Chapter 1 of 3

掃除をしたり、お菜を煮たり、糠味噌を出したりして、子供等に晩飯を濟まさせ、彼はやうやく西日の引いた縁側近くへお膳を据ゑて、淋しい氣持で晩酌の盃を甞めてゐた。すると御免とも云はずに表の格子戸をそうつと開けて、例の立退き請求の三百が、玄關の開いてた障子の間から、ぬうつと顏を突出した。

「まあお入りなさい」彼は少し酒の氣のつてゐた處なので、坐つたなり元氣好く聲をかけた。

「否もうこゝで結構です。一寸そこまで散歩に來たものですからな。……それで何ですかな、家が定まりましたでせうな? もう定まつたでせうな?」

「……さあ、實は何です、それについて少しお話したいこともあるもんですから、一寸まあおあがり下さい」

彼は起つて行つて、頼むやうに云つた。

「別にお話を聽く必要も無いが……」と三百はプンとした顏して呟きながら、澁々に入つて來た。四十二三の色白の小肥りの男で、紳士らしい服裝してゐる。併し斯うした商賣の人間に特有――かのやうな、陰險な、他人の顏を正面に視れないやうな變にしよぼ/\した眼附してゐた。

「……で甚だ恐縮な譯ですが、妻も留守のことで、それも三四日中には屹度歸ることになつて居るのですから、どうかこの十五日まで御猶豫願ひたいものですが、……」

「出來ませんな、斷じて出來るこつちやありません!」

斯う呶鳴るやうに云つた三百の、例のしよぼ/\した眼は、急に紅い焔でも發しやしないかと思はれた程であつた。で彼はあわてゝ、

「さうですか。わかりました。好ござんす、それでは十日には屹度越すことにしますから」と謝まるやうに云つた。

「私もそりや、最初から貴方を車夫馬丁同樣の人物と考へたんだと、そりやどんな強い手段も用ゐたのです。がまさかさうとは考へなかつたもんだから、相當の人格を有して居られる方だらうと信じて、これだけ緩慢に貴方の云ひなりになつて延期もして來たやうな譯ですからな、この上は一歩も假借する段ではありません。如何なる處分を受けても苦しくないと云ふ貴方の證書通り、私の方では直ぐにも實行しますから」

何一つ道具らしい道具の無い殺風景な室の中をじろ/\氣味惡るく視しながら、三百は斯う呶鳴り續けた。彼は、「まあ/\、それでは十日の晩には屹度引拂ふことにしますから」と、相手の呶鳴るのを抑へる爲め手を振つて繰返すほかなかつた。

「……實に變な奴だねえ、さうぢや無い?」

やう/\三百の歸つた後で、彼は傍で聽いてゐた長男と顏を見交はして苦笑しながら云つた。

「……さう、變な奴」

子供も同じやうに悲しさうな苦笑を浮べて云つた。……

狹い庭の隣りが墓地になつてゐた。そこの今にも倒れさうになつてゐる古板塀に繩を張つて、朝顏がからましてあつた。それがまた非常な勢ひで蔓が延びて、先きを摘んでも/\わきから/\と太いのが出て來た。そしてまたその葉が馬鹿に大きくて、毎日見て毎日大きくなつてゐる。その癖もう八月に入つてるといふのに、一向花が咲かなかつた。

いよ/\敷金切れ、滯納四ヶ月といふ處から家主との關係が斷絶して、三百がやつて來るやうになつてからも、もう一月程も經つてゐた。彼はこの種を蒔いたり植ゑ替へたり繩を張つたり油粕までやつて世話した甲斐もなく、一向に時が來ても葉や蔓ばかし馬鹿延びに延びて花の咲かない朝顏を餘程皮肉な馬鹿者のやうにも、またこれほど手入れしたその花の一つも見れずに追ひ立てられて行く自分の方が一層の慘めな痴呆者であるやうな氣もされた。そして最初に訪ねて來た時分の三百の煮え切らない、變にり冗く持ちかけて來る話を、幾らか馬鹿にした氣持で、塀いつぱいに匐ひのぼつた朝顏を見い/\聽いてゐたのであつた。所がそのうち、二度三度と來るうちに、三百の口調態度がすつかり變つて來てゐた。そして彼は三百の云ふなりになつて、八月十日限りといふいろ/\な條件附きの證書をも書かされたのであつた。そして無理算段をしては、細君を遠い郷里の實家へ金策に發たしてやつたのであつた。……

