三
バーナード・ショウはそのイブセン論の中で、アイディアリストとリアリストとの區別を説いてゐる。彼の謂ふところに從へば、こゝに假りに千人の住民から成り立つてゐる社會があるとすると、その中の七百人は現状に甘んじて、何の不平をも苦痛をも感じない。殘りの中、二百九十九人は現状に甘んじてはゐないのだが、自分等が少數であつて意見を貫徹させる見込みがないから、いや/\ながら辛抱する。眼前の事實に面して内心の聲を表白するだけの勇氣がないからである。昔噺の中の狐は自分の持つてゐない葡萄は酸いと言つたが、彼等二百九十九人は自分の持つてゐる杏は甘いと言ふ。即ち假面を作るのである。彼等は赤裸々の現實では忍び切れないので、自から描く空想畫即ち理想を現實だとして置く。そして盛んにその所謂理想を世間一般に説教する。ところが前の七百人は眼前の現實をあたり前として少しも怪しまないのであるから、そんなことには無頓着である。そこで理想家は七百人を俗物として輕蔑する。たゞ最後の一人は眞實に面する勇氣を有する人である。反抗者であり、現實の暴露者であり、偶像破壞者である。七百人はこの一人に對しては氣狂ひ扱ひにして初めから相手にしない。この最後の一人の出現に際して大騷ぎをするのは二百九十九人である。そして今まで輕蔑してゐた七百人に對して應援を求める。即ち社會の輿論を作る。イブセンはこの最後の一人である。これがリアリストである、云々。この場合七百人は現實に對して初めから批評をしてゐない。二百九十九人は全然批評をしてゐないのではないが、その批評は徹底してゐない、中途で行き止まつてゐる。つまり眞の批評はこの一群の理想家の間にも存在してゐない。眞の批評家は最後の一人ばかりである。これが批評的精神の代表者で、リアリストである。
イブセンはショウの謂ふ意味で確かにリアリストであつた。偶像破壞の精神に充ちた勇者であつた。しかし彼は單に偶像を破壞するだけの批評家ではなかつた。破壞の後の荒凉に坐して靜觀默想するに止まる人ではなかつた。彼の破壞や暴露は、將來の可能の爲めに、現存の假面を剥ぎ取ることであつた。ショウの謂はゆる理想家は、將來の可能に對する信仰などは毫も有つてゐないで、現在の糊塗に專らなるものであつた。現在を糊塗する爲めの假面を有つといふ意味での理想家であつた。しかしイブセンは現在の假面を剥ぎ取るときに、何等か將來の可能を信じて居つた。少くとも將來の可能を切望しつゝ現在の假面を剥ぎ取つた。彼は將來の可能を信じ、若しくは切望することの強くなれば強くなるほど、ます/\殘酷なほどに容赦なく現在の假面を剥いだ。この意味に於いて彼はリアリストであると共に、また深刻なアイディアリストである。將來の可能を信じ且つ望むといふ意味に於いてのアイディアリストである。
將來の可能を信ずるといふ言葉は、一面現在に對する批評を含んでゐる。現在に對する批評なしには、將來の可能を信ずるといふことは無意味である。而しまた、將來の可能を信ずることのない、漫然たる現在の批評といふことも無意味である。批評の精神は常住不斷に前進するのをその本性としてゐる。批評は現在當面の事實に對して加へられねばならぬと同時に、その連續として將來の可能へ向つて進むことを豫想してゐる。批評的精神の眞意は、現在に即して將來の可能に前進するところに在る。この意味に於ける批評的精神が、本當の現實的精神であると共にまた本當の理想的精神である。イブセンは確かにこの意味の現實的精神と併せてこの意味の理想的精神を有してゐたに違ひない。けれども彼の戲曲は、謂はゆる將來の可能に就いては、極めて漠然たる暗示の如きものを提出してゐるに過ぎない。吾々はイブセンの戲曲をその年代の順を追うて讀むとき、最後の『蘇生の日』に於いて、尚且つ彼が一生の第三帝國の何處にも見出だされなかつたことを知つて、一種悽愴の感を懷かざるを得ない。個人の意力と運命乃至社會、戀愛と事業、さま/″\に形を異にしたそれ等の問題は、いづれも解決を迫りつゝ解決せられずに終つてゐる。彼の偶像破壞には、將來の可能を信ずる心が常に裏づけられてゐたことは勿論であるが、而かもその將來の可能に到達すべき道は、イブセンと雖も明らかに示すことが出來なかつた。