母
父に捨てられた私達はただ途方にくれた。初めのうちはまだ、売り食いをするだけのものがいくらか残っていたけれど、それもすぐになくなってしまった。父からはもとより鐚一文の仕送りもなかった。
だが、私達は生きなければならない。で、母がその後、中村という鍛冶職工と同棲するようになったことを私は、非難すべきではなかろう。
「その人はいい日給取りなんだよ。何でも一日一円五十銭だってことだから……そうすりゃ、今までよりはずっと楽にもなるし、お前を学校にやることもできるからね」と母が私に、何も知らぬ頑是ない私に、宥恕を乞うような口調で言ったのを私は覚えている。
中村は小さな風呂敷包を抱えて来て、いつの間にか私達の家で寝起きするようになっていた。毎朝彼は、菜っ葉服を着て、弁当箱をさげて、少し離れた工場へ通った。
中村はその頃四十八、九歳だったろう。胡麻塩頭に、底意地わるく眼が窪んで、背が低くて猫背で風采のわるい男だった。若い頃はかなり上品で貴公子然としていた私の父、しかもいやに労働者風情を軽蔑した父、その父に知らず知らず感化されていた私には、この風采のわるい中村に親しむことはおろか口をきくのもいやであった。で、私は、かりにも養父であるこの中村を、まるで他所の人のように、いつも「小父さん、小父さん」と呼んでいた。母は別にそれを改めさせようともせず、自分でも蔭では「ヒゲ」という綽名で侮蔑的に彼を称んでいた。
私は中村の言葉には何かにつけて口答えをした。そして中村もまた、何かにつけて私を苛めた。母がいない時などは、自分だけこそこそと御飯を食べて、飯櫃を私の手の届かぬ高い処へ載せておいたり、私を蒲団の中にくるんで押入れの中に投げ込んだり、ある夜などは私を細曳で手鞠のように搦げて、近くの川の水際近くの樹の枝に吊したりさえした。
母はもちろんそれを知っていたようである。だけどどうすることもできなかった。そしてただ、私達をこうした境遇におとした父と叔母とを呪った。「あいつらは今に罰が当って野垂れ死するよ」と母はいつもこう言っていた。
中村と一緒に生活していた間に私の最も悲しかったことはしかし、中村に苛められ責まれたことではない。それは弟と訣れたことであった。
ある日私は、母と中村との話を、それとなくちらと耳にした。
「それじゃなるべく早くつれて行ってやる方がいいね、どうせ先方の子なら余り大きくならないうちの方がいいよ」
こう中村が言う。
「あんな男にやるなあ心配でならないけれど、といってどうすることもできないし」
こう母が言った。
私にはそれが何のことだかよくわかった。私は不安になった。
「ねえかあちゃん、賢ちゃんをどこかへやるの」ととうとう私は耐えられなくなってきいた。
母は私に、母と父とが別れるのについて、子供を一人ずつ、私を母が、弟を父が、育てることに約束しているのだということを説明した。だが、私は悲しかった。今のところ私の本当のお友達が弟一人であるようにも思っていたし、第一、私は私の愛するものをもっていたかった。私は熱心に母に願った。
「ねえ母ちゃん。私明日からお友達と遊ぶのをよして、朝起きてから晩寝るまできっと賢ちゃんを見るから、ちょっとも泣かせないように一生懸命お守をするから、お父さんのとこへ連れて行くのは止してよ。ねえ母ちゃん、そうしてね、私ひとりぼっちになると寂しいから……」
けれど母は私の願いをきき入れようとはしなかった。
「そんなわけには行かないんだよ、ふみや。あの子がいるとわしもお前も年中苦労しなきゃならないんだよ。それにちょうどお前のお父さんからあの子を寄越せって言って来ているんだから……」
私が何と言って頼んでみても母は頑として応じないのを見た私は、とうとう、次ぎの日、中村のいないときに母にこう言った。
「ねえ母ちゃん。賢ちゃんがどうしてもお父さんのとこへ行かなきゃならないんなら、私も一緒につれてってくれない? 賢ちゃんがいなくなって私独りぼっち小父さんのところにいるのが怖いんだから……」
