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叙景詩の発生
折口信夫
一
私の此短い論文は、日本人の自然美観の発生から、ある固定を示す時期までを、とり扱ふのであるから、自然同行の諸前輩の文章の序説とも、概論ともなる順序である。其等大方の中には、全く私と考へ方を異にしてゐられる向きもあることは、書かない前から知れて居る。其だけ、此話は私に即して居る。私一人でまだ他人の異見を聴いてもない考へなのである。が、是非私の考へ方の様に、文学意識なり、民族精神の展開の順序なりを置き換へて貰はねば、訣らない部分が、古代は勿論、近代の自然美観のうへにも出て来ることゝ信じる。
国民性を論ずる人が、発生的の見地に立たない為、人の世はじまつてから直ぐに、今のまゝの国民性が出来あがつてゐた、と思はれて居る。江戸の犬儒や、鍛錬主義者の合理化を経た士道・武士道が、そつくり戦国どころか、源平頃の武家にも、其精神の内容として見ることが出来る、といふ風に思はれ勝ちである。もつと溯つて「額に矢は立つとも背に矢は負はじ」と御褒めにあづかつた、奈良朝の吾妻の国の生蛮を多く含む東人の全精神を士道そのものとし、更に古く「みつ/\し久米の子ら」と其獰猛を謡はれた久米部の軍人などの内界からも、物のあはれ知る心を探り出させるのである。
これは、研究法はよくても、態度に間違ひがあるからだ。日本の唯今までの辞書や註釈書が、どの時代に通じても数個の意義に共通し、其用語例の間を浮動して居るもの、と見て居るやり口に酷似して居る。此言語解釈法が根柢から謬つて居る如く、誤りを等しくして居る思想史や、文明史は、変つた考へ方から、すつかり時代の置き換へをして見ねばならない。定見家や、俗衆のためには、自己讃美あれ。当来の学徒にとつては、正しい歴史的内省がなければならぬと思ふ。私はわれ/\の祖先がまだ国家意識を深く持たなかつたと思はれる飛鳥の都以前の邑落生活の俤を濃く現して見て、懐しい祖先のいとほしい粗野な生活を見瞻らなければならぬ。
二
佐韋川よ 霧立ちわたり、畝傍山 木の葉さやぎぬ。風吹かむとす(いすけより媛――記)
畝傍山 昼は雲と居、夕来れば、風吹かむとぞ 木の葉さやげる
文献のまゝを信じてよければ、開国第一・第二の天皇の頃にも、既にかうした描写能力――寧、人間の対立物なる自然を静かに心に持ち湛へて居ることの出来たのに驚かねばならない。たとひ、此が継子の皇子の異図を諷したものと言ふ本文の見解を、其儘にうけとつても、観照態度が確立して居なければ、此隠喩を含んだ叙景詩の姿の出来るはずはないと思ふ。論より証拠、其後、遥かに降つた時代の物と言ふ、仁徳天皇が吉備のくろ媛にうたひかけられた歌
山料地に蒔ける菘菜も 吉備びとゝ共にしつめば、愉しくもあるか(仁徳天皇――記)
の出て来るまでは、叙景にも、自然描写にも、外界に目を向けた歌を見出すことが出来ないばかりか、歌の詞すら却つて段々古めいて、意味が辿りにくゝなるのである。すさのをの命の「やくもたつ」の歌の形の、後世風に整ひ、表現の適確なのと、其点同様で、疑ひもなく、飛鳥の都時代以後の※入或は、擬作と思はれるものである。畝傍山の辺の風物の不安を帯びて居る歌の意味から、寓意の存在を感じて、綏靖即位前の伝説に附会して、織り込んだものと思はれる。
仁徳の菘菜の御製の方は、叙景の部分は僅かであるが、此方は自然に興味を持つた初期のものと見てもよい程、単純で、印象を強く出して居る。此も寧、抒情詩の一部であるが、畝傍山の歌よりは却つて古いものと思はれる。だが此とて、必しも仁徳御宇のものともきまらない。此位の自然観は、大体記録の順序通りに、此天皇の頃の物と見てもよろしい様だが、仁徳天皇に関係した歌謡は、全体として雄略・顕宗朝頃のものよりも、表現にも、形にも、理会程度からも、新しみを持つて居ると見られる。
後飛鳥期の歌で見ると、
山川に鴛鴦二つ居て 並ひよく 並へる妹を 誰か率行けむ(野中川原史満――日本紀)
