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現代語訳 方丈記
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現代語訳 方丈記
鴨長明
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원문 Public Domain
Chapter 2 of 5

2

私はふとした偶然の事から摂津の国の福原の新しい都の有様を見る機会を得たのでその状態を述べて見ると、先ずその広さと云うものは京都に比べると実に狭いもので、京都に習ってその市街を碁盤の目の様に区劃する事さえ出来ない有様なのである。北の方は山になっていて高く、南の方は海に面して低くなっている。そして海岸に近いので浪の音が絶えず騒々しく響いて来るのである。海から吹いてくる潮風が殊の外に強い所であまり恵まれた土地と云う事が出来ない有様である。さて最も重要な皇居は山の中に建てられてあった。ふとその建物を見て斉明天皇の朝倉の行宮の木の丸殿もこんなのではなかったかと思えて考え様によっては存外に風情があって、風変りなだけに雅致のあるものであるかも知れないとも思われた。こう云う新しい皇居のお有様、新しい都の状態であった。

京都の方では毎日毎日引越に人々は忙しかった。多くの住居は毀されては筏に組まれて河を下って運ばれるので、さしもに広い淀河も如何にも狭い様に思われる程筏で一杯になってしまった。この様にして多くの家が福原へと運ばれているのであるが、福原の土地を考えて見るとこちらから送られた程には家が建っていないからまだまだ空いている土地が多くあった。建ててある家の数は少ししかない。一体あれだけ、河幅が狭く見える位に送られた家は何処に建てられるつもりか又何処に建てているのか一向に見当も付きそうにはないのであった。

京都は益々、日々と荒れ果てて行く、そして新しい都福原が都として完備するにはまだまだ日数が必要なのである。こんな時勢の間に住む人々の心持の落ち着こう道理もない。まるで青空に浮び漂う雲の如くに風の間に間に動いて真に不安定そのもの、人々の心は暗かった。元から福原に住んでいた人々は新しくお天子様と一緒にやって来た官人達の為にその土地を奪われてしまって嘆き悲しんでいる。又新しくやって来たそれらの官人達は自分達の住家を建てなくてはならないので、その面倒な仕事の為に苦しんでいる。どのみち好もしい事どもではないのである、ふと往来を行き交う人々に目をやって見ると牛車に乗るべきである所の貴い身分のものがそんなものには乗らずに馬に乗ったり、衣冠布衣を着ていなければならない筈の大宮人達は新興の勢力に媚びて武家の着る筈の直垂などを着て大宮人の優美な風俗を無くしてしまい、そうして遂には都らしい優美に、雅致のある風俗は見る見る中に無くなって唯もう田舎めいた荒々しい武士と少しも変る所のない真に情けない有様となった。

ほのかに聞き伝える所によると昔の聖天子様の御代には御政治の中心点は一般庶民を憐れむと云う所にあった様である。民草達が貧乏の為に苦しんでいる時とか、何かの変事の為に苦しんでいる時などは尊貴の御身であらせられながら御自身のお住いの皇居の事などは少しもお構いなさらずに、軒の端に不揃いな茅の端が出ていてもそれさえお切りにならせられずに、その上に民草が食べるお米のない時には年貢さえも免除された程なのである。こうした御事は世を平和にお治めなされたいという忝い大御心から出るのであって有り難いものなのである。所が現在の有様はどうであろうか、やれ都の移転だとか何だかと云っては人心を平和に治める所か不安のどん底に落し入れている有様ではないか、もっともこれは清盛が無道の極端な専横の現れなのであるが、何にせよ昔の聖天子様の御代の事を考え合せて見ると実に隔世の感に堪えぬ有様は、真に嘆かわしい事である。

養和の頃の出来事であったと覚えているが何分にも古い事ではっきりした時は云われないのだが、その頃の二年の間と云うもの実にひどい飢饉のあった事があった。実に惨憺たる状態を呈した事があった。春から夏にかけての長い間に一滴の雨すら降らず、毎日毎日の日照り続きで田畑の作物は皆枯死してしまう有様であった。それかと思うと秋になると大風があったり、大雨が降って大洪水になったりして全く目も当てられない様子で穀物等の収穫はまるで無く、唯徒らに田を耕し畑に種を蒔いたのみでその甲斐はなく、秋の忙しい苅入れ時には何もする事がなく、全くの、前代未聞の災難が起ったのである。だから一年分の米もなく、食物もない有様である。