だが、大人には大人の理由があって、子供のそうした感情なんかてんでわからないかのように母は冷酷に私の願いを却けた。それは私には運命のようなものであった。私はとうとうその力の前に屈従しなければならなかった。
それから間もなく弟は母の背に負ぶわれて父の所へ連れて行かれた。父達はその頃、汽車に乗らなければ行けぬ静岡に住んでいた。
弟がいなくなって程なく、私たちはまた引越した。引越したと言ってもそれは他人の家に間借りしたのに相違なかった。線路脇の焼いた枕木の柵に接近した六畳と四畳半ぐらいの小さな家だったが、その六畳の方には五人家内の沖仲士か何かの一家族が住み、私達は四畳半の間に住むことになっていた。恐ろしく汚い部屋で、障子に貼った新聞紙は煤けて真っ黄色に染まり、畳は破れて腸をはみ出していた。
中にも窓下の畳は一番大きな穴を見せていたが、母はその上に長火鉢を載せた。その他のにはボール紙をあてて上から白い糸で畳に縫いつけた。そうしてやっと穴から出て来る埃を防いだ。
中村は相変らず工場に通っていた。母は少し離れた河岸の倉庫に豆選り仕事を見つけた。でも私は独りで家に取り残されることはなかった。母の熱心な願いがきき届けられて、私も附近の小学校に、無籍のまま通うことを許されたからであった。
無論私は嬉しかった。弟と別れた悲しみも学校に行くことによって忘れられた。第一その学校は、この前のような日蔭者の学校ではなかった。設備の整った堂々たる学校であったように私には思われる。子供達も総じて良家の子弟らしく、女の子などはみんな美しい衣物を着、毎日変ったリボンを着けて来、中には女中や小僧に送り迎いされるものもあった。
だがそれがまた私を苦しませた。
通い始めていくらも経たぬ間に、石版を使ってはならぬ――それは肺にわるいからというのであった――その代り鉛筆とノートをもって来いということになった。ところが、私にはそれがなかなか思うに任せなかった。中村は無論私にはかまってくれない。といって母にはおいそれとそれを買ってくれる余裕がない。で、私はその一冊のノートと一本の鉛筆とを買えるまで二、三日も学校を休まなければならなかった。
母は私を、もっと費用のかからぬ学校に転校させたかった。けれど住居地の関係上それは不可能だった。
ある日、父がふと私達を訪ねて来た。
父はその頃、何か商売でもしていたらしく、何か大きな風呂敷包みを背負っていた。が、その顔は子供の眼にも驚かれるほどやつれていた。
あれほど反感をもっていた父である。けれどやっぱり私は何となく嬉しかった。父が、持って来た荷物を部屋の隅に置いて、長火鉢の脇に座って中村と何か話している間にも、私は何となく父の方が遥かに偉いような気がしたばかりでなく、甘えたいような心にさえもなった。で、中村がちょっと席をはずした時、私は父の耳に口を押しつけて小さな声で、「ゴム毬を買って」と頼んだ。ああ私は、学校の遊び仲間の誰もが持っているそのゴム毬をどんなに欲しいと常々思っていたことか。
その夜、父は私を縁日につれて行ってくれた。家の前の路地を出外れると、「さあおんぶしてやろう」と父は往来にしゃがんで私をその背にのせた。ちょうどもっと小さい時分に肩車にのせてくれたように。
縁日の屋台店で私はゴムまりを見つけた。どれでも好きなのを取れと父は言った。私は紅い花の模様のある毬を大きいのと小さいのと二つを取った。屋台店の上にはまだいろいろなのがあった。私はそれらにぼんやりと見とれた。
「まだ何か欲しいかい」と父は訊いた。
私は黙ってかぶりを振った。
「かわいそうに……」と父は急いでそこを離れてから声をうるませて言った。「お前はまだいろんなものが欲しいだろう。お父さんも買ってやりたいが……お父さんは今非常に貧乏をしているんだ……どうか我慢してくれ、ね、ふみ子や……」
胸から何かこみ上げて来るのを私は感じた。けれど、やっと私はそれをおさえつけた。子供心にも大勢の人の前で泣くのが恥かしかったのだ。
私達はなおしばらく夜店の街を歩いてから帰った。明るい町を通りすぎて暗い寂しい路地に這入ると父は言った。
