Chapter 1 of 1

Chapter 1

荒廃した庭園の一隅。

藻屑に覆はれた池のほとり。

雑草の生ひ茂つた中に、枯れ朽ちた梅の老樹。

晩春――薄暮。

少年が一人、ぽつねんと蹲つてゐる。手に持つた竹竿で、時々、狂ほしく草叢を薙ぐ。顔は泣いてゐるが、涙は出てゐない。

帽子が傍らに脱ぎ棄てゝある。

少女の声が池の彼方に聞える。

――もう遅いから、あたし、帰るわ。

別の声が之に応へる。

――えゝ、ぢや、また明日ね。

ついで、

――さよなら。

――さよなら。

寂寞。

少年は、手で草を引き抜き、その茎を噛む。

かすかに、飴屋の囃し。

突然、太い男の声。

――一郎。

少年は、飛び立つやうに驚く。

――一郎。

少年は、おづおづ、梅の樹に縋る。

――一郎。

癇走つた女の声 ――あなたは、一郎を連れて、何処へでも行つて下さい。男の声 ――おれにはおれの仕事がある。(間)暗い。ランプは誰がつけるんだ。

少年は、しくしく泣き出す。

女の声 ――三郎。(間)三郎。(間)お前は、また、なにしてるんだい、そんな暗い処で。早く兄さんを呼んでおいで。男の声 ――電気はまだ来ないのか。女の声 ――静かにして下さい。赤ん坊が眠てるんですよ。男の声 ――黙つてろと云ふのか、よし、黙つてゝやる。一生、黙つてゝやる。

長い沈黙

「兄さん、兄さん」と呼ぶ声。弟らしき少年が現はれる。

三郎  兄さん、御飯。一郎  …………三郎  御飯だよ。すぐ来ないと、また叱られるよ。一郎  …………三郎  暗くなると、また道がわからなくなるよ。一郎  僕たちがゐなくなつたら、お父さんやお母さんはどうすると思ふ。三郎  …………一郎  お前は、お父さんやお母さんが好きか。三郎  …………一郎  お前は、お父さんや、お母さんが怖いかい。三郎  兄さんは怖くないの。一郎  もう怖くない。三郎  どうして。一郎  いゝことを考へたんだ。二人で何処かへ隠れてやるんだ。池ん中へ落ちて死んだと思ふよ。びつくりするぜ。三郎  またあとで叱られるよ、きつと。一郎  さうしたら、ほんとに死んでやるさ。わけはないよ。三郎  死んでどうするの。一郎  わからないかなあ……。ほんとに死んだら、お母さんが泣くよ。お父さんはどうかなあ。やつぱり泣くよ。義ちやんが死んだとき、伯父さんが泣いてたぢやないか。三郎  僕は、泣かないと思ふなあ。

三郎  なんだらう、あそこに動いてるのは。一郎  どこで。

(二人は池の面を見つめる)

三郎  いつかの白いもの、まだゐるかねえ。一郎  ゐるさ。

三郎  もう駄目だよ。今から帰ると……。きつと、燈火がついてるから……。僕のせいぢやないから、いゝや。

一郎  さ、早く隠れよう。(三郎の手を取る)三郎  (躊躇しながら)また叱られるつてば。一郎  馬鹿、叱られるのがそんなに怖いか。僕の云ふことを聴かないんだね。三郎  だつて、お父さんが来るかも知れないよ。一郎  お父さんが……。いゝから、裸足におなり(自分も下駄を脱ぐ)さ、おいでつたらおいでよ。(弟を引張る)泣くとひどいよ。三郎  (無言のまゝ之に抵抗する。兄の手を振り放つて逃れようとする)一郎  (追ひかけながら)よし、云ひつけるんだな。(弟を捕へる)三郎  (死にもの狂ひに)おかあ……。一郎  (その口を手で塞いで)三郎。

(長い沈黙。三郎は、後すざりをしながら、兄から遠ざかる。一郎は、ぢりぢりとつめ寄る。と、急に、二人は耳をそばだてる。跫音が聞える。三郎は、兄の腕に縋る。今度は、二人が、同時に、後すざりを始める。梅の樹の蔭に隠れる。やがて母らしい女が現はれる)

母  三郎。(間)一郎。一郎  (姿を現はす)母  いつまでも拗ねてるときかないよ。三郎はどうした。一郎  …………母  三郎は、こゝへ来なかつたかい。一郎  来ないよ。母  来ない。何さ、その顔は……。どうしたんだい、そんなに顫えて。一郎  三郎はもうゐないよ。母  何処に。一郎  うちにゐないよ。母  免倒臭いね、此の子は。さ、知つてるなら早くお云ひ、三郎は何処へ行つた。一郎  死んぢやつたよ。母  (半ば信じ、半ば疑ふものゝ如く、あたりを見まはす)一郎……お前は……(一郎の肩に手をかけようとする)一郎  (素早く身をかはし)お母さんは、三郎がきらひなんぢやないか。

(息苦しい沈黙)

母  (強ひて穏かに)三郎はどうしたか、お云ひ(また、一郎の手を取らうとする)一郎  (後すざりをしながら)池……池の中だよ、池の中へ落ちたんだよ。母  (急に取乱して)え、お前が見てゝ……、何時だい、それは……(かう云ひながら池の岸に駈け寄る)何処で……え、何処で……なぜ、お前は……。

(此の時、梅の樹の蔭で、三郎のワツと泣き叫ぶ声。母は三郎を引摺り出す)

一郎  (絶望的な眼を、その方に投げる)母  (唖然として一郎の顔を見つめる)一郎  (此の刹那、母の視線を避けて、いきなり池を目がけて飛び込まうとする)母  (それを抱き止め、厳かに)一郎。一郎  (藻掻きながら)だから……だから……僕が死ぬよ、いま、死ぬんだよ……。(声をあげて泣く)母  (一郎の頭をかゝへ、おろおろ声にて)一郎、どうしたのさ……お前は……。(一郎と三郎との泣き声が、交々母の言葉を途切らす)一郎や、後生だから、母さんの云ふことを聴いておくれ……。

(あたりが真暗になる。水面に微光がうかぶ)

●図書カード

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