Chapter 1 of 20

バスを待つうしろ姿

昼食には洋食の店でコロッケを食べた。右隣の席にいる三年だけ先輩の同僚が教えてくれた店だ。初めてのその店で食べたあと、まだ歩いたことのない道を経由して会社へ向かった。途中に画材の店があった。本来は卸問屋なのだが、店先では小売りもしていた。スケッチ・ブックが目玉商品として安く出ていた。B6サイズで百枚綴じのを一冊、北原亜紀男は買った。

会社の建物へ戻り、エレヴェーターで六階へ上がった。このワン・フロアが営業の大部屋だ。片方の壁にタイム・カードとその印字機があり、その前を横へ奥に入ると、そこは湯沸かし室だった。正面には曇りガラスのドアが観音開きにあった。ドアを入ると右手のスペースがタイピスト・プールで、通路をはさんで左側には営業庶務の人たちの机がならんでいた。その向こうに会議室がふたつあり、さらにその奥はテレックス・マシーンとそのオペレーターのコーナーだった。

新卒で入社してまだ三か月にならない北原の席は、大部屋のほぼまんなかあたりにあった。昼休みはまだ終わっていない。だから部屋に人は少なかった。女性たちはまだ全員が席に戻っていなかった。自分の机までいき、椅子にすわり、買ったばかりのスケッチ・ブックを手に持って開いた。B6のサイズで白い画用紙が連続していた。裏と表では感触が違った。表は鉛筆のひっかかりが良さそうだ、と北原は思った。

濃紺のスーツ・ジャケットの内ポケットから、彼は黒いシャープ・ペンシルを取り出した。速記者が使うものだということで、0・9ミリで2Bの芯が入っていた。芯を繰り出しながら彼がふと思ったのは、今日もエレヴェーターを使って何度も出たり入ったりしたが、まだ長谷川裕子の姿を見ていない、ということだった。

右開きのスケッチ・ブックを半回転させて左開きとした彼は、表紙を開いた。最初のページの白いスペースのなかの、ある一点にシャープ・ペンシルの芯先を下ろした彼は、そこから絶妙な滑らかさと素早さで、まるでひと筆描きのように若い女性をひとり、描き出した。ドアの開いているエレヴェーターから、ふと外に出てみたというポーズの、制服のエレヴェーター・ガールだ。九階まであるこの建物は、ワン・ブロックのほとんどをふさいでいた。一階の長方形のロビーの片側に、五基のエレヴェーターがならんでいた。六人のエレヴェーター・ガールが、交代でこの五基を操作していた。スケッチ・ブックに北原亜紀男が描いたのは、そのうちのひとりである、長谷川裕子だった。

昼食から帰って来た隣の部の課長代理が、北原の椅子のうしろをとおりかかった。スケッチ・ブックに目をとめて立ちどまり、北原の肩ごしにかがみ込んだ。

「うわっ、うまい」

倉本というその男が言った。

「長谷川じゃないか。おまえが描いたのか」

「そうです」

「ものすごくうまいねえ」

「そうですか」

「そうですかじゃないんだよ。どうやって描いたんだ」

「僕が、これで」

と、北原はシャープ・ペンシルを見せた。

大部屋のいちばん奥にある第三部の男が、通路をとおりかかった。倉本は彼を呼びとめた。

「おい、見てみろ。傑作だよ」

そう言って北原の背後から、北原の手のなかのスケッチ・ブックを、彼は示した。呼ばれた男も北原のうしろへ来た。そしてスケッチ・ブックをのぞき込み、

「ほほう、長谷川だ。あのこの感じが出てるね。いまにも動きそうだ。エレヴェーターのなかへ入っていきそうだ」

「こんなに絵のうまい男が、なぜ商社の営業にいるんだ」

倉本がそう言い、第三部の男は笑った。北原とおなじ部にいる、北原よりも七、八年は先輩の男が、足早に北原のかたわらへ来た。三、四人以上の人たちがかたまってなにか話をしていると、かならず顔を突っ込むことで知られている、山中という男だった。