「ねえふみ子や、父さんが悪かったんだ。堪忍しとくれ! 父さんが心得違いをしたばっかりに何にも知らないお前にまで苦労をさせて、ほんとうに済まない。だけどねふみ子、お父さんはいつまでもこんなに貧乏してはいないよ。その時は一番さきにお前を楽にしてやるよ。それまで待ってておくれ……」
父は明らかに泣いていた。声をうるませて、涙をすすっていた。私も泣いた。
私はしかし子供のようではなかった。義理人情をわきまえた大人のように私は言った。
「そんなことどうでもいいの。どんなに貧乏してもいいの。ただ、お父さんの家へ連れてって……賢ちゃんとこへ連れてって……」
「わかってる、わかってる」父は一層しゃくり上げて言った。「出来るなら父さんは連れて行ってやりたい。いくら困るからって、お前一人ぐらいは飢え死にはさせぬ。けれど、今お前を連れて行ってはお母さんが寂しい。お母さんはお前をばかり頼りにしているんだから。だから今しばらく我慢おし。そして母さんや今のお父さんの言うことをよくきいて温和しく待っていておくれ、そしたらお父さんが迎えに来る。きっと迎えに来る……」
父は歩くのをやめていた。路傍に立ったまま声をしぼって泣き続けた。私も父の背にしがみついて、しゃくり上げながら泣いた。
だが、父はいつまでもそうしてはいなかった。やがてはっきりとした口調で「さあ帰ろう、お母さんが待っているだろう」と強い足どりで歩き出した。そして家の側の路地の入口まで来たとき、私を背から下ろして、白いハンカチで私の涙を拭いてくれた。
その夜おそく父は再び荷を負うて、とぼとぼと帰って行った。
それからというもの、私は夕方にさえなれば路地を駆け出して行って表の人通りを眺めた。それは父が迎えに来てくれているように思われたからであった。だけど父はもうそれっきり、私を迎えに来てはくれなかった。
私達はまた引越した。
引越すと、母は何よりもさきに私を小学校に通わせるために学校の校長に泣きついた。そしてやっとその願いが叶えられた。
その学校は前の学校から見るとずっと身窄らしかった。生徒にも貧乏人の子が多くて私にはまず相当した学校であった。だのにそこでは明らさまに私は邪魔もの扱いにされた。
朝、授業が始まると、教師は子供らの名前をいちいち呼んで出席簿をつける。けれど同じように出席していながら私の名だけは呼ばれない。私の隣の子まで来て私がはねられる。今考えると何でもないことだが、でも子供にとってはかなり肩身の狭い辛いことだった。そのために私はわざと遅れて行くか、でない時は、教師が子供らの名を呼んでいる間じゅう机の蓋をあけてその中に顔を突っ込んでいたり、要もない本を披いて読んでいたりした。そして教師に叱られると前掛けの下に手を入れてもじもじしていた。
入学した翌月――多分――のことだった。
ある朝、私は月謝の紙袋を先生に渡した。すると程なく私は職員室へ呼び出された。何のためだか私にはわからない。私は平気な顔をして職員室に這入った。
受持ち教員は私に、私の渡した紙袋を見せて、こう言った。
「これは袋ばかりじゃないか。中に何も這入っていない。どうしたんだね」
無論、どうしたもこうしたもない。私はただ母が月謝を入れてくれたのをもって来たばかりだ。
「どうもしません」
こう答えるよりほかはなかった。
「どうもしないのに中のお金がなくなっているはずはない。途中で何か買ったんだろう」
「いいえ」
「それでは途中で落したんではないか」
「いいえ、鞄の中に入れてあったんですから……」
校長も恐い眼をして私を責めた。買い食いでもしたろうと私を脅かした。遂には私の鞄までもしらべられた。けれど、鞄の中にはお金もなければ買ったらしいものもなかった。
校長と受持ち教員の眼はますます光った。彼らは私が何か買ったのに違いないときめているらしく、そんなことをする不心得を詰った。私はしかしいくら責められても知らぬことは知らなかった。何も知らないと私は言い張った。
小使が私の家に走って、母が呼び出された。校長の前に呼び出された母は、初めはちょっと面喰らったような風だったが、母にはすぐ事の真相が掴めたらしかった。