「なんだつてあの人はあゝ怒つたの?」

「やつぱし僕達に引越せつて譯さ。なあにね、明日あたり屹度母さんから金が來るからね、直ぐ引越すよ、あんな奴幾ら怒つたつて平氣さ」

膳の前に坐つてゐる子供等相手に、斯うした話をしながら、彼はやはり淋しい氣持で盃を甞め續けた。

無事に着いた、屹度十日までに間に合せて金を持つて歸るから――といふ手紙一本あつたきりで其後消息の無い細君のこと、細君のつれて行つた二女のこと、また常陸の磯原へ避暑に行つてるKのこととKからは今朝も、二ツ島といふ小松の茂つたそこの磯近くの巖に、白い波の碎けてゐる風景の繪葉書が來たのだ。それには、「勿來關に近いこゝらはもう秋だ」といふやうなことが書いてあつた。それがこの三年以來の暑氣だといふ東京の埃りの中で、藻掻き苦しんでゐる彼には、好い皮肉であらねばならなかつた。

「いや、Kは暑を避けたんぢやあるまい。恐らくは小田を勿來關に避けたといふ譯さ」

斯う彼等の友達の一人が、Kが東京を發つた後で云つてゐた。それほど彼はこの三四ヶ月來Kにはいろ/\厄介をかけて來てゐたのであつた。

この三四ヶ月程の間に、彼は三四の友人から、五圓程宛金を借り散らして、それが返せなかつたので、すべてさういふ友人の方面からは小田といふ人間は封じられて了つて、最後にKひとりが殘された彼の友人であつた。で「小田は十錢持つと、澁谷へばかし行つてゐるさうぢやないか」友人達は斯う云つて蔭で笑つてゐた。晩の米が無いから、明日の朝食べる物が無いから――と云つては、その度に五十錢一圓と強請つて來た。Kは小言を並べながらも、金の無い時には古本や古着古靴などまで持たして寄越した。彼は歸つて來て、「そうらお土産……」と、赤い顏する細君の前へ押遣るのであつた。(何處からか、救ひのお使者がありさうなものだ。自分は大した贅澤な生活を望んで居るのではない、大した欲望を抱いて居るのではない、月に三十五圓もあれば自分等家族五人が饑ゑずに暮して行けるのである。たつたこれだけの金を器用に儲けれないといふ自分の低能も度し難いものだが、併したつたこれだけの金だから何處からかひとりでに出て來てもよささうな氣がする)彼にはよくこんなことが空想されたが、併しこの何ヶ月は、それが何處からも出ては來なかつた。何處も彼處も封じられて了つた。一日一日と困つて行つた。蒲團が無くなり、火鉢が無くなり、机が無くなつた。自滅だ――終ひには斯う彼も絶望して自分に云つた。

電燈屋、新聞屋、そばや、洋食屋、町内のつきあひ――いろんなものがやつて來る。室の中に落着いて坐つてることが出來ない。夜も晩酌が無くては眠れない。頭が痛んでふら/\する。胸はいつでもどきん/\してゐる。……

と云つて彼は何處へも訪ねて行くことが出來ないので、やはり十錢持つと、Kの澁谷の下宿へ押かけて行くほかなかつた。Kは午前中は地方の新聞の長篇小説を書いて居る。午後は午睡や散歩や、友達を訪ねたり訪ねられたりする時間にあてゝある。彼は電車の中で、今にも昏倒しさうな不安な氣持を感じながらどうか誰も來てゐないで呉れ……と祈るやうに思ふ。先客があつたり、後から誰か來合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入つた、一層壓倒された慘めな氣持にされて歸らねばならぬのだ――

