません。言外の意味を酌んで、其意志を遂げさせる、と言ふあきらめの心持ちは、いやと言ふ程、義太夫浄瑠璃や、芝居に繰り返されて来たものらしく承知してます。博士は、歌舞妓芝居をかいみいらと言ふばけ物に譬へられましたが、博士自身の心にも、かいみいらが居る様な気がします。さう言ふ風に心持ちを搬んで置き乍ら、左京兆が急病で、仲章が代つた、と言ふ申し上げますの口状を聞いて、「扨は、やつぱり」と言ふ風な動作をさせて居られる点です。こゝは、博士の考へから行けば、悲運がほんものになりかけた、と言ふ悲痛な心持ちを含蓄さすべき処だ、と思ひます。「扨は、やつぱり」でなく、「愈、此からだな」と言ふ感じを持たせねばならぬのです。舞台監督としての博士は、こゝで覚阿と朝光の大袈裟な驚愕の表出を、尠くとも黙認せられて居ます。確かに、驚愕よりは、呆然自失する、と言ふ様な表情が必要なのではありませんか。松島屋と言ふ役者のやり方は、博士の与へられた以外に、不従順な解釈も交へて居るのではないか、と言ふ気もしましたが、さう言ふ風に感ぜられる点は、却て、私の同感を牽きました。
今一人の橘屋とか言うた(橘屋と呼ばれたのが、二人居ました。こちらは、若い方でした)人の朝光は、慧し相な顔をして居ましたが、何の解決をも、私の心に生じさせてはくれませんでした。あつちこつちに固つた形をしたかいみいらでなしに、すつかり渾沌とした覚阿と、更に、とりとめられぬ心持ちにとまどうて居た朝光を出した方が、よかつたのに、と思ひます。新聞屋たちは、こゝの場面を軽く見て居ました。松島屋氏や橘屋氏などいふ、大家連を煩す迄もない役の様に申して居ましたが、私は、さうは思ひません。どうしても、貫目と、腕前とのある人で、此場面が切られるのでなくては、実朝の死を、強く暗示することが出来ない、と存じます。絶望とあきらめの中に、尚幾分のはかな頼みを懸けて居る静けさを見せるのは、凡庸な人々には出来ぬ事なのです。こゝで、ほゞ行き尽す処迄行つた、と言ふ心持ちを見物に持たせるのが、博士の積りでもあり、又、さすがに桜痴居士などゝ違ふと思はせる処なのです。福地氏が、団十郎などの為に書いたとか聞いて居ます、「東鑑拝賀巻」は、やつぱり、八幡宮石段の場を性根場にして居た様です。次の場備中阿闍梨と接する具合は、此迄の作者のやり口だと、幕にするか、或は「かへし幕」「はや幕」など称へる、休息を置く筈である相です。処が、博士が、直様廻り舞台で繋がれたのは、非常に聡明なやり方だ、と連れの芝居に明るい人が、褒めて居ました。なる程、次の場は、時間の上から見れば、中門廊の時間からすぐ続いて居るか、稍後と見てよろしいのでせうから、(昔風の解釈で行きますと、覚阿等の泣いたよりも、前の時間から続いて居るものと見ることも出来る相ですが、博士にも、そんな積りはありますまい)舞台が転じると共に、気分も変つて、焦慮と不安とに充ちて居る場面で、対照がよく出来て居ます。同じ事件の未然の間の人々に与へる心持ちが、居処が変つたゞけで、こんなに違ふか、と思ふ位でした。かう言ふ効果を収める為には、廻り舞台とか言ふやり方は、非常に利きはしました。併し、覚阿・朝光の最後の黙劇が、しみ/″\味ひきらぬ間に、直にそは/\した落ちつかぬ場面に転じるのは、非常に考へものだ、と思ひました。事実、覚阿・朝光の舞台のきり方も、幕ぎれであつてこそ意味のある、あり来りの方法だつたと申します。
備中阿闍梨の房は、作者の予期どほりと思はれる程度の成績を、役者たちがあげました。老けた方の橘屋と言ふ人の深見三郎二郎が、形と、其からひき出される気分との上だけでは、成功し相に見えながら、解釈のゆき届かなかつたと言ふ点で、大しくじりをやりましたのをとり除けますと。博士も、深見役者をして、此芝居の結末をつけさせよう、と言ふ考へなのですから、此脚本に於ける三郎二郎の位置と言ふものは、軽々しいものと考へては居られないのです。残念な事には、博士の考へと、老橘屋の表出とが一致せない点があるのでないか、と思ひました。其上に、脚本を読んですぐ思うた事ですが、今度の芝居を見て、愈明らかになつたのは、深見某に対する博士の解釈は、私ならばかう、と考へた役柄と大分違うて居るのです。