Chapter 1 of 6
一
ある映画のダイアローグが、面白いか、面白くないかといふことを特に取りたてて論じてみたところで、それはあまり意味のないことである。なぜなら、面白いダイアローグは、面白いテーマや面白い人物の面白い組合せから生れるものだから、作品全体のなかに、作者の思想や才能の質として、既にその根がおろされてゐるわけであつて、ある作品の「ダイアローグが特に面白い」といふ場合はおほむね、その作品のダイアローグが、専門の劇作家の手に成り、その劇作家がまた、機智に富んだ喜劇作者である場合に限られてゐるやうに思ふ。
フランス映画に例をとるとよくそのことがわかる。
しかし、一般に、発声映画の魅力の大きな要素の一つとして、ダイアローグを計算に入れることは今日常識となつてゐる筈である。それゆえに、欧米のトーキーは、あらまし、ダイアローグを誰が書いたかがわかるやうになつてゐて、その責任を監督のみに負はせない仕組になつてゐる。
いはゆる文芸映画と称せられる小説の映画化でも、原作の「会話」のある部分をそのまま使ふやうなことはしない。なぜなら、小説の会話はなんとしても映画の会話にはならないからである。その意味では、戯曲の会話も、そのままでは「映画的」とは言へない。
ただ、戯曲作家ではないまでも、戯曲的な対話の書ける作家のダイアローグに対するセンスは、映画のシナリオ製作に当つて、大いに利用すべきだと思ふ。
もし、それがうまくいけば、専門のシナリオライタアと、専門の劇作家との協力によつて、日本映画のダイアローグは、ある程度、現在の水準を高めることができるのではないか。