돌아가기
エタに対する圧迫の沿革
Table of Contents
エタに対する圧迫の沿革
喜田貞吉
Reading Settings
글꼴 크기
18px
테마
라이트
다크
세피아
눈 보호
줄 간격
읽기 모드
번역 Pagera AI
원문 Public Domain
Chapter 2 of 6

2 江戸時代前期以前のエタの待遇

エタに関する同情なき取締令の出ているのは、多くは徳川時代も中頃以後の事であった。江戸では天正十八年徳川家康の入国の際、前例により弾左衛門祖先に長吏以下の支配を命じ、大抵の事はその自治に任して、種々の公役に従事せしめた。すなわちエタは一種の村役人町役人の形であった。京都でも下村勝助に百九石七斗七升の高を与え、エタ頭として皮田村の仲間を統率し、別に役俸を与えて公役に従事せしめたのであった。その他諸藩に於いても、特に規則立ちたる取締りという程の事もなく、大抵は彼らの旧慣に任して、村方の雑役に服せしめたのである。したがって判断に困る様な問題の起った時には、領主より彼らに命じて、「穢多の水上」たる京都へ上って、従来の振合いを間合わさしめるという程の有様であった。丹後舞鶴領行永村ほか十二箇村のエタの如きは、延享元年に至って始めて全体を通じてのエタ頭を定められたのであって、それ迄は各自村限りの自治に委しておったものらしい。そして他の諸地方に於いても、大抵こんなものであったと察せられる。

かくの如き有様であったから、官庁並びに一般社会の彼らに対する待遇が、そう特別に彼らに対してこれを賤しんだという様な事は想像されぬ。別項「青屋考」中に述べた如く、細川・三好時代の阿波に於いては、一方に僧侶の或る者からは、エタ仲間と認められた青屋が甚だしく毛嫌いされていたが、一方では彼らは大名の小姓ともなり、侍の嫁ともなり、或いは自身侍に取り立てられたりしても、あえて不思議はなかったのであった。徳川時代もやや下った元禄十二年の阿波藩の取締令にも、

穢多ども着類其外諸品、百姓共へ申付候趣に准じ、尚以軽可レ仕。常々法外之仕方多有レ之様相聞不届に付、向後右様之類於レ有レ之は、所之庄屋五人与より申出候様申付候事。

とある。元禄の頃は当路者も多少エタの度外視し難い事を知って、その取締りに注意し出した頃であって、それが為に、右の様な命令も出たのであろうが、それでもなお服装その他百姓に準じ、幾分それよりも軽くすべし位の程度であったのである。これは単に阿波藩だけの例ではあるが、以て一般を類推するをうべく、従来エタが特別に百姓と区別された程の事のなかった事情が察せられる。実際彼らは後に説くが如く、むしろ村人から歓迎せられ、為政者から優待せられ、他人の忌がる役儀を引き受けて、必要欠くべからざる一種の村役人・町役人であったのである。

Chapter 2 of 6
|
광고
읽던 작가의 책을 무료로
다자이 오사무, 아쿠타가와 같은 고전부터 신간까지. 전자책은 바로, 종이책은 집으로 받습니다.
캠페인 둘러보기