Chapter 1 of 29

ラハイナまで来た理由

カアナパリまでの飛行機はどれも満席だった。いったんどこかほかの島へいき、そこからカアナパリへの飛行機を見つけるというアイディアを、僕はこれまで何度も試みた。一度も失敗したことがない。しかし今日はカフルイまで飛ぶことにした。すでに搭乗の始まっている便に空席があった。

マウイに向けて海の上を飛びながら、カアナパリの近くの砂糖きび畑にセスナで不時着したときのことを、僕は久しぶりに思い出した。思いっきり重い曇天に抑え込まれたようなホノルル空港の端っこから離陸し、セスナにふさわしい高度で海を越えていった。二十五歳の誕生日だった。

パイロットのほかに乗客は僕を含めて三人だった。日本から赴任して五年になるという、本願寺の僧侶。口数の少ない黒人のビジネスマン。そしていまより十歳だけ若い僕。マウイの西側はすさまじい雨だった。風がその雨と競い合っていた。視界を得ることが出来る低空を飛ぶのはきわめて危険だなどと言いながら、パイロットはその低空を飛んだ。

雨は水平に飛んで来て機体を叩く、分厚い水の層だった。機体にぶつかれば音がするし、窓ガラスの外で炸裂するように散っていく様子は、具体的に観察することが出来た。しかし風は見えない。深い灰色でふさがれて遠近感を失った空は、そのまま海とひとつに溶け合っていた。

空にくらべると、海はくすんだ青い色への傾きを持っていた。空と海にはさまれた空間に、目的なしにただ強靭に吹きまくる数百種類の風が、複雑にからみ合っていた。風と風とのあいだのわずかな隙間を、セスナは飛ぶというよりも飛ばされていった。

パイロットは果敢にも空港への着陸を試みた。しかし、試みは一度だけで放棄した。セスナはハイウエイのすぐ上を、横飛びに流された。黄色いピックアップ・トラックが一台、いっさいなにごともないかのように、地表の雨と風のなかを走っていた。運転席のドライヴァーが聞いているはずのラジオの番組が、ほんの一瞬僕たちの耳にも届いた、と錯覚しても許されるほどの至近距離だった。

「山裾にぶつかる前に、ケインに引きとめてもらうからね」

パイロットが大声で僕たちに行った。ケインとはシュガー・ケインのことだ、と思うまもなく、セスナは砂糖きび畑に林立するケインに機体の腹をこすり始めた。機体はケインのなかに埋まった。ケインの長い緑色の葉が、何重にも重なって窓の外を走った。何本もの砂糖きびに支えられて、セスナは滑走した。右前に向けて大きく傾きつつ、セスナは停止した。

「レスキューが来るまでこのまま機体のなかにいてもいいのだけど、ケインが四、五本も折れると機体は頭からひっくり返るかもしれない。だからみんな外へ出よう」

バーベキューでも提案するかのような気楽な口調で、パイロットは僕たちを振り返って言った。ドアを開くのが大変だった。人の背丈の二倍ほどにのびた砂糖きびが、ドアを外から押しふさいでいた。機体は揺れ動いた。そのなかの僕たちは、風の音の底にいた。

「ケインの葉で動脈のあるところを切らないように。首や脇の下だ」

ほかの三人にそう言った僕は、東京から着たきりの、もはやしわくちゃの麻のジャケットの裾を両手でつかみ、上に向けて反転させた。ジャケットの内部に顔をくるみ込むようにし、僕は砂糖きび畑の赤土に向けて、セスナのドアから飛び降りた。三人が順番に飛び降りた。最後にパイロットが飛び降りたあと、セスナは大きく右へ傾いた。主翼の先端がケインを斜めに押しのけ、畑にめり込んだ。

「ハイウエイは向こうだよ」

僕が思っていたのとは完全に反対の方向を、パイロットは示した。彼が先頭を歩き、そのあとに僕たちが一列になって続いた。しばらく歩くと砂糖きび畑は終わった。目の前にハイウエイが見えた。道路の黒い路面に雨の層が次々に衝突しては、風の方向に向けて滑空していった。畑の縁には水路が掘ってあった。それを越えることの出来る場所まで歩いた。

ハイウエイから土と草の地面が畑まで広くあった。畑の近くに溶岩の岩がいくつか転がっていた。風と雨を避けて、僕たちはその岩に体を寄せ、地面にすわった。砂糖きび畑のなかをいま自分は初めて歩いたことについて、僕は思った。そしてとなりにすわっている本願寺の僧侶に、僕は祖父について語った。僕の祖父は山口県から働きに来たラハイナで、砂糖きび畑の水を管理する仕事をしていた。砂糖きび畑は水を大量に必要とする。貯水池に溜めておく山からの水を水路に配分して流し、畑ぜんたいにいきわたらせなければならない。

古くからの地元の人たちにラハイナ・パンプと呼ばれている、もっとも重要な水門が祖父の仕事の中心だった。消防署のまっ赤なシェヴィー・ブレイザーが、やがて雨の向こうから走って来た。パイロットが風のなかに出て腕を振った。ブレイザーはハイウエイを離れ、岩に向けて徐行し、停止した。僕たちのこのときの不時着は、翌日の新聞に六行の記事となった。

