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日本文学の発生
折口信夫
何度目かの日本文学の発生を書くことになつた。此には、別に序説のやうなものがあつて、此文章と殆ど同時に発表することになつてゐるから、具体的なことを、落ちついて書き進めても、さし支へはないのだと言ふ、安堵のやうなものがあつて、之を書くことが、今のうちは、愉しい気がする。どうぞ、この心持ちが、いつまでも続いてくれるやうにと考へながら、書き出しを作る。
詞章伝承の情熱の起り
伝承する習俗と、把持する意力とが先祖の心になかつたら、吾々の文学は、どうなつて居たか知れない。恐らく、文学の現れずにしまつた訣もなからうが、ちよつと想像出来ぬ姿と、内容とを持つた、もつと脆弱なものが出て来たことであつたらうと思ふ。吾々の先祖は、何も神に報謝する為に、神の詞を伝へようとしたのではない。神の威力の永続を希うて、其呪力ある詞章を伝へ遺すまい、と努力して来たのであつた。
この詞章を伝承する事業は、容易なことゝは、昔の人程考へては居なかつた。こゝに、日本の古代宗教の形態の拠り処があつたらしく思はれる。神が神としての霊威を発揮するには、神の形骸に、威霊を操置する授霊者が居るものと考へた。神々の系譜の上に、高皇産霊尊・神皇産霊尊――天御中主神の意義だけは、私にはまだ訣らぬ――を据ゑて居るのは、此為であつた。此神の信仰が延長せられて、生産の神の様に思はれて来たが、むすびと言ふ語の用語例以外に、此神の職掌はなかつたはずである。
形骸に霊魂を結合させると、形骸は肉体として活力を持つやうになり、霊魂はその中で、育つのである。さうして其霊魂は、肉体を発育させる――さう言ふ風な信仰が、更に鎮魂の技術を発達させることになつたのである。だから、産霊は信仰で、鎮魂は呪術といふことになる。
高皇産霊・神皇産霊二神の中、多くの場合、高皇産霊尊を代表と見なしたことであつた。又当然、二尊の間に、職掌の分担を考へてゐたことも思はれる。ともかくも、産霊ノ神の職掌の重大な部分として挙げてよいものが、一つある。
尊い神が、神の詞を宣る時に、其を自ら発言することの出来る資格を授ける為に、此神の出現したと考へたのが、古代の考へ方である。天照大神に添うて、此神の出現する時は、重要な神事が行はれる訣である。
天照大神の神格については、いろ/\の考へもあるが、此神に、人間的な要素を深く考へてゐたことは忘れてはならぬ。最大の神言を発せられる場合に、きまつて居ると言へる。其人格をして、十分に神の能力を伸べさせるには、どうしても威霊を、その身に結合させる外はない。この大神をして、完全円満にして、永遠に効験ある神言を発せさせ申す為には、さうした大威力ある霊魂を、神の体中に置かねばならないとしたのである。其威霊は別に存在するものとして、その霊魂を処置するものなる、高皇産霊尊は、どうしても考へねばならなかつた訣である。かうして、最高の威力を具へられた天照大神の発せられた神言は、瓊々杵尊之を、下界に伝達せられたもの、と信じて来た。此地上に於いて、聖なる御子の神言を発せられる際は、其が伝達の意味であることは勿論だが、やはり、さうした呪術者が、身辺に居て、威霊を結合させる。さうすると、天上の神に現れた様に、威力ある詞が聖なる御子によつて発せられるやうになる、と考へたのである。此呪術を行ふ者が、天児屋命或は太玉命と謂はれる神々である。つまりは、週期的に神言を発する時が、廻つて来るのが常であつたからである。一度限りなら、さうして呪術者が、天上から随伴する必要はなかつたのであつた。
神語を発する能力ある神となることを考へたのが、次には、神語を発する能力自らが来り寓るものと思ふ時が来た。神語を発する神でなく、神語の威霊を考へたのである。此信仰が展開して、言霊信仰が現れて来ることになる。
天照大神に高皇産霊尊が随うた如く、亦瓊々杵尊に天児屋命が随うた如く、尊い神事を行ふ者には、威霊を操置する呪術者が随伴するものと考へたのが、こゝに言はうとした日本古代信仰の、重要な一つの形態なのである。
