銀ぶら道中記(一)
銀座通りで、昔から今まで残っている店は私の思ったより多いが、しかし大多数はどん/\移り変って行く。青柳という菓子店は古くから覚えている。ゑり治は、ゑりえんと共に私の姉などのよく親しんだ店の一つで東都の半襟の大頭の一つである。長寿庵というそば屋も古い。一体この地代なり店員なりの高い銀座通りに、そば屋が昔からあるということはちょっと異なものであるが、しかしそばとても決して馬鹿に出来ないものなのだということをこの店や、四丁目のやぶそばが証明しているのだと見ることも出来る、やぶのことは四丁目に行ってからかこう。とも角も、昔からの古い店をたどりつつ、又新しき店ものぞき、又昔あった有名、無名の店々の思い出をこれからたどってみよう。
松喜という牛屋はいつ頃から出来たか、ずっと以前はなかった様だ、しかし二十年位は経つだろう。銀座の牛屋では一丁目に吉川というのがあって、今は新橋ステーションわきの有楽軒?というレストランをしている。この辺の事は又あとでかこう。牛屋も一時、カフェーやレストラン等の興隆とともにパッタリさびれて、『いろは』をはじめ大どこが大分店をしめたが、近来又々盛んになった。何といっても日本人と牛鍋は、たとい味は新しくとも、離すに離せぬ間柄であろう。牛屋の姉さんというものはこれまた昔かわらぬ趣がある。もしそれ牛屋の姉さんが断髪になって現れたら、これは事だ。しかし、高浜虚子先生の説の通り、ちぐはぐにみえるのも、いつかは目なれるという事は本当だから、その中断髪嬢が『ナマお代り』といって皿を肩へのせて階段を上って来るかもしれぬ、いやもう来ているかもしれない。
八呎屋も昔は額ぶち、洋画店である。ここの主人はかわり者で名高い、河村清雄先生の絵が以前沢山あったものだ。河村先生は私は私淑した事はないが、今となってみると先生の洋行時代のあの古い西洋くさい画もなつかしい。資生堂は昔は薬専門の家であって、私の生家とは同業で、よく福原々々ということを耳にした。今は化粧品で名高く、嬶殿などは大のひいきである。当主が国展の方の後援者で又写真の大家であり、階上は小展覧会場としてよろしい。横丁へだてた手前がちょっとしたランチ風の食事やのみもののうまいのをのますところになっている。ここは、もうかれこれ十六、七年前からカフェーをはじめていて、私はその時分ここを油絵にかいて出品したこともあった。信盛堂はそう古くもないが新しい店でもない。赤いのがその店の看板か、しかし、安くていい品を売るので、私も大いにここを愛用?している。山の手の会社員風の人が常に雑踏してものを買っている。かめ屋は古い。昔のかめ屋は横丁に向いた白赤色の壁を持っていてペンキで非常にうまく、西洋風のポンチ絵のような絵がかいてあった。やはり食料品のポスター風のやくめをしていたものであろうが、その絵が何か西洋の絵を模写したものらしく、当時のペンキ画工の中々描き得るものでなかったゆえであろう、絵の好きな私は、ひどくこれを崇拝し時々行ってみては感にたえて、行って来ては真似して描いていたものである。
かめ屋の横丁の次の角が、近頃出来た沢正関西料理店という家だが、一円定食としてある。上ってはみないが何だか変てこな名である。美濃常も古く、天賞堂も古い。この天賞堂は私共夫婦がはじめてささやかな家を持った時、柱時計を買った思い出がある。何しろ売り出しと、低価提供時間等で名高いからお上りさんや、山の手に一層有名である。しかし、品物も上等であろう。