食物の無い先祖伝来の土地の生活、それは苦難の連続でなければならない。だから人々はその先祖代々住みなれた土地を見捨ててしまって諸国を放浪して歩いたりする様になった。またある人々は家や耕地を全で見忘れたかの様に見捨ててしまって山の中に入り込んで暮らしたりしていた。山の方がまだまだ木の実等の食物があったからであろうと思われる。

こうした真に惨憺たる状態にあっては人々は自滅の途を辿るより他に道がないと天子様の方でも御心配にならせられて色々な御祈祷や特別に霊験あらたかなと云われている修法等を執り行わせられたものであるが、一向にその験も現れては来なかったのであった。

元来京都の人々は何事によらずその物資の供給を総て田舎から受けているのであるから、その供給者である田舎が天災の為に物資が全然取れなかったのであるから、京都の人々は勿論物資の不足を告げる様になって来たのである。京都は全く物資の供給者を失った事になったのである。こうなると困るのは京都の人々である。第一に食物を得る事が出来ない。

それでその食物を得る為にとうとう恥も外聞もなく、家財道具を捨て売りにしてはお米を持っている人々の所へ買いに行くのだけれどもこう物資の不足している時に大事なお米は売れないとあって、とても高い値でなければ売ってくれない。こう云う状態だから、どれだけお金があっても宝物があってもどうにもならない有様である。だからだんだんと日の経つにつれて乞食共が多くなって来て、路傍に一杯群がって食を乞うその哀れな叫び声が道に満ち溢れて聞えて来る様になって来たのである。しかし養和元年もこの様な惨憺たる有様の中にどうやら暮れてしまったのである。

明けて養和二年、人々は今年こそは物資の豊かな、平和な世に立ち直るものと期待していたのであるが、その期待は見事に裏切られてしまった。と云うのはこういう飢饉の惨状の上に、またその惨状を上塗りするかの様に疫病が流行し出したのである。人々の惨状は目も当てられず、益々ひどいものとなって行ったのである。元の様な平和な世は何処へ一体行ってしまったのかとうらみたくなる位であった。

人々は飢饉で弱っている身に疫病の難に罹り、多くの人々はその生命を落して行った。一方物資の欠乏は益々ひどく人々は苦難のどん底に落ちて行った。この有様は丁度水の少い所に沢山の魚を入れた様なものであって、所詮は皆その生命を奪われる悲しい運命にあったのである。遂には相当な身分の人達でさえ脚絆に足を包み、顔を笠にかくして、恥しさを忍びながら軒並に食を乞いながら歩くと云う有様になった。この様に食を乞いながら歩いたとて食を与えてくれる家とてあろう筈がないので、人々は疲労困憊その極に達してしまって、今そこを歩いていたかと思うと直にバッタリと殪れてその貴い生命を落すと云う事は、もう極く普通に有り得ると云ういとも哀れな状態にまでなってしまった。だから街路には何処へ行っても行き倒れた哀れな人々の死骸が見出された。あちらの土塀の前、こちらの門の前と云う様に全く目も当てられない有様だった。その上にこれらの餓死し行き倒れた人々の屍を取かたづけ様とするものがないので、日が経つにつれてだんだんと屍は腐って行って、型が崩れ、悪臭は芬々として街中に溢れていたのである。街がこの様な状態なのであるから、鴨の河原などに至っては、実に数多くの屍が一杯に溢れていて、その為に牛車や、馬車の通る道すらもないと云うひどい有様であった。