「それはあの娘がしたのではありますまい。大丈夫そんなことはしません」
こう言って母は、私のために弁解してくれた。母は言った。
「月謝は昨晩、私が入れて、落すといけないから鞄の中に入れておいたのです。それを良人が見ていました。鞄は壁に掛けておいたんですが、多分良人がそれを、工場に行くときに抜き取って持って行ったんでしょう。そんなことは今日が初めてではないんです」
そうして母はなお、そうしたいろいろの実例を話してくれた。実際私もそれを知っている。雑記帳の中に入れておいた鉛筆が、学校に行ってあけてみるとない。私は泣きながら家に帰った。そうしたことは二度や三度ではなかった。
母の話が校長の心を動かしたに相違なかった。私はその時校長が私の母に話したことを傍できいて憶えている。
「こんなしっかりした娘をそんな境遇に置いとくのは可哀相だ。どうだね。できるだけ世話を見てあげるから、いっそのこと私の養女にくれないかね」
今から考えて見て、それは校長が本当に私に同情したためであったか、それとも校長に子がなかったのでちょうどいいと考えたためであったか、それはわからない。けれど、とにかく私には、いやな疑いから解き放たれて、かえって私のために考えてくれるようになったのが嬉しかった。
「ありがとうございます」と母は校長に感謝した。けれど、母は無論私を手放すことはできなかった。母はつづけた。「けれどこの娘は私のたった一人の子で、私もこの子ばかりが楽しみなんですから、どんな苦労をしても自分の手で育てあげたいと思っているんでございます……」
校長はそれでも無理にとは言わなかった。私はまた母の手にひかれて私達の巣に帰った。
このことから、母と中村との間にいさかいがあったに相違なかった。中村は今までにも外で酒を呑んでいたらしかったが、そのために私の月謝までも必要だったのかも知れないが、その後は一層それが甚しくなったようだった。中村の脱ぎ捨てた仕事着のポケットの中からは時々、小料理屋の勘定書や請求書などが出てきた。その癖彼は、台所の入費を節約しろの、炭の使い方があらいだのと母に小言を言っているのだった。
母はまた悩ましい日を送り始めた。思うにそれは、私の父に対するが如くに好いて一緒になったわけでもなく、ただ、生活の便宜のためにのみ一緒になった中村との間のことだから、一層つらかったのに相違ない。が、そのうち中村は、何でも工場の機械か何かを盗み売ったとかいうので、会社から解雇された。
それをしおに、母は中村と別れた。
中村と別れてから、私達はひとまず世帯を畳んで、知合いの家に身を寄せた。母は私をその家に預けておいて、自分は毎日、働き口を探してまわった。そして朝出かけるたびに母は私にこう言うのだった。
「ねッ、表の往来なんかに出て遊ぶんじゃないよ。中村に見つかるかも知れないからね」
察するところ母は、中村が不承知なのを無理にわかれたものらしかった。
母は毎日仕事を探してまわった。が、市内には好ましいのが見つからなかった。ただ、母の知合いのおかみさんの兄が、郊外の田舎の製糸場で監督をしているとかで、母はそこへ行くことにきめたらしかった。
母は嬉しそうに私に話してきかせた。
「その人は何しろ、監督さんだっていうことだからね。監督さんならはばもきくから、その人を頼って行けば、わしらに同情してくれるに違いないよ。きっと何とかなるよ」
子供の私にさえはがゆいほど、母は依頼心が強かった。母は、独りでは一歩も踏み出し得ない女だった。一足歩むにも何か自分を支えてくれるものがなくてはならぬ女であった。といって私は子供である。私は母に従わなければならなかった。
製糸場に行っても、しかしいいことはなかった。第一、頼って行った人は監督でも何でもなかった。実はごく下っ端の釜番だったのにすぎなかった。でも私達はそこで三ヶ月ほどを過した。その間の記憶は不思議に何も残ってはいない。たった一つ残っているのは、ある日、朝鮮飴をもって父がひょっくりと姿を現わしたことだった。