翌日、なにごともなくきわめて平凡に、僕はカフルイ空港に降り立つ人のひとりとなった。こうも平凡だと、降り立つ、とも言いがたい。いつものバスをいつもの停留所で降りただけだ。しかしそのバスはなぜか空中を飛んで来た。ワイルクまでシャトル・バスに乗った。ワイルクに入るあたりから町なかまで、いくつか点々と停留所がある。いちばん最初の停留所で僕は降りた。次の停留所とのちょうど中間に、ハリー・オーのガレージがあった。

ガレージとは自動車修理業の店と作業場だ。店を始めたときの名称が、ハリー・オーズ・ガレージだった。いまもその名で続いていた。ガレージではなく、グラージと書かないと、ハリーは満足しないかもしれない。修理に加えて、中古車販売、新車のディーラー、旅行代理店、アパートメントやコンドミニアムの部屋の斡旋など、いまでは領域は広い。「家の裏に竹林があると、いろんなところに竹の子が生えて来るよね。それを竹に育てるのとおなじだよ」とハリーは言い、事業の拡張を成りゆきにまかせてここまで来た。

ハリーはガレージのオフィスにいた。昨年亡くなった僕の父親と幼なじみの同世代だ。七十なかばを越えているが、元気な現役だ。「いつ来たの。昨日。そうかねジャスト・ライク・ヨ・ファーザよ。いったり来たり。極楽トンボ」なかば叱るように、なかば慈しむ口調で、ハリーは僕を迎えてくれた。ハリー・オーのオーは、オカムラの略だ。

自動車を一台、彼は僕に貸してくれた。陽に焼けたごつい手でキーを僕に手渡し、西陽を反射させている中古車の屋根の列の、どこか向こうを指さした。オールズモビールのカトラスだという。

「ヴァニラ・アイスクリーム・アンド・ブラック・コフィー」

と彼は言った。中古車の列に向けて歩きながら、僕は彼のその言葉の謎を解いた。ヴァニラ・アイスクリームとは、そのカトラスの車体の色だろう。ブラック・コフィーは内装の色だ。そのとおりのを探し当てると、キーはドア・ロックの穴に入った。運転席に入り、中古車の匂いをかぎながら、ハリー・オーの手が明らかに老けつつあることについて、僕は思った。

島を東側から西の海沿いまで、僕はハリーの中古車で走った。途中で父親の残した家に寄った。半年ぶりだ。誰も住んでいないその家は、険しい山裾を背後に置いて、しんとしていた。僕はシャワーを浴びた。服を着替え、冷蔵庫からミネラル・ウオーターを取り出して居間へ持っていき、庭に面して置いてあるひとりがけのイージー・チェアにすわった。昨年、僕の父親は、この椅子にすわったまま、心臓の麻痺で他界した。僕は冷えた水を飲んだ。胃のなかに注いだその水の底に、時差ぼけはなかば沈んだ。

キチンで電話のブザーが鳴った。僕はキチンへいき、電話に出た。フランシス・K・アカミネという、僕の父親の幼友達だった。Kはコーキチ、つまり幸吉だ。いまでも彼はラハイナに住んでいる。僕がこれから向かおうとしているのは、奥さんとふたりで住んでいる彼の自宅だ。

「ソ・ユー・ア・ゼア」

彼は老いた人の声でそう言い、

「イエス・アイム・ヒア」

と、僕は答えた。謎の問答だ。

「ユ・イーティング・ウィズ・アス、ヨシオ? ウィール・ハヴ・ディナ・ウエイティング・フォ・ユー」

ディナーは魚だ。彼はいつも僕に魚の料理を作ってくれる。

「料理する魚をまな板に乗せる前に、僕はそちらに着きます」

と僕は言った。

「オケイ」

フランシスは幼い頃から仇名はシスコだ。シスコ・アカミネの「オケイ」のひと言は、オールズモビール・カトラスの快調さとつながっていた。父親が晩年の十年間をひとりで住んだ自宅を、僕はあとにした。そして深まりゆく西陽のなかを、ラハイナに向かった。

ラハイナもフロント・ストリートから一本裏に入ると、ここはどこの田舎だろうかと思うような光景だ。自分で建てた高床木造の2寝室の家に、シスコ・アカミネは奥さんのメリンダと住んでいる。ふたりの息子とひとりの娘は、すべてメインランドで独立している。年金が支えるほどよく余裕のある静かな時間のなかに、いまのふたりはいた。

道路に面したマンゴーの樹の下に、僕はカトラスを停めた。ラハイナでいちばんうまいマンゴーの実る樹だ、とシスコは自慢している。彼の言うとおり、完熟したそのマンゴーは、奥行きの深い香りをたたえる。

シスコとメリンダの日系二世夫妻は、いつものように居間のソファで花札をしていた。メリンダはいまも美人だ。しかも名前は幸江という。幸吉とならんで幸がふたつだから、自分たちの人生はダブル・ラックそのものよ、とメリンダは笑う。

先週、東京の僕のところへ、シスコから電話があった。いまからおよそ四十年ほど前、きみのお父さんから借りたままのアロハ・シャツがクロゼットの奥から見つかった、という電話だった。今度ここへ来たら返すよ、いつ来るかね、という彼の問いに、来週いきます、と僕は答えた。

居間から奥へ入ったシスコは、アロハ・シャツを一枚もって、戻って来た。僕はそれを着てみた。シスコは呆れたように首を振り、ほんとにきみはお父さんにそっくりだ、と言った。気味が悪いほどよく似ているとメリンダは言い、片手でしきりにうなじを撫でた。

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