「この絵を見ろ」

「長谷川の裕子じゃないか。すごいね、これは。そっくりだ。六人のうち、あのこがいちばんの美人だからなあ」

「この絵はこれで完成かい」

倉本に言われて、北原はエレヴェーターのドア枠そして壁などを、ほんの少しだけ描き加えた。

「長谷川がさらに浮き立つね」

「傑作だよ」

と、山中が言った。

「これだけ描ければ、末は画伯だ。末まで待たなくても、たちまち画伯だ。日付けを入れとけよ。まずこのビルの名前を書いて。長浜ビル。そう。日本橋蠣殻町。絵は描けるけど、字は大丈夫か。日付け。一九六三年六月十九日。長谷川、なんと言ったっけ。裕子か。よし、それでいい。彼女のサインをもらっとけ。自筆の署名入りだと、値打ちもまた違ってくるよ。俺がいまサインをもらって来てやる」

山中が北原のスケッチ・ブックに片手を差しのべたとき、

「おい、山中」

と、部長が席から呼んだ。山中は足早に部長の席へ向かった。

「あいつを追っ払うには、部長に呼んでもらうのがいちばんだな」

倉本が言い、第三部の男は北原の肩に手をかけて揺すった。そして、

「そんなに絵の才能があって、どうするんだよ」

と言いながら、通路へ出ていった。倉本は自分の席へいき、ベルの鳴った隣の席の電話に出た。北原はスケッチ・ブックを閉じた。そして長谷川裕子のことを思った。昨日、彼女と交わした短い会話を、彼は思い起こした。

外出する彼が、六階で壁のボタンを押して待っていると、正面のドアが開いた。エレヴェーター・ガールは長谷川裕子だった。なかに入った彼は、

「九階」

と言った。

いぶかしげな表情が、裕子の顔に淡く浮かんだ。

「かしこまりました」

と彼女は言い、ドアを閉じた。

「いつでもいいですから、僕と会ってください。一日の仕事のあと。あるいは休みの日に」

エレヴェーターの奥の壁を背にして、北原は裕子のうしろ姿にそう言った。振り返って彼を見た彼女は、

「私は会社の営業の人が、大っ嫌いなのよ」

と答えた。

「営業の人が嫌いということは、サラリーマンが嫌いということですね」

「そう言ってもいいわね」

目の前にある操作盤に向けて、彼女は静かに言った。

「営業の人でなければ、どうですか。会社を辞めれば」

九階に着くまで彼女は無言だった。エレヴェーターは停止し、彼女はドアを開いた。ドアまで歩いた北原は、彼女に顔を向けた。

「会社を辞めれば、会ってもらえますか」

彼の顔からはずした視線を、長谷川裕子は操作盤のボタンの列に戻した。至近距離にあるいくつかのボタンを見て、しばらくのあいだ彼女は無言でいた。

「誘ってみて」

と、彼女は言った。

北原はエレヴェーターを出た。裕子はドアを閉じた。階数表示の矢印が、九階から順に下っていくのを、北原は確認した。九階にはなにもなかった。エレヴェーターと平行に廊下があり、どちらの端も屋上へのドアだった。北原は壁のボタンを押した。ここには下へいくためのボタンしかなかった。一のところで止まっていた矢印が動き出し、二、三、四と上昇して来るのを、彼は見守った。やがて九階に着き、ドアが開いた。なかにいるのは裕子だった。微笑してエレヴェーターのなかに入る彼に、裕子はきわめて淡く、微笑を返した。

昼休みが終わり、営業の大部屋は騒がしくなった。あの淡い微笑を自分は絵に描くことが出来るだろうか、と北原亜紀男は思った。もう一度、裕子の顔を見ることが出来れば、おそらく描けるだろう。北原はスケッチ・ブックを机の引き出しに入れた。ほかのサイズのも含めて、この安いスケッチ・ブックはもっと買っておこう、と彼は思った。

次の日、六月二十日、おなじ部の島崎という課長と昼食を食べることになった北原は、昨日の洋食の店を提案した。ではそこへいこうと課長は言い、ふたりで店へ向かう途中、北原は退職の意志を島崎に伝えた。