彼は齒のすつかりすり減つた日和を履いて、終點で電車を下りて、午下りの暑い盛りをだら/\汗を流しながら、Kの下宿の前庭の高い松の樹を見あげるやうにして、砂利を敷いた阪路を、ひよろ高い屈つた身體してテク/\上つて行くのであつた。松の樹にはいつでも蝉がギン/\鳴いてゐた。また玄關前のタヽキの上には、下宿の大きな土佐犬が手脚を伸して寢そべつてゐた。彼は玄關へ入るなり、まづ敷臺の隅の洋傘やステツキの澤山差してある瀬戸物の筒に眼をつける――Kの握り太の籐のステツキが見える――と彼は案内を乞ふのも氣が引けるので、こそこそと二階のKの室へあがつて行く。……

「……K君――」

「どうぞ……」

Kは毛布を敷いて、空氣枕の上に執筆に疲れた頭をやすめてゐるか、でないとひとりでトランプを切つて占ひごとをしてゐる。

「この暑いのに……」

Kは斯う警戒する風もなく、笑顏を見せて迎へて呉れると、彼は初めてほつとした安心した氣持になつて、ぐたりと坐るのであつた。それから二人の間には、大抵次ぎのやうな會話が交はされるのであつた。

「……そりやね、今日の處は一圓差上げることは差上げますがね。併しこの一圓金あつた處で、明日一日凌げば無くなる。……後をどうするかね? 僕だつて金持といふ譯ではないんだからね、さうは續かないしね。一體君はどうご自分の生活といふものを考へて居るのか、僕にはさつぱり見當が附かない」

「僕にも解らない……」

「君にも解らないぢや、仕樣が無いね。で、一體君は、さうしてゐて些とも怖いと思ふことはないかね?」

「そりや怖いよ。何も彼も怖いよ。そして頭が痛くなる、漠然とした恐怖――そしてどうしていゝのか、どう自分の生活といふものを考へていゝのか、どう自分の心持を取直せばいゝのか、さつぱり見當が附かないのだよ」

「フン、どうして君はさうかな。些とも漠然とした恐怖なんかぢやないんだよ。明瞭な恐怖なんぢやないか。恐ろしい事實なんだよ。最も明瞭にして恐ろしい事實なんだよ。それが君に解らないといふのは僕にはどうも不思議でならん」

Kは斯う云つて、口を噤んで了ふ。彼もこれ以上Kに追求されては、ほんたうは泣き出すほかないと云つたやうな顏附になる。彼にはまだ本當に、Kのいふその恐ろしいものゝ本體といふものが解らないのだ。がその本體の前にぢり/\引摺り込まれて行く、泥沼に脚を取られたやうに刻々と陷沒しつゝある――そのことだけは解つてゐる。けれどもすつかり陷沒し切るまでには、案外時がかゝるものかも知れないし、またその間にどんな思ひがけない救ひの手が出て來るかも知れないのだし、また福運といふ程ではなくも、どうかして自分等家族五人が饑ゑずに活きて行けるやうな新しい道が見出せないとも限らないではないか?――無氣力な彼の考へ方としては、結局またこんな處へ落ちて來るといふことは寧ろ自然なことであらねばならなかつた。