山へ行って薪を取って、これを都の人々に売ってその日の暮しを立てている賤民や、樵夫達は飢の為に最早その毎日毎日の仕事すら出来ないのである。その為に都の人々は薪が不足して来たのである。だから全くのよるべのない一人者等は、自分の住家を破壊しては薪にこしらえて、これを薪に困っている人に売ろうとするのであるが、一人が街に出て売って来る代価だけでは、その人一人すらの生命を保つだけの価にもならないと云う悲惨な有様である。それにも増して奇怪と云うか、哀れと云うか、真に変な事があった、と云うのはこうして薪の不足を補うべきものの中に立派な塗のしてあるのや、金銀の箔の付いた材木が時々混っている事であった。これは真に奇怪千万と色々と考えて見ると、いよいよ飢の為に困った人々が、売るべきものは皆売りつくしてしまったものだから、寺院の中へこっそりと入って行って仏像を盗んで来たり、御堂の道具をむしり取ったりして、それを薪にして売りに出したものだと云う事が解って来たのである。物資の欠乏がかくまでに人の心を濁らせるものかと暗然たるものがあった。こうした大変な世の中に生れ合したばかりに楽しかるべき人生に、こうした悪濁の姿を見なければならないのは真に情けない事である。

世を挙げての悲惨な中にもまして最も哀れであるのは、お互に愛し合っている人々の運命である。相愛の夫婦、深く愛している夫を持ち妻を持つ人々は自分は兎に角として先ず愛する夫へ、愛する妻へとなけなしの食物すらも与えるのが人情である。こうした人々は必ず深く愛する者が先に餓死しなくてはならないのはあまりにも明白な事である。

この事は親と子の間には最も明白に現れるのであった。親を愛さない子は世にあるとしても、子を愛さない所の親は無い筈である。だから親は必ずその得た食物を子供に与えてしまうので、親は必ず先に餓死しなくてはならないのである。真に最も強き愛は親の子に対する愛と云わねばならない。こうした変事の時には最も明らかに現れるのである。母親の乳房を求めて泣く子供が方々に見られるのであるが、既に母親は死しているのに、その屍に取り付いて泣く赤んぼのいたいけな姿は、この世での地獄と云っても決して言い過ぎでない様な気がするのである。全く京の街々は昔の平和はどこへやら、今は生きながらの地獄の責苦に遭っている有様である。

その頃仁和寺に隆暁法印と云う出家があった。この人はあまりにも悲惨な世の中の有様を見、またかくも多くの人々が日々に死して行くのを嘆き悲しむのあまり、何とかして死した人々に仏縁を結ばせてやりたいものだと発願したので、毎日毎日街を歩き廻って屍を発見する度に、その額に阿の字を書いて極楽往生を念じたのであった。こうして阿の字を書いて成仏させた人数はどれ程あったかと云うと、四月と五月の二ヶ月の間に阿の字を書いた死骸の数は、都の一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東の、その間だけでも驚くなかれ総て四万二千三百余もあったと云うのだから、どれだけ大きな変事であったかと云う事が解ることと思われる。二ヶ月と云う短い間にさえこれだけの死者を出しているのだから、ましてその前後に於て死している人々の数を入れて考えて見ると、莫大なる数になり、都の住人の総てが死したのではないかとさえ思われたかも知れない。その上に河原や、白河や、西の京の死者をもそれに加え、全日本の死者の数をも加えて行ったならば全く際限もない、途方もない数になったのは云うまでもない事である。その昔崇徳天皇の御代の長承の頃にも、この様な飢饉のあったと云うことを私は聞いているのであるが、その時の状況は目のあたり見たのではないから全く知らない。が今度の飢饉は目のあたりにその惨状を見せられて、如何に飢饉のひどいものであったか、今度のは全く稀有の椿事であり、前代未聞のものである事には違いなく、全く以って何とも言い得ぬ哀れな出来事であった。

同じ頃の出来事なのであるが、もう一つその上に大きな地震と云う災難に見舞われた事があった。その地震と云うのが今まであったどれよりも強く、従ってまたその被害も常日頃の様なものではなく実にひどいものであった。大きな山は地震の為に崩れて来て、下に流れている河を埋めてしまったり、海の水は逆行して岸辺に上り、更に人の住家のある所まで流れて来たりした程であった。又土地が二つに割れてその間から水が湧出して来たり、大きな岩がゴロゴロと谷間にころげ落ちたりして、いやもう大変な物すごさであった。海に出ていた船は地震の為に、大波の為に木葉の如くに翻弄され、道を歩いている人々や、馬や牛などはひょろひょろとしてその足場を失って倒れたりする始末で大変な騒ぎであった。

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