「なんだよ、いきなり。しかも、こんなに早く。入社してまだ三か月たってないよ。もう辞めるのかよ」

という島崎の反応はすぐに慰留の説得に変わり、昼食のあいだずっと、島崎は北原を慰留し、退職の意志を翻意するよう、説得した。

「この会社のいまの仕事に適した人材ではないので、もうこれ以上いても、あとあと迷惑をかけるだけですから、早い段階で退きます。今月いっぱいのつもりです」

北原が言うべきことの中心はそれだけであり、それを何度か繰り返して伝えてしまうと、あとは島崎の慰留や説得を、ひとつずつ受け流すだけとなった。食事が終わってコーヒーとなり、島崎はさらに続けた。

「言ってることはよくわかるんだよ。俺もそういうことを言ってみたいよ。気持ちがきまってるなら、それはそれでいいよ、部長につないでやるよ。しかし、いまここで会社を辞めて、そのあと、どうするんだよ」

「なんとかします」

「なにかあてがあるのか」

「なにもありません」

「それは困るだろう」

「あわてずに、ゆっくり」

「あわてずに、ゆっくりと、困るのか。それもいいや」

「はい」

「どこでなにをするにしても、それは仕事だから、せっかく入ったうちの会社の仕事でも、いいじゃないか。人あたりは穏やかだし、いやな奴ではないし、能力は人なみなら、すぐに一人前に育っていくよ」

「これからずっととなると、ちょっと」

「なにをやるにしても、ずっとやるんだよ。男はそういうもんだろう」

「それは確かにそのとおりなのですけど、それとは別に、自分自身の問題がありますから」

「なんだ、それは」

「自分をどうするのか、という問題です」

「商社マンになるんだよ」

「商社マンとは別に、自分自身というものがあるとすると」

「ないよ、そんなもの」

「そうですか」

「言ってることは、俺だってわかるんだ。これが自分の人生になっていくのかなと思うと、違う道があるんじゃないかと迷ったりするということだろう」

「はあ」

「迷ったり困ったりするのも、いいかもしれない。いまいくつだ、お前」

「二十二です」

「馬鹿野郎。俺は三十三だよ」

課長の島崎はなんとか納得してくれた。その日のうちに部長に話をし、引き止めろ、と島崎は言われた。だから明くる日の金曜日、そして次の週の月曜日と二日にわたって、島崎は北原の説得と慰留に努めた。北原の意見と態度は変わらず、島崎はあきらめ、その旨を部長に伝えた。部長は北原の退社を了承し、火曜日に北原は人事部長に辞表を提出して受理された。六月二十八日付けで退社、という辞表だった。事務引き継ぎのため、七月一日の月曜日から五日の金曜日まで、北原は出社することになった。

その七月一日の午後、銀行の外為をまわる仕事で外出するとき、六階からひとりで乗ったエレヴェーターに、長谷川裕子がいた。ほかに乗っている人はいず、エレヴェーターのなかで彼らはふたりだけとなった。裕子は九階のボタンを押し、ドアが閉じた。エレヴェーターは上昇を始めた。斜めうしろの位置から、北原は彼女の肩や腕の線を見た。そのすぐ向こうで、操作盤にならんでいる階数のボタンが、七、八、九と、順番に点灯していった。エレヴェーターは九階に着き、裕子はドアを開いた。そしてドアを開いて停止させたままの状態に保ち、北原を振り返った。