ああ私はその時どんなに喜んだであろう。約束を守って父は私を迎えに来てくれたのに相違ない。父は私を迎えに来てくれるほど、楽な生活をしているに違いない。私はそう思った。
けれど、実際はそうではなかった。父には相違なかった。けれど何とまあ身窄らしくなった父であったろう。彼はもうゴム鞠を買ってくれた父ではなかった。
父が来ると母は工場を休んで父と暮した。別れなかった前のように二人は暮した。が、いつとは知らず、父の姿はまた見えなくなった。何日ぐらい父がいたのか、いつ去ったのか、それさえ印象されてないほど、私も父もお互いに無関心になっていたように思われる。
私達はまた町に舞い戻って来た。母は紡績工場に職を見つけたらしかった。私達は長屋の一軒を借りて住み、私はまた、以前の同情ある校長を戴く学校へ通い始めた。もともと何もないので楽だとはいわれないが、今度は二人っきりで、何も足手纏いもないので、生活は比較的順調だった。二人の上に何か災難でも振りかかって来ない限り、私たち母子は、淋しいながらも親しみ深い生活を続け得るだろうと考えられた。
いつまでもこのままでいてくれればいい。子供心にも私はこう祈りたいような気がした。ところがやっぱりそれが駄目だった。依頼心の深い母だ。それに、男なくてはいられぬ女だったに相違ない――今から考えて見て――母はまた若い男と同棲した。
その男は母よりも七、八つも年下で、その頃何でも二十六、七だったろう。母の知合いの後家さんの家に下宿しているというので、私も無論その男を見て知ってはいる。髪を長くのばして油をこてこてに塗って綺麗に分け、青い絹のハンカチを首に捲いて、そして巻煙草をふかしながらよくそこいらをふらついていた。
この男と同棲することに決めたらしい時に、母は私に言った。
「とても働き者だっていう評判だよ。それに何しろ若いんだからね、うまく働いてくれさえすれば今度こそお前もわしもずっと楽になるよ」
私はいやだった。何となく悲しくさえあった。私は少しこまちゃくれてはいたがそれとなく母に反対してみた。
「あまり働きものでもないらしいよ母ちゃん、昨日だって、一昨日だって、先だって、いつでもぶらぶら遊んでいるのを私見て知ってるわよ」
母はしかし私の抗議には耳をかさなかった。昨日や一昨日遊んでいたのは風邪をひいたので工場へ勤められなかったのだとその男のために弁解して、何しろ稀らしい働き者だと、後家の小母さんが話したということを力説するのだった。
こんな話があってから三日とは経たぬうちに、その男は私達の家に来て、そのままずるずるべったりに私達の家で寝起きすることになった。
その男は小林といった。小林は沖人夫であったが稀に見る怠け者だった。で、彼を下宿させていた――事実は夫婦だったのだが――前科二、三犯もある年増の後家さんも手にあまして、それを私の母に押しつけたのだった。後のたたりのないように母をそそのかして母に乗りかえさせたのであった。
小林は家に這入り込んだきりちょっとも外へは出なかった。たまに仕事に出かけて行っても、時間が遅れてあぶれてしまったとか何とか口実をつけてはぶらりと帰って来た。母もまた、いつの間にか工場をやめて、二人はただ寝て暮した。そしてなるべく私を遠ざけようとした。
ある夜のことだった、もう九時も過ぎたが、私はまだ起きていて、たった一つしかない六畳の部屋の片隅で学課の復習か何かしていた。
小林と母とはすぐ脇の布団の中で、無遠慮にふざけ散らしていたが、そのうち突然母が私に、焼芋を買って来いと言いつけた。寝たまま腕をのばして、母は枕もとの蒲団の下から蟇口を引きずり出して私の方へぽいとそれを投げた。中から五銭の白銅貨と銅貨が三つ四つばらばらと畳の上にころがり落ちた。
「今ごろ焼芋だって母ちゃん」私は不服で母に抗議した。「あそこの焼芋屋は早仕舞いだからもう寝ているわよ」
母はじれったそうに荒っぽく言った。
「焼芋屋はあそこ一軒じゃないよ。裏通りのお湯屋の隣へ行けばまだ大丈夫起きている、はやく行っといで……」
裏通りのお湯屋の脇の焼芋屋。それをきくと私は、子供の私は、身震いするのを感じた。そこに行くには八幡様の森の大樹の下を通らねばならない。