(魔法使ひの婆さんがあつて、婆さんは方々からいろ/\な種類の惡魔を生捕つて來ては、魔法で以て惡魔の通力を奪つて了ふ。そして自分の家來にする。そして滅茶苦茶にコキ使ふ。厭なことばかしさせる。終ひにはさすがの惡魔も堪へ難くなつて、婆さんの處を逃げ出す。そして大きな石の下なぞに息を殺して隱れて居る。すると婆さんが搜しに來る。そして大きな石をあげて見る、――いやはや惡魔共が居るわ/\、塊り合つてわな/\ぶる/\慄へてゐる。それをまた婆さんが引掴んで行つて、一層ひどくコキ使ふ。それでもどうしても云ふことを聽かない奴は、懲らしめの爲め何千年とか何萬年とかいふ間、何にも食はせずに壁の中や巖の中へ魔法で封じ込めて置く――)

これがKの、西藏のお伽噺――恐らくはKの創作であらう――といふものであつた。話上手のKから聽かされては、この噺は幾度聽かされても彼にはおもしろかつた。

「何と云つて君はヂタバタしたつて、所詮君といふ人はこの魔法使ひの婆さん見たいなものに見込まれて了つてゐるんだからね、幾ら逃げつたつて、そりや駄目なことさ、それよりも穩なしく婆さんの手下になつて働くんだね。それに通力を拔かれて了つた惡魔なんて、ほんとに仕樣が無いもんだからね。それも君ひとりだつたら、そりや壁の中でも巖の中でも封じ込まれてもいいだらうがね、細君や子供達まで卷添へにしたんでは、そりや可哀相だよ」

「そんなもんかも知れんがな。併しその婆さんなんていふ奴、そりや厭な奴だからね」

「厭だつて仕方が無いよ。僕等は食はずにや居られんからな。それに厭だつて云ひ出す段になつたら、そりや君の方の婆さんばかしとは限らないよ」

夕方近くになつて、彼は晩の米を買ふ金を一圓、五十錢と貰つては、歸つて來る。(本當に、この都會といふ處には、Kのいふその魔法使ひの婆さん見たいな人間ばかしだ!)と、彼は歸りの電車の中でつく/″\と考へる。――いや、彼を使つてやらうといふやうな人間がそんなのばかりなのかも知れないが。で彼は、彼等の酷使に堪へ兼ねては、逃げる。食はず飮まずでもいいからと思つて、石の下――なぞに隱れて見るが、また引掴まへられて行く。……既に子供達といふものがあつて見れば! 運命だ! が、やつぱし辛抱が出來なくなる。そして、逃げる。……

處で彼は、今度こそはと、必死になつて三四ヶ月も石の下に隱れて見たのだ。がその結果は、やつぱし壁や巖の中へ封じ込められようといふことになつたのだ。……

Kへは氣の毒である。けれども彼には何處と云つて訪ねる處が無い。でやつぱし、十錢持つと、澁谷へ通つた。

處が最近になつて、彼はKの處からも、封じられることになつた。それは、Kの友人達が、小田のやうな人間を補助するといふことはKの不道徳だと云つて、Kを非難し始めたのであつた。「小田のやうなのは、つまり惡疾患者見たいなもので、それもある篤志な醫師などに取つては多少の興味ある活物であるかも知れないが、吾々健全な一般人に取つては、寧ろ有害無益の人間なのだ。そんな人間の存在を助けてゐるといふことは、社會生活といふ上から見て、正しく不道徳な行爲であらねばならぬ」斯ういふのが彼等の一致した意見なのであつた。

「一體貧乏といふことは、決して不道徳なものではない。好い意味の貧乏といふものは、却て他人に謙遜な好い感じを與へるものだが、併し小田のはあれは全く無茶といふものだ。貧乏以上の状態だ。憎むべき生活だ。あの博大なドストヱフスキーでさへ、貧乏といふことはいゝことだが、貧乏以上の生活といふものは呪ふべきものだと云つてゐる。それは神の偉大を以てしても救ふことが出來ないから……」斯うまた、彼等のうちの一人の、露西亞文學通が云つた。