「なにか話をしたそうな顔だったから」

と、裕子は言った。

「僕は会社を辞めました」

「ほんと?」

「もう社員ではないのです。事務の引き継ぎで五日までは出社します」

「ほんとに辞めたの?」

スーツの襟を彼は示した。

「バッヂがないでしょう。辞表を受理した人事部長に、バッヂを返還しろと言われて、返したのです」

「私、下北沢であなたを見かけたのよ。これまでに二度。近くに住んでるの?」

「代田です」

「私は松原」

「土曜日に下北沢で会いませんか」

裕子は小さくうなずいた。そして喫茶店の名をあげた。その店がどこにあるか、北原は知っていた。

「午後三時に」

そう言って裕子はドアを閉じた。

「六階で呼んでるわ。七階で停めるから、そこで降りて」

エレヴェーターは下降していった。七階に停まった。開いたドアから出ていく北原に、裕子は右手を差しのべた。北原と手を握り合い、

「おめでとう」

と、笑顔で言った。

土曜日の午後、三時前に、北原亜紀男はスケッチ・ブックを持って自宅を出た。下北沢まで歩いて七分ほどだ。裕子の指定した喫茶店に、約束の時間どおりに着いた。中二階の席に裕子はすでに来ていた。差し向かいにすわった北原は、両膝に手を置き、裕子に一礼した。

「北原です。よろしくお願いします」

と言った。

裕子は笑っていた。

「ほんとに会社を辞めたの?」

「辞めましたよ」

「いまはなにをしてるの?」

「なにもしてません」

「これから、どうするの?」

「なんとかします」

「なにかあてはあるの?」

会社の島崎とおなじ台詞だ、と北原は思った。そう思うと彼の顔に微笑が浮かんだ。

「なにもありません」

「自宅にいるのね」

「そうです」

「ご両親といっしょ?」

「はい」

「お父さんは、なにをなさってるの?」

「大学の先生でした。会計学です。いまは友だちといっしょに丸ビルに事務所を持って、実業界を相手に仕事をしてます」

「お母さんは?」

「母も会計の人なのです。いまは近所の親しい人が経営している、料理の学校の経理を見てます」

「あなたはひとりっ子でしょう」

「そうです」

「恵まれて育ったのね」

身辺調査のように続く裕子の質問は、裕子が自分よりもはるかに現実的な立場に立っているからだ、と北原は判断した。

「私もいまの仕事を辞めたいのよ。もう辞めるわ。高校を出てすぐにいまの仕事について、エレヴェーターで上へまいりますとか、下でございますとか。それで二十歳になって、もうたくさん」

「次の仕事は、なにですか」

「まだなにもきめてないわ」

「僕とおなじですね」

「いったん辞めたら、ぶらぶらしてるわけにはいかないし。今日は土曜日だからいいけれど、月曜日になったら、あなたはどうするの?」

「鉛筆を削ります」

「鉛筆?」

「絵を描くのです。2Hから8Bまで、十二種類の鉛筆を、五本ずつ買いました。それを全部、小さなナイフで削るのです。合計で六十本です」

「あなたは絵を描く人なの?」

かたわらに置いていたスケッチ・ブックを、北原は手に取った。表紙を開いて半回転させ、裕子に差し出した。受け取った彼女は、開いてあるページに視線を落とし、そこに描かれているものを見つめた。そして顔を上げ、整った顔立ちを真剣な表情で引き締め、北原を見た。

「これは私よ」

と、裕子は言った。

「まさにこの私よ。私そのものよ」

「そうです」

「ほんとにあなたが描いたの?」

「昼休みにそのスケッチ・ブックを買い、会社に戻ってから自分の席で描きました」

「これはすごいわ。どうしてこんなふうに描けるの」

「簡単です」

「私そのものよ。私の全部が、この絵のなかにあるのよ」

「そうですか」

「エレヴェーター・ガールの制服を着てるけど、じっと見てると裸に見えるわ。私の裸の体が描いてあるのとおなじよ」

「人は体ですから」

「なぜこんなに描けるの? 私の裸を見てもいないのに」

「体は骨格で、そこに内臓が詰まっていて、神経や血管が縦横に走り、筋肉があって皮膚に覆われているのです。動きかたは無限の変化をしますし、たとえば立っているときのふとしたポーズでも、立ちかたはさまざまにありますから、表情もいろいろです」

「この絵を、さらさらっと描いてしまうのね」

「そうです」

「これだけ描けて、なぜあなたは芸術家にならないの?」

裕子の言葉に北原は笑顔になった。健康な楽天性に支えられたまっすぐな熱意が、半袖のシャツにかろうじて覆われている彼女の肩や腕そして胸など、上半身のぜんたいから、自分に向けて注がれるのを受けとめるのは、快感の一種だと言ってよかった。

