Chapter 1 of 6

1

夏蚕時

金田千鶴

午過ぎてから梅雨雲が切れて薄い陽が照りはじめた。雨上りの泥濘道を学校帰りの子供達が群れて来た。森田部落の子供達だ。

山の角を一つ廻ると、ゴトゴト鳴いてゐた蛙の声がばったり熄んだ。一人の子がいきなり裾をからげて田の中へ入った。そしてヂャブヂャブさせ乍ら蛙を追ひ廻した。

「厭アだな! 秀さはまた着物汚してお父まに怒られるで……。」

後から来た女の子達のひとりが叫んだ。

「要らんこと吐くな!」

秀は捉へて来た蛙を掴んで挑んで行ったが、不図思ひ出したやうに、

「久衛、今日はこいつで蜂の巣探さんか」と云った。

「うん、へいご蜂をな!」

「俺らほの兄いまがこないだ一巣発見たぞ!」

男の子達は口々に叫んだ。秀は蛙の足を握って忽ちクルリッと皮を剥いた。そして棒の先へ串刺に刺した。蛙の肉へ真綿をつけて、その肉をくわへた蜂の行衛を何処迄も追ひ掛けて行く――そして巣を突きとめる、それは楽しい遊びの一つである。

何思ったのか不意に秀は頓狂な声を出した。

「ヤイ、蜂の子飯ァ旨いぞ!」と叫んだ。

「美知ちゃん!」女の子の一人が云った。

「わし、昨日晩方通った時御夕飯食べとっつらな!」

「何んで?」

「何んでもな! お夕飯をあんね明るい時分に食べるんだなあ!」

美知子は去年赴任して来た村医の娘である。

水溜りにくると子供達はバシャバシャ泥を飛ばして歩いた。

「美知ちゃん! 長靴は歩きいいら?」

一人が聞いた。美知子は頷いて見せた。

「真佐子ちゃんも長靴ある?」

「ウム、だけどもっと小さいの……」

美知子は云った。するともう一人が云った。

「わしァ今度お母まが製糸から帰る時買って来て呉れるったの!」

「お母まいつ来る?」

「今度の公休日!」

「芳江さはいつかもさう云っとったぢゃないかな? 一寸も買って来りゃせん……。」

堀割を大きく廻ると、左の谷間から運送が一台車輪一杯の狭い道をガタンゴトンと躍り乍ら下って来た。

「やあ、庄作さが来た!」子供達は馳け出した。

「庄作さ、乗しとくんな?」

庄作は無愛想に頷いた。男の子も女の子も皆乗った。此処から森田部落迄二丁余り道は山の裾を曲がりくねってゐる。

「おォ!」向うから馬を曳いて来た若者はさう声を掛けたが其の儘又引き返して枝道へ避けた。「おかたじけよ!」庄作は通り過ぎようとして挨拶をした。

橋のところで子供達は降りた。

役場・郵便局・駐在所・医院・雑貨店・宿屋其他の家が一個所に集まって十四五軒町の形を作ってゐる。森田部落の中心地で最も賑やかな部落である。

庄作は取りつきの精米所の前で馬をとめ、内部を覗き込んだ。誰も居ないらしくしんとしてゐて、土間隅の精米機が埃にまみれて、ベルトがたるみ切ってゐる。春過ぎてから精米所も殆ど閑散である。

「ぢゃァ帰りだ!」庄作はさう独り言を云って又曳き出した。旅館兼料理屋の吉野屋の前で庄作は車を停めた。

「庄作さ、今度久し振りだったなむ!」

女房のおとしが出て来て云った。

「うむ、雨が降っとったもんで!」

庄作は土間へ荷を下した。

「岡野屋から荷は出とらなんだかな?」

「どうだか知らんぜ。俺ら今日は肥料ばっかりだ!」

「庄作さ! 中屋の後家が待っとったぞ!」

誰か炉端の方でさう怒鳴った。

庄作はむっつりした顔の儘で馬を飼ってゐた。

「どうだい、景気は?」

炉端の方へ入って行くと、留吉が上り端に腰掛けて茶を飲んでゐたがいきなり聞いた。

「呆れた話さ! 俺ァ馬に喰はせるに追はれとる……」

庄作はさう云ひ乍ら土足の儘で炉端へ上り込んだ。それからおとしの酌んで来たコップの酒をチビリチビリ飲み乍ら世間話が続けられた。

「何しろお前、森田の山の材木が出た時分にゃァ日三台は曳っぱって来たんだでなあ! 山は坊主になる。薪一本出て行く荷は有りゃせん……。あれからこっち面白いこたぁさっぱりなくなった。是で又道が開けりゃ自動車だ。俺らの商売はもう上ったりだ……」