「ねえ母ちゃん、お菓子にしようよ、お菓子屋ならすぐそこの明るいところにあるから」
「いけない! 焼芋でなけりゃいけない」母は疳声をたてて怒鳴りつけた。「お前は親の言うことを聴かないのかい。早く行っといで、この意気地なしめ。何が怖いものか」
母の権幕に怖れて私は決心した。
「じゃあいくら買って来るの」
「ちゃぶ台の脚のところに五銭ころがっている。それだけ買っといで」
母は蒲団の中から顎をしゃくって言った。私は不精不精白銅を取り上げて起ち上った。そして台所の風呂敷を持って勝手元の土間へ降りた。
戸を開けて恐る恐る外を見て私は躊った。ヒューヒュー風が吹いていて外は真っ闇だった。遠くの方からかちかちと火の番の拍子木の音が聞える。斜め左の方に真黒な八幡様の森が聳えている、その森は昼間見るよりも近くに拡がっていて、どしんとおっかぶさっていた。その樹の下を私は一人で通らねばならないのだ。けれど仕方がない。私は行かねばならぬ。
閾の外に立ちすくんで私はもじもじしていた。と、いきなり母は起き上って来て「はやく行かないか」と私を外へ突き出して、ぴしゃりと戸を締めた。こうなればもう運命だ。私はありったけの勇気を出して、死んだ気になって息もつかず駆け出した。森の下をいつどうして通ったのか私は覚えていない。焼芋屋で温かい芋を風呂敷に包んでもらって、再びまたもとの森の下を何物かに追っかけられるような気に追い立てられながら、ひた走りに走って家の中に飛び込んだ。
だが、ああその時! 私は思わず顔をそむけて再びまた暗い戸の外へ跳ね返されないではいられなかった。
母は焼芋が食べたくはなかったのだ。ただ私を追ん出したかったのだ。
春になって学校の修業式が来た。
が、お慈悲で通わせてくれている私には免状など与えられないとのことであった。それでは私は進級することもできないわけだ。母はまた校長のところに行って私のことを頼んでくれた。その結果、私は、尋常一年の課程をおさめたという証明書がもらえることになった。そこで私は、母の知合いの家の男の子の絣の筒袖に鬱金縮みの兵子帯を結んでもらって終業式に出た。
式場の正面の、白い布で覆うたテーブルの上には免状やら賞品やらが高く積み上げられている。左右には白襟紋つきの子供の母達や教師たちが虔しやかに居並んでいる。テーブルを前にして、それ相当の晴衣を着た子供達がずらりと並んでいる。
式が始まった。校長は何か話をしてから、テーブルの前にいちいち子供達を呼んで免状や賞品を渡した。子供達は嬉しそうにニコニコと笑いながら誇らしげに賞品や免状をもらって引きさがった。
最後に私の番が来た。呼ばれるままに私は、子供達の列の間をぬけて、やはりニコニコとしてテーブルの前に立った。最敬礼をして、私は両手を高く上げた。校長は私に紙を渡した。
ああ、実際それは紙だったのだ。ほかの子供達には四角で堅くてぴんとした紙に活字で刷った修業証をくれたのだが、私のだけは、半紙を二つ折にして、筆で何か小さく書いたものだったのだ。校長の手からそれを受け取ると、それはぐにゃりと折れ下がってしまうのだった。
私はどんなに侮辱を感じたことだろう。仲間の皆が手にした上等な免状も賞品も、左右に並んでいる父兄や教師たちも、一体、修業式が行われるというそのことさえも、すべて私を侮辱するためのものだとしか私には思われなかった。こんなことならむしろ来なければよかった。男の子の着物まで借着して来た自分が恨めしかった。
それはまだいい。私の家の暮し向きは日一日と苦しくなって行った。私達はただ売り喰いをしていたのだった。で、鼠入らずももうなくなった。長火鉢も売られてしまった。金に替えられるものは片っ端から売りとばされた。そしてとうとう、私の番になって来た。つまり、私を女郎屋の娘としてだ。
ある日のことだった。
私の家は食うにも困っているということが子供の私にさえわかっているのに、母は私にビラビラの下った赤い梅の花簪を買って来てくれた。それはかねて私の欲しがっていたものだったので、私の喜びようッたらなかった。