新漢なる小丘が傍に雲だにも 著くし彷彿ば、何か嘆かむ(斉明天皇――同)
飛鳥川 みなぎらひつゝ行く水の 間もなくも思ほゆるかも(同)
山の端に鴨群騒ぎ行くなれど、我は寂しゑ。君にしあらねば(同――万葉巻四)
其外、此時代の歌と伝へる物を日本紀で見ると、
はろ/″\に琴ぞ聞ゆる。島の藪原。
をち方のあは野の雉子とよもさず……
小林に我を引入れて姦し人の面も知らず……(巫女の諷謡)
被射鹿をつなぐ川辺の若草の……(斉明天皇)
と言ふやうに、極めて部分的ではあるが、単なる口拍子に乗つた連ね文句ではなく、外界を掴む客観力の確かさがある。だから主題に入つても、其修飾部分の効果が、深く気分にはたらきかけるだけの鮮明と、斬新とがある。
かうした序歌の断篇の中、始終くり返される様になつた流行文句は、皆さう言ふ印象深い客観描写の物であつた。「いゆしゝを」の句は、万葉にも使はれて居る。「をちかたの」はある地物の隔てを越して、向うを指す句で、景色が目に浮くところから、奈良朝に入つても「をちかたの……(地名)」と言ふ風に、融通自在に用ゐられる民謡の常用句であつた。又、万葉に繰り返される「わがせこを我が……松原……」なども、抒情的で居て、印象のきはやかさのある為であつた。
後飛鳥期(舒明――天武)の歌を疑へば、万葉の第一のめどなる柿本人麻呂の歌さへ信じる事が出来なくなる。万葉集にも、此時代をば、大体に於て巻頭にすゑる傾向のあるのは、記・紀記載の末に接して、ある確実さを感じて居たからであらう。
仁徳・雄略朝の歌などを、不調和に冒頭に据ゑたのは、古典・古歌集としての権威を感じさせる為であつたらう。だから、内容から言へば、後飛鳥期を以て、時代の起しとしたものと見てよい。鴛鴦・を丘の雲・みなぎらふ水・山越ゆる鴨群など、時代が純粋な叙景詩を欲して居たら、直に其題材を捉へて歌ふ事の出来る能力を見せて居る。唯、歌に叙景詩としての意識が、まだ生じなかつたのであつた。私は仁徳天皇の生活を記念する為の叙景詩中の歌が、多分後飛鳥期の初めに接するものだらうと言うた。尚一・二を引いて見る。
倭べに西風吹きあげて 雲離れ 隔き居りとも 我忘れめや(くろ媛――記)
叙景気分は、濃く動いて居る。「……生ふる薑脣ひゞく 我は忘れじ」など言ふ行きあたりばつたりの序歌とは違うて、確かに見据ゑて居る。把握して居る。
大人物・大事件を伝へる叙事詩から、脱落した歌と思はれるものは、大体に理解し易い文脈と、発想法とを持つて居る。建部の伝誦した物と思はれるやまとたけるの命に関するものも、安曇の民の撒布したと推察せられる大国主の情詩も、皆記・紀の時代の区別に関係なく、よく訣ること、後の木梨軽太子の情詩と、さのみ時代の隔りを感じさせぬ程である。私は、ほかひ人の手で、諸国に持ち歩かれた物は、固定の儘を伝へる訣に行かないで、時々口拍子から出る修正が加はり/\して、後飛鳥期の物と、直に続く様に見えるのではないかと考へて居る。
さすれば外的には、叙景の手法が既に発生して居り、内的には、抒情詩にも客観性がほの見えて来た理由が訣る。「小林に」などの、情景のかつきりして居るのも、其為である。
三
江戸の浄瑠璃類の初期には、必須条件として、一曲の中に必一場は欠かれなかつた――時としては二場・三場すら含むものもあつた――道行き景事は、中期には芸術化して、此部分ばかりを小謡同様に語ると言ふ流行さへ起した。さうして末期には、振はなくなつたけれども、曲中の要処とする習はしは固定して残つた。芝居には、末期ほど盛んになつたが、初期は簡単な海道上下の振事、或は異風男の寛濶な歩きぶりを見せるに過ぎなかつた。けれども、歌舞妓以前の芸能にも、道行きぶりの所作は、古く延年舞・田楽・曲舞などにも行はれて居た。「風流」の如きは、道行きぶりを主とする仮装行列である。日本の芸能に道行きぶりの含まれて来た事は、極めて古くからの事と思はれる。