庄作は歎息する様に云った。

「そいでもお前は金を溜め込んどる話だで困らんが俺らは全く困るよ! 俺ァ繭が十両しとっても困っとったんだで、二両の端が欠けると来ちゃ法はつかんよ! 俺らは早く道路工事が始まりゃいいと思っとる。何んとか稼ぎが無けにゃ口が干上っちまふ……」

留吉はさう云ひ乍ら立ち上った。

「俺ァ今日は当家の畑打ちだ!」

聞かせるともなく独りごちし乍ら、留吉は裏口の方へ出て行った。

酒が廻ると庄作は次第に上機嫌になって行った。隣村から三里の往復が酒手に代へられた。

「庄作さはあれで下駄穿きゃがるで油断ならんぞ!」

庄作の駄賃に懸値のあることは誰も知ってゐたが、十銭二十銭の買物でも気前よく引き受けるので部落の者には重宝がられてゐた。

昨日から夏挽きが始まって、部落の娘達は殆ど他村の製糸工場へ出掛けて行った。俄に村の中がガランとしたやうだ。

「春蚕上り」をめがけて毎日様々な借金取りが軒別に廻って歩いた。町の農工銀行の行員は香水をプンプンと匂はせ乍ら片端から退引ならぬ談判をして行った。村税の滞納で役場の人達が手分けで廻りあっちこっちに差押へが始まった。生産過剰で横浜の倉庫に二十萬梱のアメリカ行絹糸が欠伸をしてゐようと、飼へば飼ふ程益々自縄自縛の結果に落入らうとそれは別の問題である。繭の値が安いと云って今ここで蚕を止める訳には行かない。

「安けりゃ猶、沢山取らにゃ遣り切れん!」どこの家でもそれを云った。そして夏蚕の掃立をうんと増やすことにした。

一号を盆迄に上簇の予定である。桑の有る家では二号も始めるつもりだった。さうなると盆には忙しい真最中だ。人間の体の壊れる事などは構ってゐられぬ場合だった。

夕方から留吉の家へ無尽の集りに人々が寄ったが又今度も立たぬ事に話し合ひがついて散った。もう後二回で満会になる掛金五十円の小口の講なのだがどうしても立たず秋迄延ばす事になった。これでこの部落の無尽は全部秋まで延期となって了った。

二三人の居残りの者がその儘囲炉裡端に集った。いやに冷え冷えする晩だった。

「まづ毎日肴買はんか何にを買はんかって色々な奴が来やがるよ! 昨日来た菓子屋なんか四里から背負って来るんだでなあ!」

「うん、どこも不景気だでぢっとしてをれんのだな。負けとく負けとくっていふで、負けてお呉れでもいいが、ここぢゃァ何んにも買はんきめがあるでって、荷を下さん先におことわりだ!」