母は私の髪を梳きつけて、それを頭に挿してくれた。着物は無論不断着一つしかないのだから新しいのには更えてくれなかったけれど、でも、きちんと格好よく着せなおしてくれた。そうしてくれながら、母は私に、うちはどんなに困っているかとか、お前をこんな風にしておくのは可哀相だとか、いったような話をしみじみと話した。私はついつまされて涙が出そうであった。
だが、そのうち母は、急に言葉の調子をかえて晴々しく私に言うのだった。
「だがねふみや、仕合せなことに、お前を貰ってくれるところがあるんだよ。そこは、うち見たいに貧乏でないし、しまいには玉の輿にさえ乗れるかも知れないんだよ」
私は母と離れて余所の家にやられることが寂しかった。けれど、子供ではあっても、私のために母がどんなに苦労するかを知っていたので、そういったところがあるなら行ってもいいと思った。私は無論「玉の輿」って何だか知らなかった。けれど、そんなものに乗れるということは、きっといいことに違いないと思った。そうして私は悲しいような嬉しいような何ともいえぬ気持ちで母について家を出た。
母は私を、ちょっと小意気な家につれて行った。私達はその家の上り框に腰を掛けて、しばらく待った。すると黒襦子の帯を引き抜きに締めた年増の女が出て来て横柄に私の母に挨拶を返した。
今から考えると、それは芸妓や娼妓の世話をする、つまり人身売買業ともいうべき口入屋だったのである。年増女はじろじろと私の顔を眺めた。そしてこの一箇の商品を前に置いて二人の間に取引きが始まった。
「何といってもこの娘は余り小さすぎるじゃないかね、これがものになるまでには、どんなに割引きして見積っても五、六年はかかる。その間の費用が大変だ。第一ただ遊ばせておくわけにも行かんから学校にもやって、せめて尋常小学校だけでも卒業させにゃならん。その上、お客の前に出て応待のできるように仕込まにゃならん。だから、それまでにするにゃ、かなりのもとでがいるというわけだからね……」
これが先方の懸引であった。
母は……母は、真実悲しい思いをしたに違いなかった。泣きじゃくりしながら母は答えた。
「私は、……私は、ほんとうは金が欲しくてこの子を娼妓にしようというんではないんです。だからお金のことなんかはどうでもいいんです。ただ、私が余り貧乏しているので、そうした方がむしろこの娘の仕合せになると考えたからなんです」
「それはそうだろう。いくら娼妓でも出世すればまたたいしたものだから……」
と、買い手は私の母の弱点につけ込んで、それに相槌を打つと、母はここぞとばかりに持って来ていた私の父の戸籍謄本や系図の写し見たようなものを見せて、私の家が、父のいわゆる何とかいう氏族の末裔に当るということを対手にわからせようと努めた。そして附け加えるのだった。
「そうすれば何かにつけて肩身が広いだろうと思いまして、そして、出世にも都合がよかろうと思いまして……」
多分対手の女はいい小鳥が網にかかったと思ったのだろう。お金のことは母もさほど不服そうでなく話は大体きまったようだった。
私は無論、母がつれ出すときと話が大分違っているのを知っていた。けれど私にはまだ娼妓はどうの芸妓はどうのといったようなことがわからなかった。その上、学校にもやってくれ、行儀作法も教えてくれるのだと思えば、さほどいやでもなかった。
ところが、それでは私がどの方面にやられるのかということになってから、母が考え出した。年増女は私を、東海道の三島にやるのだと言った。三島と聞いて母は急に憂鬱な顔になった。
「もっと近いところへやってもらえないでしょうか」母は嘆願するように言った。「三島といえば余り遠すぎて時々会うこともできませんから……」
「そうねえ」相手もちょっと当惑した顔をして答えた。「生憎近いところには口がなくて、ただ三島からだけ口がかかっているんでねえ……」
母は幾度か、もっと近いところを主張したが、相手はそれでは駄目だと言った。そこで母はとうとう断念したらしかった。
「それではまた、いつかお願いすることにしましょう」