私は此を、遠処の神の、時を定めて、邑落の生活を見舞うた古代の神事の神群行の形式が残つて、演劇にも、叙事詩にも、旅行者の風姿をうつす風が固定したものと考へて居る。記・紀の歌謡を見ても、道行きぶりの文章の極めて多いのは、神事に絡んで発達した為で、人間の時代を語る物も、道行きぶりが到る処に顔を出す事になつたのである。
だが今一方に、発想法の上から来る理由がある。其は、古代の律文が予め計画を以て発想せられるのでなく、行き当りばつたりに語をつけて、ある長さの文章をはこぶうちに、気分が統一し、主題に到着すると言つた態度のものばかりであつた事から起る。目のあたりにあるものは、或感覚に触れるものからまづ語を起して、決して予期を以てする表現ではなかつたのである。
神風の 伊勢の海の大石に 這ひ廻ろふ細螺の い這ひ廻り、伐ちてしやまむ(神武天皇――記)
主題の「伐ちてしやまむ」に達する為に、修辞効果を予想して、細螺の様を序歌にしたのではなく、伊勢の海を言ひ、海岸の巌を言ふ中に「はひ廻ろふ」と言ふ、主題に接近した文句に逢着した処から、急転直下して「いはひもとほる」動作を自分等の中に見出して、そこから「伐ちてし止まむ」に到着したのである。
みつみつし久米の子等が 粟生には韮ひと茎。其根がもと 其根芽つなぎて、伐ちてしやまむ(神武天皇――記)
みつみつし久米の子等が 垣下に植ゑし薑。口ひゞく 我は忘れじ。伐ちてしやまむ(同)
此歌なども、久米部の民の家の矚目を順々に、粟原を言ひ、粟原に雑る韮の茎を見て、段々気分が纏つて来た際に、韮の根から、其を欲する心を述べ――其根が幹でなく、其根がもと言ふ所有の願望を示す「がも」である――根を掘る様を言ふ時既に、主題は完成して、「其根芽つなぎて」と根柢から引き抜く事の意より、其一党悉くを思ひ浮べ、直に「伐ちてしやまむ」と結着させたのである。第二首は説明が済んでゐるが、尚言へば、垣のもとの山椒の一種から「脣ひゞく」を聯想し、印象深く残つた一念を思ひ浮べて、其報復を欲する意を言ふ処に落ちついたのである。
……群鳥の わが群れ行なば 引け鳥の 我が牽け行なば、哭かじとは 汝は云ふとも、山門の一本薄 頸傾し 汝が哭かさまく、朝雨の さ霧に彷彿むぞ。……(八千矛神――記)
群鳥のわたるを仰いで、群れ行かうとする事を言ひ、其間に次の発想が考へ浮ばないから、ゆとりを持つ為に、対句として引け鳥を据ゑて、誘ひ立てられて、行かうとする事を述べ、やつと別れた後の女の悲しみに想到して、気強く寂しさに堪へようと云ふ女に反省させる様な心持ちを続けて来てゐる。そして目前の山門の薄の穂のあり様を半分叙述するかしない中に、うなだれて泣く別後の女の様を考へ、それから其穂を垂らす朝雨に注意が移つて、其細かな粒の霧となつて立ち亘つて居る状を言ひ進める中に、立つと言ふ語から転じて幻の浮ぶと言ふ意のたつに結びつけたのである。此などは、予期から出た技巧として見ると、なか/\容易に出来さうではないが、尻とり文句風に言うて居る中に、段々纏つて行つたものである。
此は一つには、時代として即興的にかけあひ文句を番へ争ふ歌垣などがあつて、さうした習練が積まれた事も、かうした発想法の自由さを助ける様になつて居たのである。併し此おほくにぬしの歌の様なのは、口頭の修正の重り加つたものと思はれる程、表現の的確な物である。山門の薄一本にかゝる朝雨を捉へて居る処も、客観描写の進んだ時代の物とすれば、不思議はない。修辞法の効果なども印象的に来るのは、「粟原の韮」や「垣下の薑」などの印象の淡い空虚な序歌となつて居るのと比べれば、そこに時代の進んで居ることが見える。神武記の物よりおほくにぬしの情詩の方が、新しい事は推せられる。更に時代の降つた応神紀の歌が、発想法から見れば、又却つて古い時代の物だと言ふ事を見せて居るのは、をかしい。
いざ吾君。野に蒜つみに 蒜つみに 我が行く道に、香ぐはし花橘。下枝らは人みな取り、秀枝は鳥棲枯し みつぐりの 中つ枝の 含隠り 赤れる処女。いざ。さかはえな(応神天皇――日本紀)