かうした形が定つた上は、いつも尊い人を表現するのにも、其人の介添へとなり、其人を育成する者を相並べて考へないでは居られなかつた。即、うしろみ――後見――の習俗が、此から出発した。多くの後見は、主人に対して、低い位置にあるものであつた。併し権威は、主人に向つても、振ふことは出来たのである。後代の語で言ふおとななどにも当るが、めのと――女より転じて、男にも言ふことになつた――にも、此定義がある。幼君を養育する者が、成長後は、主人として其人を崇めながら、尚親近感以外に、ある勢力を持つてゐる。さうした者をうしろみと言うた。従つて亦、夫に対して妻をうしろ見と言ひ、妻に対して、夫をうしろ見と言ふこともあるのは、おなじ理由から出てゐる。必、夫なり妻なりが、其相手よりも若くて、年増しの妻なり、年長の夫なりの介添へによつて連れ添うて来たと言ふ間柄の夫婦を言つてゐる。多くは年長女房を後見と言ふのである。此などは明らかに、神及び尊い御子を育てるのに、巫女が扶育して養ひ立て、成長後殆ど、神の妻のやうな交情を以て、神聖に接し、神の旨を伺ふことになつて居た。
さうした神を養育する、と言ふ信仰が、形づくられるに到つたのである。此形態が、社会にも家庭にも一般に行はれ、貴人の位置の尊さを表現するには、此幾重のうしろ見を具へることによつてすることになつた。乳母・後見・首名――乙名・老職、あげれば、貴人を廻つて、保護の責に任じてゐる者が、一通りや二通りではなかつた。だが、此形式の重畳であつて、かう言ふ形をとつて居たからと言つて、直に其御主人が、古くは神の地位にあつたとは言はれぬのである。
宮廷においてもやはり、其とほりであつた。此幾重扶育者があつて、主上を扶育申して来、権威具備せられて後までも尚此形は存続してゐた。かう言ふお為向けをすることが、家庭元来の拠るべき形式とすれば、宮廷だつて、之にお拠りにならなければならなかつた。さうでなくば、宮廷の生活様式だけが、独立してしまふことになるのである。
古代の家伝
生れ立ちからして、既に聖なる運命を以て現れ来るものと考へられてゐた。其についで考へられたことは、択ばれた、聖なる母胎に寓らねばならぬことであつた。尊い数人の女性の御腹に、各御子があつた時には、之を選択するに、其生れ立ちの奇瑞と、成長後の神の恩寵と、自ら持つ霊威力とを、第一の条件とした。さうして、其に叶うた数人――概して二三人を「ひつぎのみこ」として、神聖な待遇と其に適した生活様式をおさせ申した。さうして、多くの場合、其ひつぎのみこの中から、ひのみこ――即、天子をお立て申すことになつて居た。だから、ひつぎのみこに太子の字を宛てることはあつても、必しも後の皇太子には当らぬのである。其ひつぎのみこに択ばれずに居られたみこたちも、元よりその家庭生活の形は、前に言つた通りで、唯、ひつぎのみこ、ひのみこ特有の生活様式は避けて居たが、日常生活は、多くは同様であつた。ひつぎのみこも、みこの時期は、大凡同じ為向けを受けて育たれたものらしいから、まづ皇子の生活を説くのが適当だらうと思ふ。唯私はこゝで、上古史を語るつもりはないのだから、ほんの輪廓を書くだけに止めることの諒解を得たい。
みこ生れ給ふと共に、産湯の儀式を行ふ。其際に、其みこの一生に関聯深い壬生部と言ふ部曲――聖職団体――が定まる。其々のみこの扶育・教養・保護凡すべて其一代を守り申す壬生職なる家族――氏――の下にあつて、其みこの一代を通じて奉仕し、更に他界の後、其みこの、此世にあつたことの記念の団体として残つたのである。だから、壬生部は多く、壬生氏が、其所属の部曲民の一部を割いて、みこに附けたものである。之を、形式的に公認する様な形になり、宮廷から定められたものゝ様子も見えたのである。元々、さうした表向きのものではなかつたと思はれる。かう言ふ深い交渉が、みこの一生涯と、其れ/″\の壬生氏との間に起つた原因は、多く母方の関係があつたものであらうが、後漸くその家の女をめあはすと言ふ風に、なつて来たやうである。