「いよいよなんにも買へん時節が来ちまったな。そいだがたまにゃァ鰯の一本も食ひたくなるしなあ……」

炉端の四隅を陣取って胡座をかき乍ら話が始まってゐる。酒が出てから話が弾んで行った。勝太はふと気がついたやうに、

「小父様! 今日はなんだな」と新蔵に聞いた。

「俺ァ今日は松下の屋敷引きだ!」

「なんだ、何か建てるのか?」

「なあに、裏へ石垣取るってんで、あの厩を一寸ずらせるだけだ」

留吉は飲み乾した盃を下に置いたが、

「だが松下もめきめきと身上拵えたなあ!」

さう歎息するやうな口調で云った。

「田地は買込む、普請はする、お蚕は当てる、金は貸せる程有るんだで! 云はっとこねえさ……」

「日の出っちふもんさ! あそこらが――」

「仕事がどんどん廻るでなあ……。ああなりゃおんなじ仕事でも楽で面白く廻る!」

新蔵が云った。

「さうだ。入る者と出る者ぢゃ大した相違さ! ちィっと利子でも負けて貰はっと思やあ、酒でも買って罐詰の一つもつけて持って行かんならんちふ訳だでな!」

留吉は苦笑し乍らさう云った。

そこでいつもの事だが工面の良い家の噂が始まった。

「まあ松下、それから吉本屋!」新蔵は順に数へるやうにした。「そこらのもんかな!」

「長沼あたりも借金もでかいらがもとから有る家だで、食ふ米にゃ困らんて!」

さうつけ加へて云った。

森田家を別にすれば、もとこの部落で僅か乍らも先祖伝来の田畑を耕して食ひ凌いで来た者はほんの三四軒の家だけだった。

松下でも森田家が潰れた時、洞上田地を安く手に入れたのが運が好かったと話が出た。

吉本屋も小金を要領よく利殖してめっきり大きくなってきた。金も一旦溜り出すと苦もなく働けてまた溜る。

「あそこでも今ぢゃ家内ぢうで米はとても食ひおほせんらよ?」

勝太は口を挟んだが、

「あそこなんにも無しっちふやァふんと茶碗一つも無しとからはじめた身上だで!」

さう感慨深さうに云った。此処でなんにもなしの境涯から田地の一枚も手に入れようと発心すればどれ程の働きをせねばならぬか――親に背いて夫婦になって飛び出してから、吉本屋も人の三倍四倍は事実働き抜いて来たのだ。――田の畦にどの子も寝かされて育って来たのだ。

「月給の入る衆は不景気知らずだ!。吉本屋も息子が取るで楽になる一方さ!」新蔵は一寸言葉を切ったが「だが人間もちィっと身上が出来ると強くなるで怖っかねえ……」

さう含んだもののある調子で云った。

「うん、あそこら今ぢゃ巾利だでな!」

留古は大きく頷づいて見せた。

「中屋の後家も一時から見ると大分調子がいいやうぢゃねえか?」

中屋も息子がトタン屋になってから大分廻しがつくやうになった。昨年あたりから村内でも稚蚕飼育に手間のかからぬトタン箱飼育が流行ってゐたからトタン屋商売は大当りだ。

「佐賀屋も楽になったと云ふもんだ!」ふいに新蔵は云った。

「楽どこか、俺ァまりは……」勝太は頭を振った。

「賄を拡げちまってどうにも借金だらけだ!」

「今日日借金のねえやうな者は無いが、お前のとこは息子も娘も実直でよう精出すでなあ!」

新蔵は羨ましがる口ぶりで又云った。

酒を飲まぬ宇平は先刻から黙り込んでゐたがむっつりと重い口で、

「俺ァまりぢゃ米はいくらも取らん、飼ふ口は大勢だ、小作料は米で納めんならん、それでお蚕はしじふ腐らすと来とる! 法はねえ!」

投げ出すやうに云った。

宇平の所は近年災難続きで娘が製糸工場から病んで来て肺病で死ぬ、女房は中風で動けなくなる。何かの祟りだかも知れぬと弘法様に拝んで見て貰ったら屋敷が悪いと云ふので移転をしてその時奉公に行ってゐる二番息子が右腕の骨を折るといふ工合で、それに孫が大勢なので、息子夫婦と三人で気違ひのやうになって働いてゐるのだが、暮しは苦しくなる一方だった。

考へて見ると身上を拵へる、拵へないと云ふ事もはじめは一寸したはづみから出発するやうなものだ。ここで遊んでゐて食へる者はない。それは丁度絶えず廻転してゐなければならない車輪である。年柄年中間断なしに仕事を追ひ掛け片付けてそれでやっとどうやら廻って行く事が出来る。今日これきりできりになったといふ事はない。――松下や吉本屋ではうまくはづみがついて休みなく廻りはじめたと云ふものだ。――

それが一寸躓づけば(そんなはづみはふんだんにある)もう直ぐ抜き差ならぬ泥沼へ落ち込む仕掛に出来てゐる。一人病人が出来一度蚕に失敗すればもう直ぐ借金になる。余分な稼ぎに出て居ればそれ丈廻転が渋滞する。

さうなると因果関係で、人の三倍四倍働いても泥沼から足を抜く所か一歩一歩と深みに引きずり込まれて行く――他人とのひらきがだんだん大きくなって行く――そしてもう一度上手に廻り直すと云ふ事は昨日を今日に直す事よりも不可能になって来る。かうなると借金は雪達磨の様に転がして大きくして行くばかりである。途方に暮れて惘然して居れば尚増える借金だ。

「そいだがかうなりゃ借りた者の方が強いぜ!」

「何んちゅったって返せんものは返せんと度胸を据ゑ込んで了ふでなあ……ハハハハ……」

留吉は酔の廻った眼を据ゑる様にして云った。

「本当だなあハハハハ……」

皆相槌を打って笑ったが勝太は一寸硬ばった顔をした。(俺らとは働き様が違ふぢゃないか!)と云ふ腹があるのだった。

「これでお蚕に追はれとるうちゃァ何んと云ってもいいが……」宇平は心細さうにぼそりと云った。

その不安は誰の胸にもあった。

Chapter 1 of 6