「芸術家ですか」

「なぜ、商社の営業なの?」

「それはもう辞めました」

「大学ではなにを勉強したの?」

「なにも勉強はしてません」

「学部は?」

「法学部です」

「法学部を出ると、法律家になるのではないかしら。弁護士とか」

「入学試験にたまたま受かっただけですから。弁護士になるつもりは、ありませんでした」

「これからなにになるの?」

「わかりません」

「なにかにならなくてはいけないのよ。なにかをしなくてはいけないのよ。会社でもらってたお給料くらい、稼がないと」

「はあ」

「はあではないのよ、まったく」

鼻すじのきれいにとおった、目もとの涼しい美人にこうして問いつめられ、片隅へと追い込まれていくいまの自分こそ、自分自身として実感することの出来る自分なのだ、と北原は思った。

「その絵にサインをしてください。長谷川さんの直筆で、お名前を書いてほしいのです」

「私のサインが、なにになるの?」

「記念です。会社でこの絵を見せたら、そう言われました。サインをもらっておくのも、悪くないかなと思います」

小さなバッグを膝に置いて開き、裕子はなかから赤いボールペンを取り出した。ノックして芯を出し、

「どこに?」

と、北原に訊いた。

「画面の両端、どちらか。縦に書いてください」

言われたとおり、裕子は自分の名前を書いた。そして背をのばし、まっすぐに北原を見た。

「私、いま、閃いたわ。エレヴェーター・ガールの私は、いまこの瞬間で終わりなのよ。あなたが描いてくれた絵にサインして、日本橋のあの建物で働いている私は、終わったの。今日、いまから、次の私よ」

「それは、なにですか」

「なにかしら」

指先に持ったボールペンを見つめて、裕子は言った。

「とにかく、いまの仕事は辞めるわ。来週、すぐにも」

「そのあと、なにをするのですか」

「なにかしら」

「お父さんは、なにをなさってるかたですか」

「映画の仕事。砧の撮影所で、美術。セットをデザインしたり、いろんなこと。映画を見ると、監督、撮影、音楽、編集などと、画面に名前が出てくるでしょう。いちばん最後が助手で、その前に出てくるのが、美術なの。社長室の壁に絵を掛けたい、と監督が言えば、たちまち絵を描くのが父親の仕事の一部分よ。私の顔を描いたりするけれど、ぜんぜん似てないの。その絵が画面にあらわれる映画があるのよ」

「女優はどうですか」

「私が?」

「はい」

「脇役ならいつでも、と言われたことがあるわね。社長にお茶を持ってくる、制服姿の女子社員。はい、かしこまりました、という台詞がひとつだけあって。でも、そんな役でも、大部屋というところがあって、いったんはそこに埋まって、いろいろと苦労しなくてはいけないんですって。私にそんな暇はないのよ」

「僕たちはほぼ同時に仕事を辞めた人になるのです」

「そうね」

「僕に出来るのは、絵を描くことだけです」

「だったら、それを仕事にすればいいのよ。いま雑誌がどんどん増えていて、そこに絵を描く人はイラストレーターと言うのですって。需要は多い、という話を父から聞いたわ。あなたは幼い頃から、いろんな人に絵を褒められたでしょう」

「小学校や中学校では、全国コンクールがあると、北原は出品するな、と言われてました。僕が応募すると、きまって僕が入賞するからです」

「絵で稼いだことはないの?」

「高校の先輩が雑誌の編集をしていて、そこに短編小説の挿絵を描いたことがあります。おなじひとりの作家の短編が、一度に三つ掲載されて、なんとなくつながったようなストーリーなのです。その三つの短編に挿絵を五つ描いて、四千円もらったことがあります」