併し其は壬生選定に関する附随条件であつた。主要なものは、聖なるみこは、生れ立ちから、宮廷の人でありながら、他氏の手で養はれて育つと言ふ点である。其養育の任に当る壬生氏に、種々な家が選定せられた。かうして生し立てたみこが、聖格を顕現して、ひつぎのみこに儲け備り、ひのみこに至られることを望む様になるのは、自然の勢ひだが、必しもさうした希望を以て、お育てしてゐるのではなかつた。唯、神を生し育てる家々の習俗が、人なるみこを育み申す形を、とる様になつて来たからのことである。さうすることが、古代の民俗であり、又さうすることによつて、其家の家格を外に示すことになつてゐたのである。時代を経て後、「むこ」として、ゆくりなく一家庭に、貴人の出現を迎へる形が分化して来た。之を迎へて子の如く、子より愛し、更に其穿つた沓をとつて懐にするまでの民俗の残つたのも、壬生氏選定の古風が行はれずなつて後、世間の婿取りの普通の形となつてしまつた訣である。之を扶助し、保護して、高名の人たらしめようとした中世以後にも残つた民俗の心理的基礎は、こんな処に窺はれるのである。
謂はゞ其家に、ゆくりなく出現した神の子である。其を生し立てゝ、其神の生ひ立つまゝに発現する霊威を、世に光被させようとする。唯其だけが、古代の宗教家の持つてゐた情熱の全部であつた。だから、神を携行して、永い旅路を経廻つたのが、日本上古の信仰布教の通常の形となつて居た。其等の宗教家は、多くは団体として移動し、神を斎くことの為による勢力より先に、既に相当な勢威を以て、世間を游行するものであつた訣である。さうして、其当体とする所の神は、其等の神人の手で育成せられて、次第に霊威を発揮した尊い神であるが、時には、まだ幼くて、神人の保護から離れることの出来ぬ未完成の神であることもあつた程だ。
此が上古神人の家に殆共通だつたと思はれる伝承だが、其に並行して生じた伝説を、歴史と信じて、古代の氏々は、守つて居たのである。歴史としてばかりでなく、氏々未来への光明でもあつた。だから、かうした形で、家々へ出現する所の尊い現実を仰ぎ待つて居たのである。さうした宗教歴史の並行して行はれる様になつた最大の条件は、氏々の家が皆、神人の大きなものであつたといふことである。
壬生の氏々は、神人家で神を育んだ旧伝承を、新しい民俗として現実生活の上に実現した。さうして、神の子と感じるに最適した、最貴の家庭のみこを迎へて、はぐゝみ育てた。
此形のまゝに進んで行つたとしたら、みこのひつぎのみことなり、ひのみことなられるに従うて、壬生として奉仕した氏の長上は、天子を輔佐する位置まで行つたであらうが、民俗と歴史とは、――その現実が、信仰に背信を打つたやうに、明らかに豹変した形を示してゐる。
時代毎に替るはずの壬生氏が、一々政権の首班或は其に近い位置に居るといふことがなくなつて、政柄をとる家筋は、大体に固定する傾きを見せて来た。
併し其にも繋らず、常に執柄者が、ひのみこにとつた行き方は、一つ姿を持つてゐるのであつた。其は、我々が想像してゐる形ではなかつた。どの時代を見ても、布教者が若き神をはぐゝみ申したのと、同じ態度をとつて居る。津田左右吉さんが、「世界」第三号で、こゝの疑問を提出してゐられた。尤な話である。家庭における主人と、家おとな――うしろ見――との間柄、即、古い、幼神と布教者との関係を延長した民俗が、宮廷にも見られるのである。だから、朝権の薄らいだ世には、執柄家が、ひのみこの御名において、恣に事を行うたことも、あたまから歴史的意義のないこととは出来ないのであつた。朝政摂行の時代とも言ふべき平安時代を通じて見ても、かの古代家庭民俗を隔てゝ見ると、なる程と肯かれることが多い。
だから思ふ。藤原氏が天児屋命の後と称して居た理由も、大いに肯けるのだ。かうした形の更に古いものが、産霊信仰なのだから、此信仰の分岐した姿の、産霊神を以て先祖とする考へは、幼神と布教者との関係よりも、もつと根本的なものに、還すことになると信じたのであらう。