また、つい半月程前のことであつた。彼等の一人なるYから、亡父の四十九日といふので、彼の處へも香奠返しのお茶を小包で送つて來た。彼には無論一圓といふ香奠を贈る程の力は無かつたが、それもKが出して置いて呉れたのであつた。Yの父が死んだ時、友人同志が各自に一圓づつの香奠を送るといふのも面倒だから、連名にして送らうではないかといふ相談になつて(彼はその席には居合せなかつたが)その時Kが「小田も入れといてやらうぢやないか、斯ういふ場合なんだからね、小田も可愛相だよ」斯う云つて、彼の名をも書き加へて、Kが彼の分をも負擔したのであつた。

それから四十九日が濟んだといふ翌くる日の夕方前、――丁度また例の三百が來てゐて、それがまだ二三度目かだつたので、例のり冗い不得要領な空恍けた調子で、並べ立てゝゐた處へ、丁度その小包が着いたのであつた。「いや私も近頃は少し腦の加減を惡るくして居りましてな」とか、「ええその、居は心を移すとか云ひますがな、それは本當のことですな。何でも斯ういふ際は多少の不便を忍んでもすぱりと越して了ふんですな。第一處が變れば周圍の空氣からして變るといふもんで、自然人間の思想も健全になるといふやうな譯で……」斯う云つたやうなことを一時間餘りもそれからそれと並べ立てられて、彼はすつかり參つてゐた處なので、もう解つたから早く歸つて呉れと云はぬばかしの顏してゐた處なので、そこへ丁度好くそのお茶の小包が着いたので、それが氣になつて堪らぬと云つた風をしては、座側に置いた小包に横目をやつてゐた。また實際一圓の香奠を友人に出して貰はねばならぬ樣な身分の彼としては、一斤といふお茶は貴重なものに違ひなかつた。で三百の歸つた後で、彼は早速小包の横を切るのももどかしい思ひで、包裝を剥ぎ、そしてそろ/\と紙箱の蓋を開けたのだ。……新しいブリキ鑵の快よい光! 山本山と銘打つた紅いレツテルの美はしさ! 彼はその刹那に、非常な珍寶にでも接した時のやうに、輕い眩暈すら感じたのであつた。

彼は手を附けたらば、手の汗でその快よい光りが曇り、すぐにも錆が附きやしないかと恐るゝかのやうに、そうつと注意深く鑵を引出して、見惚れたやうに眺めした。……と彼は、ハツとした態で、あぶなく鑵を取落しさうにした。そして忽ち今までの嬉しげだつた顏が、急に悄げ垂れた、苦いやうな悲しげな顏になつて、絶望的な太息を漏らしたのであつた。

それは、その如何にも新らしい快よい光輝を放つてゐる山本山正味百二十匁入りのブリキの鑵に、レツテルの貼られた後ろの方に、大きな凹みが二箇所といふもの、出來てゐたのであつた。何物かへ強く打つけたか、何物かで強く打つたかとしか思はれない、ひどい凹みであつた。やがて、當然、彼の頭の中に、これを送つた處のYといふ人間が浮んで來た。あの明確な頭腦の、旺盛な精力の、如何なる運命をも肯定して驀地らに未來の目標に向つて突進しようといふ勇敢な人道主義者――、常に異常な注意力と打算力とを以て自己の周圍を視し、そして自己に不利益と見えたものは天上の星と雖も除き去らずには措かぬといふ強猛な感情家のY、――併し彼は如何に猜疑心を逞うして考へて見ても、まさかYが故意に、彼を辱しめる爲めに送つて寄越したのだとは、彼にも考へることが出來なかつた。……それは餘りに理由ないことであつた。

「何しろ身分が身分なんだから、それは大したものに違ひなからうからな、一々開けて檢べて見るなんて出來た譯のものではなからう。つまり偶然に、斯うした傷物が俺に當つたといふ譯だ……」

それが當然の考へ方に違ひなかつた。併し彼は何となく自分の身が恥ぢられ、また悲しく思はれた。偶然とは云へ、斯うした物に紛れ當るといふことは、餘程呪はれた者の運命に違ひないといふ氣が強くされて――