「ではその先輩のところへいけばいいのよ。挿絵の仕事をさせてください、とお願いして」

「なるほど」

「いろんな仕事をかたっぱしから引き受けて、思いっきりたくさん描いてみたら。これから七、八年ほど」

「はあ」

「私、あなたにお説教をしてるかしら」

「いいえ」

「私は、なにをすればいいかしら」

「お好きなことは」

「料理よ」

と、裕子は即答した。と同時に、表情に華やぎが宿った。

「私が作ると褒められるのよ。撮影所の人たちが、いつも家に来てるから、お酒や食事になると、母は大変なの。だから私が作って、それはいつも好評」

そう言った裕子は、スケッチ・ブックの表紙を閉じ、北原に差し出した。北原はそれを受け取った。

「僕の自宅のすぐ近くに住んでいる人で、母が親しくしている人がいて、僕がまだ中学生の頃に、料理教室を開いたのです。初めはごく小規模なものだったのですが、次第に大きくなり、長女のかたが引き継ぎ、いまでは教室があちこちにあります。集まる生徒たちのなかから、これはと思う人を助手にして育てていき、先生にしたりしているのですが、いい人はいないかと、いつも言っています。料理のセンスがあって、頭が良くて、化粧すると華やかになる、姿のいい美人だとなおいいそうです」

「美人と料理と、なんの関係があるの?」

「教室で教えて、みんなに見せる人ですから。作りかたとか、出来上がったものとか、とにかくすべてを披露して、みんなに受けとめてもらって、納得してもらわないといけません。接客業というか、俳優の一種のような、要するに演出する人ですから、当人の外観の出来ばえも、深く関係してきます」

「私、習おうかしら」

「その長女のかたに、会ってみませんか。紹介します」

「きちんと勉強したいとは思ってたのよ。試験を受けて、免状をいただいて」

「これからいってみませんか。本部は渋谷です。母がいってるはずです。電話してみます」

席を立った北原は一階へ降りた。レジの脇の壁に寄せて赤い電話機があった。渋谷の料理教室へ電話をしてみた。母親は経理の仕事でそこにいた。長谷川裕子について手短に語った彼に、

「恵利子さんがそばにいるので、いま話をしてみるわよ。どこからかけてるの。喫茶店? ちょっと待てる?」

と、母親は言った。恵利子さんとは、料理教室を始めた人の長女だ。

受話器を耳に当てて待っていると、

「もしもし」

と、母親はいつもの切り口上で言った。

「はい」

「会ってみたいと言ってるわよ。今日、これから。話は早ければ早いほどいい、という恵利子さんだから。私もそう思うし」

「では、早い話を」

「その裕子さんという人。いまからここへ来られるのね」

「いきます」

「いまどこなの?」

「下北沢」

「あなたは家へ帰ってちょうだい。物を持って訪ねて来る人が、夕方までにふたりいるのよ。家にいてあなたが応対して。出るとき頼もうと思って、忘れたのよ」

「裕子さんがひとりでそこを訪ねます」

「受け付けに言っておくから。長谷川さんね」

「長谷川裕子。美人です」

「あなたは余計なことを言わなくてもいいの。恵利子さんがすべて判断します」

席に戻った北原は、ことの成りゆきを裕子に伝えた。

「これからそこへうかがえば、会っていただけるのね」

「生徒として入学する人ではなく、助手の候補として面接する、ということらしいよ」

ふたりは店を出た。北原の自宅を経由して高台の下のバス通りまでいき、そこから裕子はバスに乗ることにした。北原の自宅までふたりは歩いた。ついでに料理教室の経営者の家の前をとおり、バス通りに向けて坂を下りた。停留所でふたりはバスを待った。

「助手として働けたら素敵だわ」

ふと肩を寄せて、裕子はそう言った。北原は彼女の足もとを見た。夏の赤いハイヒール・サンダルを履いている両足、その指やくるぶし、踵、そして足首から上へ向かうふくらはぎの曲面などが、彼の視界のなかにあった。

「助手になれますよ」

「だったらあなたは、絵を描かなくてはいけないのよ」

「描きます」

ほどなく渋谷行きのバスが来た。裕子はそれに乗り、走り去るバスを北原は見送った。ゆるやかなカーヴの向こうへバスは見えなくなり、歩道のバス停に北原は視線を戻した。いま片手に持っているスケッチ・ブックの二ページめに、自宅に帰ったらすぐに裕子を描こう、と彼は思った。ひとりでバスを待っている彼女の、うしろ姿だ。