こう母は残念そうに断って、そして私達は、また暗い寂しい家に帰った。今から考えてそれはどんなにか私の幸福だったろう。のみならず、母が私を、そうする方が私の幸福だと考えたからだと言ったこともうそのような気がする。なぜなら、ほんとにそうだったら、私にたびたび会えないからといって断る理由がないと私は考えるからである。
最後のものを売り損ねた一家はどうにもこうにもならなくなった。家主は毎日のように家賃の居据り催促をする。近所の小店は何一つ貸売りしてくれない。そこで、母と小林とはこっそり相談をしたのであろう、ある夜私達は家財道具のありったけをてんでに背負って夜逃げをした。落ちついたさきは、ずっと場末の木賃宿だった。私達はとうとう「どん底」生活に落ち込んだのである。
私達は三畳の部屋を借りていた。他の部屋には人夫や蝙蝠傘直しや易者や手品師や叩き大工といったような手輩が一緒くたにゴタゴタ住んでいた。多くは雨が降ろうが日が照ろうがブラブラ遊んでいて、いよいよ切迫つまって初めて不精不精に印袢纏をひっかけたり破れ袴の皺をのしたりして出かけた。そして、帰りには安酒を呷ってぐでんぐでんに正体もなく酔っ払って来た。するとまた乱ちき騒ぎが始まる。ばくちを打ち、辻褄の合わぬちぐはぐな駄ぼらを吹き合う、そしてその揚句のはては恐ろしい喧嘩だ。
こうした空気の中に在って、怠け者の小林が働こうはずはない。子供の私にさえじれったくなるほど、そして、しまいにはよくもこんなに飽きないものだとほとほと感心したほど、来る日も来る日も小林は、朝から晩まで部屋の隅にころがってぐうぐう眠っていた。
私達は一日に三度の飯を食べたことは滅多になかった。まるっきり食べない方がかえって多かった。私はいつも空腹であった。今でも私は空腹の時には思い出す。私が空っぽの胃を曳きずってひょろひょろ街を歩いているうちに、ある家の芥溜めの中に、焦げついて真黒な飯が捨ててあるのを見て、そっとそれを口に入れたことを。そしてそれをどんなに美味しいと思ったかを。
「ほんとにお前に苦労をかけてすまない」と母は常に面目なさそうな顔をして私に詫びた。
私が、「あんな男と一緒にいるからだわ」と言うと、母は一層困ったような顔をして言うのだった。
「今少し働き者だろうと思っていたのに、ほんに呆れた奴だ。もう懲々だ、ほんとにこりた。誰が何と言っても、石にかじりついても独りで暮した方がよかった。あの時からずっとお前と二人きりでいたら、こんなにも落ちぶれはしなかったろうに」
母は悲しそうに首を垂れた。しばしば言葉もとぎれた。もう一度顔をあげたときには諦めたように、ややはきはきとものを言った。
「だけど今じゃもう別れたくっても別れられない破目になっている。こんなことだったら、いつか別れかけたときに一思いに思い切ってしまえばよかった……」
私には何のことだかわからなかった。ただ母の意気地なさがはがゆかった。
母はしょっちゅう小林に文句を言いつづけた。けれど小林は挽臼のように動かなかった。母は諦めたように独りで麻糸つなぎの内職をしていた。そのうち母さえもそれを止めてしまった。どこか悪いらしく生気のない顔をしていつも寝転んだり起きたりしていた。
でも私は何といっても子供だった。そんな苦しい目にあっていても、やはり外に出て遊びたかった。ある日も私は近所の子供と附近の土手下で遊んでいると、そこへ母がひょっくりと大儀そうな足どりでやって来て、私を呼びとめた。
「なあに母ちゃん」と私が答えると母は力のない声で、そこいらに鬼灯の木がないかと訊いた。子供は親切である。みんなしてそこいらを探してくれた。そして容易にそれをすぐ側の橋の下にあるのを見つけた。中にはとっくからそれを知っていて、それの大きくなるのを待っているものもあったのだが、自分でそれをひっこ抜いてくれた。
「ありがとう」と母は言って、根もとからぽっきりと折って根を袂の中に入れて帰って行った。
その夜私は、その鬼灯の黄色い根だけが古新聞にくるまれて、部屋の棚の豆ランプのわきに載せてあるのを見た。
今から察すると、母は妊娠していたのだ。鬼灯の根で堕胎しようとしたのだ。