彼は、子供等が庭へ出て居り、また丁度細君も使ひに行つてゝ留守だつたのを幸ひ、臺所へ行つて木で出來るだけその凹みを直し、妻に見つかつて詰問されるのを避ける準備をして置かねばならなかつた。

それから二三日經つて、彼はKに會つた。Kは彼の顏を見るなり、鋭い眼に皮肉な微笑を浮べて、

「君の處へも山本山が行つたらうね?」と訊いた。

「あ貰つたよ。さう/\、君へお禮を云はにやならんのだつけな」

「お禮はいゝが、それで別段異状はなかつたかね?」

「異状?……」彼にもKの云ふ意味が一寸わからなかつた。

「……だと別に何でもないがね、僕はまた何處か異状がありやしなかつたかと思つてね。……そんな話を一寸聞いたもんだから」

斯う云はれて、彼の顏色が變つた。――鑵の凹みのことであつたのだ。

それは、全く、彼にも想像にも及ばなかつた程、恐ろしい意外のことであつた。鑵の凹みは、Yが特に、毎朝振り慣れた鐵亞鈴で以て、左りぎつちよの逞しい腕に力をこめて、Kの口調で云ふと、「えゝ憎き奴め!」とばかり、毆りつけて寄越したのださうであつた。

「……K君そりや本當の話かね? 何でまたそれ程にする必要があつたんかね? 變な話ぢやないか。俺はYにも御馳走にはなつたことはあるが、金は一文だつて借りちやゐないんだからな……」

斯う云つた彼の顏付は、今にも泣き出しさうであつた。

「だからね、そんな、君の考へてるやうなもんではないつてんだよ、世の中といふものはね。もつともつと君の考へてる以上に怖ろしいものなんだよ、現代の生活マンの心理といふものはね。……つまり、他に理由はないんさ、要するに貧乏な友達なんか要らないといふ譯なんだよ。他に君にどんな好い長所や美點があらうと、唯君が貧乏だといふだけの理由から、彼等は好かないといふんだからね、仕樣がないぢやないか。殊にYなんかといふあゝ云つた所謂道徳家から見ては、單に惡病患者視してるに堪へないんだね。機會さへあればさう云つた目障りなものを除き去らう撲滅しようとかゝつてるんだからね。それで今度のことでは、Yは僕のこともひどく憤慨してるさうだよ。……小田のやうな貧乏人から、香奠なんか貰ふことになつたのも、皆なKのせゐだといふんでね。かと云つて、まさか僕に鐵亞鈴を喰はせる譯にも行かなかつたらうからね。何しろ今の裟婆といふものは、そりや怖ろしいことになつて居るんだからね」

「併し俺には解らない、どうしてそんなYのやうな馬鹿々々しいことが出來るのか、僕には解らない」

「そこだよ、君に何處か知ら脱けてる――と云つては失敬だがね、それは君は自分に得意を感じて居る人間が、慘めな相手の一寸したことに對しても持ちたがる憤慨や暴慢といふものがどんな程度のものだかといふことを了解してゐないからなんだよ。それに一體君は、魔法使ひの婆さん見たいな人間は、君に仕事をさせて呉れるやうな方面にばかし居るんだと思つてるのが、根本の間違ひだと思ふがな。吾々の周圍――文壇人なんてもつとひどいものかも知れないからね。君のいふ魔法使ひの婆さんとは違つた、風流な愛とか人道とか慈くしむとか云つてるから悉くこれ慈悲忍辱の士君子かなんぞと考へたら、飛んだ大間違ひといふもんだよ。このことだけは君もよく/\腹に入れてかゝらないと、本當に君といふ人は吾々の周圍から、……生存出來ないことになるぜ! 世間には僕のやうな風來々坊ばかし居ないからね」

今にも泣き出しさうに瞬たいてゐる彼の眼を覗き込んで、Kは最後の宣告でも下すやうに、斯う云つた。

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