次の週の火曜日の午前中に、北原の自宅に長谷川裕子から電話があった。今日の午後、先日の喫茶店でぜひ会いたい、と彼女は言った。時間を彼女が指定した。そして午後、彼は自宅から下北沢まで歩いた。片手にはスケッチ・ブックを持っていた。裕子にサインをしてもらった第一ページは、切り離した。二ページめには、バス停でバスを待つ裕子のうしろ姿が、描いてあった。先週とおなじ席に裕子はすわっていた。

「昨日、実技のテストをしていただいたの。生徒さんに教える時間に、助手のひとりとして参加して、いきなり手際や知識を試験されたのよ。ほんとにびっくり。助手の見習いとして採用していただけるのですって。テストのあと、すぐにきまったの。もうほんとにうれしくて。来週の月曜日から、渋谷の教室でお仕事なの。昨日は会社を休んで、今日はこれから会社へいって、退職してくるわ。明日から今週いっぱい、私は心身ともに整えなおすための休暇なのよ」

「よかったですね」

「うれしいのよ。有り難う。ほんとにうれしいのよ。お母さまにもお目にかかったわ」

「僕は先輩の編集者に連絡をとりました。挿絵の仕事ならたくさんあるよ、と言われました。今週の木曜日に、会うことになってます」

「それはいいわ。たくさん絵を描いて」

裕子のその言葉に促されたかのように、北原は座席のかたわらに置いていたスケッチ・ブックを手に取り、表紙を開いた。横画面に描かれた、バス停の裕子の絵があった。スケッチ・ブックを彼は裕子に差し出した。受け取ってしばらく見つめた彼女は、スケッチ・ブックを膝に置いた。そして両手で顔を覆い、泣き始めた。

「どうしたのですか」

しばらく待っても泣きやまない裕子に、北原が言った。

なおも泣いた裕子は、やがて顔から手を離した。泣いた顔を伏せていると、頬や口もとに幼い無防備さがあった。目じりを指先でぬぐって顔を上げると、幼さや無防備さは消えた。

「私そのものよ、この絵は」

「裕子さんを描いたからです」

「あのバス停なのね」

「そうです」

「私の気持ちのなかまで描いてあるわ」

「どんな気持ちだったのですか」

「不安だったわ。お仕事のことで思いがけず人にお目にかかることになって」

「家へ帰ってすぐに描きました」

バス停とその周辺、そして背後にある高台の住宅地などを、気の利いた省略のしかたで処理したなかに、バス停にひとりで立つ裕子のうしろ姿が描いてあった。バスを待つあいだの、短いけれども所在のない時間のなかで、ふと見せたうしろ姿だ。

「描かれた当人としては、泣いてしまうほどの絵なのよ、これは」

「そうですか」

「日本橋のあの建物には、エレヴェーター・ガールが私のほかに五人いるのに、なぜ私を描いたの?」

「姿の良さが群を抜いているからです」

裕子はふたたび両手で顔を覆った。泣いてはいない。彼女はしばらくそのままでいた。ほどなく顔から両手を離した。

「バス停には、バスが来るまで、あなたとふたりでいたのよ。この絵に描いてあるような私の姿を、あなたは見てないでしょう。見なくても描けるの?」

「見なくても描けるときもあります」

「でも、一度は見ないと、描けないでしょう」

「見ればそのたびに、発見はあります」

北原の言葉に、裕子はひとまず納得した表情となった。そして腕時計を見て、

「もういかなくてはいけないわ。渋谷へ出て、地下鉄で日本橋まで」

ふたりは席を立った。割り勘で支払いをし、店を出た。駅に向けて歩きながら北原が言った。

「僕が長谷川さんを悲しませて泣かせたのだと思って、ウェイトレスが敵意そのもののような目で僕を睨んでいました」

なにも答えないままにしばらく歩いてから、裕子は次のように言った。

「見れば見るほど描けるのなら、私は裸だってなんだって、あなたに見せるのよ」

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